第32話
カタカタという小さな音で目が覚めた。
真っ暗な中、四角の光が眩しくて一度目をぎゅっと瞑る。
のそのそと起き上がると、隣にはパソコンを膝に置いて仕事をしているマルクがいた。
電気が点いていない中、パソコンの画面から放たれる光が目立つ。
目を細めて腕時計を見ると、夕方であることを知り、急いで立ち上がり辺りを見渡す。
「どうした」
「い、いえ。仕事が…」
メールが届いているか、電話がかかってきたか、その確認をしようと思ったがその相手は今隣にいる。
確認も何も、マルクが起こさなかったのだから仕事はなかったのだろう。
徐々に覚める頭。
勢いよく立ち上がったのだが、何事もなかったかのように座った。
「そういえば、お前の家にあったもの全部持って来させたからな」
「….はっ?」
「部屋に置いてっから後で確認しておけ」
「…え?」
何故、自宅にあるものをここに移動させたのか。
それ以上は話す気がないのか、仕事に集中したいのか、キーボードを叩いている。
いや、説明を求む。
「私の荷物がすべてここにあるということは、私はここに住むということですか?」
「あぁ」
「…何故でしょう。あの家はどうなりました?」
「毎回呼び出すのが面倒だ。お前が住んでいた場所はそのままだからセカンドハウスにでもしろ」
「な、なるほど…?」
呼び出すのが面倒だと言うが、前任の運転手もマルクと一緒に住んでいたのか。
急な展開に頭痛がする。
とにかく効率を重視したところ、同居した方がよいと判断したということだろう。
恋人同士でもない、家族でもない、ただの仕事仲間である。例えば今後サツキに恋人ができた場合どうすればよいか。それを考えたが、恋人がいる未来が見えない。職業柄、一般人の恋人はできないだろうから、有り得るとしたら社内恋愛。しかし社内恋愛となるとイかれた連中ばかりであるので、惹かれる男なんていない。
マルクに恋人ができるかもしれないが、その場合はきっとサツキを追い出して終わりだ。そうなればサツキはセカンドハウスに逃げればいい。さすがにマルクとその恋人とサツキの三人で暮らすことはしないだろう、と思うが頭のおかしい奴は常識なんて持ち合わせていない。三人で暮らす未来だってあるかもしれない。
画面から視線を逸らさないマルクをぼーっと眺める。
「なんだ」
「今日はお休みですか?」
「あ?」
「仕事はないのですか?」
「犬が寝てたもんで」
「…すみませんでした」
「夜、出るぞ」
「はい」
サツキが寝ていたから、仕事に行けなかったわけではないだろう。仕事があるなら起こせばいいだけである。起こさなかったのは優しさか、仕事がなかったか。大量の情報を記憶させようとしていたので仕事はたくさんあるのだろう。気を遣って、起こさなかったのだとサツキは推測する。
気を遣った、ということが引っかかるが人殺しにも優しさがないわけではない。はずだ。
その優しさがサツキに向けて発揮されたのならば、喜ばしいことだ。
それにしても、とキーボードを叩く細い綺麗な指を見て、失礼なことが頭を過る。
いや、思っては駄目だ。失礼なことを考えると目敏いマルクは「何か言いたそうだな」などと追い詰めてくる。
「何か言いたそうだな」
そう、こういう風に。
「おい、聞いてんのか。なんだその顔は。何が言いたい」
目敏いマルクは虫けらを見るような視線でサツキを追い詰める。
まだ頭を過っただけで、思ってはなかったのに、鋭い。
頭の中を読まれたようで無意識にマルクから視線を逸らすと、片手で両頬を掴まれた。
「んむっ」
「言え」
殺気は飛ばしていないので、優しい方だ。
掴まれている両頬の骨がみしみしと潰されていく。
「い、いひゃいれす」
「このまま握りつぶすぞ」
恐らく、これはじゃれているんだ。それでも怖いものは怖い。
一歩間違えれば殺されるのではと緊張する。
「そ、その」
サツキが話そうとするとマルクは手に込めた力を緩めた。
「殺人鬼は殺しだけをするのかと思っていたので、パソコンで仕事をするのは意外でした」
「ほう、人殺ししか能がねえと?」
「そうは言っていません。パソコンを使えるイメージがなかったので」
「人殺ししか能がねえって?」
みしみしと再び頬を掴まれ、サツキは「いひゃい」と声を上げた。
人殺ししか能がない。言い換えればそうなるが、そうだとも違うとも言えないのでマルクの攻撃を甘んじて受け入れる。
「ハハ、子どもみてえ」
「誰のせいですか」
むにむにと両頬を軽く揉み、最後に左頬を抓った後解放された。
なんだかスキンシップが増えた気がする。
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