第31話

 貞操の危機も命の危機もなく、焦燥感と睡魔が襲い掛かる。

 ぶつぶつと画面に映る情報を読み上げながら必死に記憶する。

 学校のテストのように直前に詰め込めばいいものではなく、長期で記憶していなければならない。フォルダの三分の一にも満たない量を必死に叩き込んだだけで、残りはまだファイルを開いてもいない。

 何時だろうと思い、画面の右下にある時刻を見ると午前八時だった。

 もうそんな時間か。まだ四時くらいの感覚だ。カーテンによって外からの光が入って来ない。


「…もう無理」


 ゲンダを可哀想だと思ったが、自分もなかなか可哀想だと思う。

 今すぐにでも寝ることができるくらいには、体が睡眠を欲している。

 マルクはまだ起きてこない。

 もう少し進めよう。


 視線を画面に集中させ、ファイルを開く。

 勝手に出てくる会社についての情報と、顔写真。何人かの写真を見て、ある人物の写真で手が止まった。


「…この人」


 特に変わった顔ではない。その辺を歩いていそうな、ただの中年男。

 指が止まり、じっと顔を見つめる。間違いない。


「なんだ、こいつが気になるのか?」

「ひゅっ」


 急に耳元で声がし、思わず飛び退く。

 心臓が破裂しそうなくらいに激しく動く。

 気配もなく後ろに立っており、サツキの耳元で喋ったマルクは「それ声なのかよ」とけらけら笑っている。

 少し寝癖のついた髪が普段よりも幼さを出している。


「で、こいつが何だ?お前の好みか?」


 サツキが見つめていた中年男をまじまじと見つめる。


「結構頭皮がキてんな。あと数年したら禿だぜ。お前、男の好み悪いな」

「な、なんでそうなるんですか」

「あ?違うのか?」

「当たり前です。オッサンは恋愛対象外です」


 こんな至近距離に美形がいて、何故態々中年男を好きになるのか。


「何だ、じゃあ知り合いか?」


 どうやらサツキがじっと見ていた中年男との関係性を知りたいようで、サツキが答えるまで離れる気がないようだ。

 隠しているわけではないので、サツキは画面に出ている男を指して言う。


「前職の上司です」


 毎日のようにパワハラされ、精神的に追い詰めてきた上司だった。

 顔写真があるからといって、マルクの目標とは限らない。だが、何かしらの関わりはあるということだ。

 会社情報を見るとどうやら元上司は転職をしたようで、派遣会社の職員として働いているようだ。


「知り合いか。ならこの仕事からやるか」


 面白そうにサツキの隣に座る。


「これは、何の仕事ですか?この男を殺すんですか?」

「興味津々かよ。なんか腹立つな」


 苛つきを隠すこともなく、サツキを上から見下ろすように首を動かす。

 今のどこに苛つく部分があったのか。マルクの地雷集が欲しいと本気で思う。


「殺すのはこっち」


 そう言ってパソコンを奪い取り、元上司の後ろに表示されていた写真をサツキに見せる。

 六十代の男性で、派遣会社の社長。


「うちの取引先に横槍を入れてくる」

「横槍…」

「放っておくとそのうち面倒になりそうだからな」

「その取引というのは?」

「人身売買。本人がそれに気づいているかは知らねえが、突いてくるんで殺した方が手っ取り早いだろ」


 人身売買だと知っていても知らなくても、殺してしまえば問題はない。


「それは、上の判断ですか?」

「いや、俺の判断だ。なんだ、綺麗事でも言うつもりか?」


 灸を据えられたばかりである。頭をぶんぶん振って違うことを主張した。


「うちがしている人身売買については知らないのですが、どうせなら殺さず生け捕りにして売ってしまえばいいのでは、と思いまして」

「うちは売るよりも買う方が多いからな。しかも大人は高く売れねえ」

「子どもが高く売れるんですか?」

「自我がない餓鬼だと、うちが育てても親だと思い込んでくれるから楽だろ」


 このご時世に人身売買が行われている。それも身近に。

 驚きはしないが、どうやってどこから買っているのか、気にならないわけではない。


「その人身売買の邪魔になったのがこの人ですか」

「あぁ。首を突っ込みすぎたから仕方ねえよな」


 鼻で笑い、パソコンを閉じた。

 まだ少ししか見ていないので、慌てて手を伸ばすが既に電源を落とした後だった。


「あ?」

「ま、まだ三分の一くらいしか見ていません」

「次でいいだろ」

「つ、次?」

「ベッドもう一つ用意するか」

「はい?」


 くわっ、と欠伸をしてキッチンに向かったマルク。

 もう情報はいいのか、終わりなのか。電源が落ちたのできっともういいのだ。

 よく分からないが終わったようなので瞼を降ろして身を預けた。

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