第30話

 一日の長いドライブを終え、マルクを降ろした。

 やっと帰れる。そう思えば自宅までの長い道のりも耐えられる気がした。


「おい、車置いてこい」

「はい?」

「早くしろ」


 帰れると思いきや、ついて来いと言う。

 まだ仕事があるのか。絶望するが従う以外の選択肢は与えられていないので、マルクの言う駐車場に車を停めた。

 高級マンションを見上げ、表で待っているマルクの元へ駆け寄る。

 また会議だろうか。

 自動扉が開くと、ホテルのようにフロントがある。女性が頭を下げているがマルクは気にせず先へと進み、エレベーターで二十五回へ上がっていく。

 前職より給料が良いとはいえ、さすがにここのマンションに住むことはできそうにない。ここに住むことができたら勝ち組だ。社長クラスの人間ばかりが住んでいるのだろうか。


 二十五階でエレベーターの扉が開き、マルクの後ろを離れず歩く。

 一室の前で立ち止まり、カードを翳して中へ入る。


 電気が点くと、サツキは目を見開いた。

 綺麗な部屋である。見た目と違わない高級感。

 景色も良く、広い部屋は理想だった。


「マルクさん、誰もいませんが今回も会議でしょうか?」

「あ?」


 勝手にグラスへ水を注ぎ、飲み干すマルクをじっと見る。ただのグラスなのに、高そうだ。


「俺の家だ」

「はい!?」


 飲み終えると、しれっとそう言って、シャワーを浴びるのか浴室へ行ってしまった。

 どうすればいいか分からないサツキはその場に立ったままである。

 マルクの家だと言われ、ソファに腰を下ろす気にならない。

 何故ここへ連れて来たのか。

 男女が同じ部屋にいる場合、女が危険を感じるのは貞操についてだろうが何せ相手は人殺しである。貞操よりも命の危機を強く感じる。

 殺されはしないだろうが、まさか身の回りの世話をしろというのか。プライベートでも犬になれと、そういうことか。

 断固拒否だ。

 仮にそうなった場合、上に直訴しよう。身の回りの世話をさせるなら運転手ではなく奴隷でも買えばいいと言ってみよう。


 何故連れてこられたのか、悶々と考えているとシャワーを浴び終えたマルクが出て来た。


「お前、今日泊まれ」

「はい?」

「あ?文句あんのか?」

「い、いえ。あの、帰れますよ私」

「俺の優しさを踏みにじるつもりか?」

「…泊まらせていただきます」


 これは優しさなのか。

 優しさを持ち合わせているのなら家に帰らせてほしい。

 急に泊まれと言われても、基礎化粧品はすべて家にある。サプリだって飲みたいのに。

 洗面所を借りて基礎化粧品の類がないか確認する。女を連れ込んでいるならば、どこかの女が置いているものを拝借しようと思ったが、そんなものは見当たらない。

 可愛い顔をしているのだから女くらい連れ込めよ。何もないじゃないか。

 マルクに言い寄る女はきっとハイブランドで固めている女だ。基礎化粧品は万単位のものを使っていると予想している。

 今度から車に基礎化粧品も置いておこう。


 洗顔もないので、仕方なく今日は何もしない。肌断食だ。

 ざっとシャワーを浴びてマルクから借りたスウェットを着る。

 シャンプーしか置いていなかったので髪がきしきしになるかと思いきや、お高いシャンプーはそれだけで髪が綺麗になるらしい。勉強になった。コンディショナーを使わずともさらさらになったので、次はマルクと同じものを買おうと銘柄を覚えた。


「遅かったな、早く来い」


 遅くない。待たせないようざざっと済ませたのだ。

 ソファに座ってキーボードを叩いていたマルクはサツキを手招きする。

 乾かしていない髪をそのままに、パソコンを覗き込む。


「これ、全部覚えろ」

「えっ」


 見せられた画面は綺麗に整頓されたフォルダ。

 マルクは隣を叩き、サツキを座らせる。

 パソコンを膝の上に置いたサツキは、クリックして一つのファイルを開いた。


「これは...?」

「放り投げられた仕事」

「全部マルクさんの仕事ですか?」

「そうだ。クソだりぃ」


 いくつもあるファイルを開いていくが、どれも人物や会社の情報が記されており、建物の見取り図もあった。

 恐らく、殺すべき目標なのだろう。

 これを全部覚えろと言われても、一日で覚えきれる量ではない。


「あの、これ、私が記憶してもいい情報ですか?」

「俺と一緒に行動するんだから、覚えろ」

「はい…」

「じゃ、俺もう寝るから」


 欠伸を一つ零して寝室に向かった。

 嘘だろう。覚えるまで寝るなということか。

 記憶力は人並みだ。一度見たら覚えられるなんて技はない。

 絶対に、無理だ。


 閉められた扉の音が虚しく響き、絶望する。

 スキンケアはまともにできず、朝からずっと働いて食事もきちんととれていない、その上膨大な情報を記憶しろと、しかも徹夜で。

 乾いていない髪をぐしゃぐしゃと両手で掻き、マルクに届かない程度の大きさで奇声を上げた。

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