第27話
休みがない。
風呂上りに一万円もするヘアバンドで髪の毛を留めて、化粧台の前で鏡を見ながらスキンケアをしているとマルクからメールが届き、位置情報のみが送られていたのを見て嘆く。
ここに来いということだろう。
パックをして化粧水を塗ったばかりだ。まだ乳液とオイルと美白美容液にクリームが残っている。ここ最近働いてばかりであったので肌を甘やかさねばならない。顔を洗わず出勤した日もあるし、シャワーを浴びずに出勤したこともある。
マルクのメールは急ぎの仕事なのかどうかが分からない。「急ぎですか?」と聞いたところで急ぎでなくても「急ぎだ」と答えるだろうから、聞くだけ無駄だ。
それでも本当に急ぎかもしれないので、美容液とクリームだけささっと塗り込んでパジャマからスーツに着替えて家を出た。
最初の頃は白シャツをその辺の店で買った安物を着ていたが、今日のような日は安物だと困る。スキンケアで顔がべたべたになっているため、着替えの際に服の繊維が顔についてしまい、むずむずして気持ち悪い。シャツをシルクに替えたところ、気持ち悪さがなかったのでそれ以来シルクをよく買うようになった。
シャツだけがシルクだとアンバランスなので、結局スーツも高級品を買った。
マルクから送られた位置情報を頼りに現場に向かう。
似たような建物が並ぶ中、恐らくここだろうと思う建物の前に車を停め、到着した旨をメールで送る。十秒もしないうちに、上がって来いと返信があったので仕方なく車を目立たない場所に移動させ、建物の中に入る。
テナントも入っていないようで、空っぽになっているフロアを見ながら階段を上る。この建物のどこにいるのか分からないのでぐるぐると歩き回りながら屋上の扉を開ける。
「遅刻だ」
自分が遅刻魔であるくせに、サツキを咎める。
マルクが立っている場所まで歩み寄ると、涼しい風が吹き、海の音がした。
海とは反対方向に身を寄せ、肘をついている。落ちないように気をつけてください、なんてお節介は言わない。
「何をしているんですか?」
「仕事」
「…まさか狙撃ですか?私、死にません?」
屋上にいる理由なんてそれしかないだろう。しかも双眼鏡を持っている。
遠くにいる人間に対して発砲するのでは、と思い眉を寄せた。
「正解だ。よく分かったな」
「…私、必要ですか?」
「必要だと思うか?」
ならば何故呼んだのか。そう言いたいがぐっと抑える。
「ほら、風が吹いてて気持ちいいだろ。海の音と香りもする。この気分をお前と二人で味わいたくてな」
「あ、はい」
「なんだその顔は喜べや殺すぞ」
急に爽やかな男になるマルクに鳥肌が立ったが、すぐに治安の悪い顔に戻ったので鳥肌は消えた。
こういう理不尽さは他職種の人間相手にもしているのだろう。悪い噂が立つのも分かる気がする。
「ほらよ」
「うわっ」
突然投げられた黒いもの。慌てて両手で受け取るが、ずっしりと腕に圧し掛かる。
何だこれは、と明かりが少ないので触りながら正体を探る。
「…ビデオでも撮るんですか?」
ビデオカメラのようだが、プレゼントではないだろう。
これを使って何かを撮れということだと察したが、何を撮れというのか。
「ゲンダに送る動画」
「ゲンダさん?」
ゲンダというと、思い当たるのは新薬の件。効果がどのようだったか報告をくれと言っていた。まさか。
「今からリチャードがこの下を通るはずだ。逃さずに撮れよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。新薬を飲んだリチャードがこの下を通るのですか?」
「あぁ、そろそろだから準備しろ」
待ってくれ、これは本当に自分がやる仕事なのだろうか。
そう言いたいが、一直線に伸びている道を見下ろしているマルクの手には双眼鏡がある。マルクにはマルクの仕事があるのだ。重いから、という理由でサツキの車に置いてあるライフルとは別のライフルを背負っている。
動画を撮るくらいならサツキにもできるので、頼んだだけかもしれない。ラボにコネを作れと言っていたし、理不尽を言われているわけではない。
専属はこういう仕事も兼ねての専属なのだ、と自分を納得させる。
「リチャードは今どんな状況なんですか?」
せめてこれくらいは教えてほしいものだ。
ビデオカメラの電源を入れると、周辺は暗いというのにしっかりと画面に映っている。試しにマルクを映してみると、サーモグラフィが搭載されていて、脈拍も表示されており、よくできているカメラだと感心してしまう。
「一時閒前に拉致して薬を飲ませた状態で仲間の元へ返してやった。その仲間の元っていうのが、あれだ」
指さす先は、斜め前に立っている車庫。シャッターが降ろされていて見えないが、あの中にいるのだろう。
「遅効性の薬らしいから、一時間前に飲ませたんだがまだ何も起きないな」
「即効薬じゃないんですね」
「元気な人間で実験するのは初めてだからな、しっかり撮れよ」
「はい」
まだかまだかと心待ちにしているマルクが「お」と声を出す。
その声に続くようにシャッターが開き、人間が出て来た。
サツキは録画ボタンを押し、目を凝らしてリチャードを探した。
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