第18話

 情報部には渡さない、とリョウに宣言したもののどうすればいいか見当もつかなかったが、引き留めるのではなく己の願望を素早く実行すればいいのだと気づいた。

 カナは仕事から帰宅すると寝る支度を整えて、勉強を始めた。学生時代は教科書を読むことすら億劫で、教科書は机の上に置くだけの存在だった。まともに勉強をしたことがないため、カナは初めて長い文章をひたすら読み進めた。テストで良い点を取るためではなく、自分の欲求を満たすために必要なことである。学生時代に味わった苦痛はなく、むしろ楽しいとさえ思う。

 携帯で調べものをしているだけなのだが、なんだか優等生のような気分になる。文字だらけの画面を見続けていると目が乾燥した。ぐしぐしと両手で目を擦りながら、分からない単語が出現するとすぐに調べ、懸命に文章を追う。


 最後まで読むと達成感があり、自分を褒めるが読んだ内容を細かに思い出せない。

 あれ、何だったっけ。

 所々は覚えているが、頭からほとんど抜け落ちている。

 そういえば、学校の授業では教科書を読むだけではなかった。板書をノートに写すという行為があった。そうだ、教室ではシャーペンの音が響いていた。教科書を読み、大切な部分をノートに書き込む。

 今、文章を読むことしかしなかった。ノートに書くことも必要だったのだ。

 カナは衝撃を受けた。

 教科書を読み、ノートに書くことの大切さを卒業して数年経って漸く知った。

 だから大人はノート提出を強要していたのか。書き込む重要性を教えたかったのだ。

 そういうことか。一つ大人になった。

 ノートに書こう、と思い立つがそんなものはない。

 書くことさえできればノートでなくてもいい。部屋中を探し回ると、裏面が白紙になっている広告を見つけた。ポストに入っていたので抜き取ったが、捨てようと思っていた紙だ。

 カナは再度携帯を開き、最初から文を読む。

 勉強をしてこなかったツケがここで現れるとは思わなかった。

 すべては自分の欲望のために、カナは集中して手を動かした。

 太陽が放つ紫外線がピークを越えた頃、テーブルの上に伏せていたカナは起き上がった。

 どうやらそのまま寝てしまったようで、右手からボールペンが転がった。

 紙にはカナが付けた涎の跡があり、ティッシュで軽く叩く。

 ぼんやりした頭で歯を磨き、顔を洗い、ベッドに潜り込む。

 あれだけ勉強したのだから、二度寝くらい許されるだろう。

 カナが夢の旅路に踏み出すと、携帯が鳴った。

 きっと仕事の電話だろう。嫌々起き上がり、電話に出る。


「はい…」


 掠れた声で出ると、携帯の向こうにいる男は不愛想な声色で死体のありかを伝えると、すぐに電話を切った。

 常識がない男だ。

 あと少しで眠れるところであったのに妨げられて苛立つ。

 リョウに連絡を入れるとすぐに返事があった。今日は明るい時間から出勤だ。

 白昼堂々と殺しなんてするな。太陽の下に放置された死体があったとしても、先に通行人が見つけてしまうだろう。今更車を走らせたところで死体の回収なんてできるのか。

 ぶつぶつと文句だけを口にしながら準備をし、扉に鍵をかけているとリョウも丁度出てきたところだった。

 いつもの車に乗り込み、カナはアクセルを踏んだ。


「眠たいです」

「明るい時間帯は久々ですね」

「寝足りません」


 そういえば、合法的な職に就いている人間はこんな生活をしているのだった。

 朝早く出勤し、残業で夜遅く帰宅する。それを週五日繰り返し、残りの二日で羽を休ませる。もうあの生活には戻れない。それほど高い給料を貰えるわけではなく、朝から晩まで労働する毎日は嫌だ。

 よくそんな生活で満足できるものだ。

 現職と比較すると給料に大きな差があるわけではないが、勤務形態や職務内容を考慮すると圧倒的に現職が良い。

 命の危険がないとは言い切れないが、それでも馬車馬のように社会の歯車として動かされるよりはマシだ。


「先輩、今日は飲み物ないんですか?」

「はい、家に何もなかったので」

「回収後に買いますか?」

「そうですね。寄り道していただけると助かります」

「はーい」


 カナは水を持って来たが、リョウはホルダーに何も入れてなかった。

 これは端から見れば気が利く女だ。


「こんな明るい時間に死体が出来上がるなんて、回収できるんですかね?」

「指定された場所は人気のない場所ですが、油断できませんね。誰かに見られる恐れもあるので、できるだけ素早く回収しましょう」

「はい。でも、昼間の死体は回収しなくてもいいと思うんですよね」

「それには賛同しますが、最近は安置室から死体がすぐなくなるので、危険を冒してでも欲しいということでしょう」

「危険を冒すのは私たちですけど!」

「僕たちはただの下っ端なので、命令に従うのみです」


 リョウは納得している様子だが、カナは納得がいかない。

 暗闇に乗じて死体を回収するならともかく、何故太陽が輝くこの時間に死体を持って帰らなければならないのか。

 殺しは夜にすべきだ。

 やはり常識がない奴ばかりだ。

 殺しは夜。それはいつの時代もそう決まっているだろう。

 無能なのか。考えなくとも分かることなのに。


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