第三章
三章
丁寧に髪をとかす。念入りにされた化粧と、美しい黒髪。名前に相応しい柄の、華やかな着物。これだけ見れば、何処かの姫様のように思える。
華やかな帯の上に、帯刀するための紐を巻き付ける。袖が邪魔にならないよう、たすき掛けをし、細く、白い手首が覗く。
加護の石が埋め込まれていると言われる髪飾りを耳横に刺す。これで、戦いに行く準備は出来た。
屋敷を出れば霊岸島に居る能力者たちが集まっている。着飾った華夜の姿を見て、多くの人が溜息を洩らした。
「華夜さま、お美しいです」
「流石、柳沢家です。西の方々から直接命を受けるだなんて」
「華夜さまなら、安心だ」
皆、華夜や柳沢家への称賛ばかりである。
詳細は知られていない。山本五郎左衛門が活動を再開したことを知っている人間は、この島には柳沢家の者のみである。皆、西の都から何かしらの命を受けて華夜が向かうことになった、ということしか知らない。
屋敷を出て島の者達を相手にして数分、道繁と初が華夜の元へと来た。
「華夜、頼んだ」
目を逸らす。逸らした先で、茅が不安げにこちらを見ていた。
「行ってまいります」
両親に頭を下げ、後に華夜は高橋の方へ足を進める。途中で、茅が駆け寄ってきた。
「帰ってきたら、妖茶屋、行きましょうね」
「──いつか、行きましょう」
年の近い華夜が居なくなることに、茅は悲しんでいた。今にも泣いてしまいそうな目を華夜に向け、後を追いかけてきた茅の両親に慰められている。
紅を刺した唇を緩く吊り上げる。笑えていたら良い。
軽く茅の一家に会釈をし、華夜は歩き出す。島の喧騒は、まだ、少し聞こえる。
一度くらい、茅のように、愛されてみたかった。
山本五郎左衛門がどこに出没したかの情報は無い。ただ、奴は妖怪の頭領である。西の都の近くでとある妖怪が凶悪化したらしい。その妖怪の心の底に、山本五郎左衛門、その言葉があったようだ。頭領である奴が様々な妖怪を凶悪化させている、そう言った結論を能力者の上層部が出した。
何処へ向かうべきか分からない。上層部は「何もしなかった」を防いだだけである。
しかし、華夜は行き先を決めていた。江戸の町から離れ、山道を進む。途中休憩をはさみながら、限界まで歩く。
山の中には妖の有象無象が居る。人気の無い場所に表れる者は妖怪と言うより、悪意の籠った妖が居る。天雨を指先へと集中させ、刀を抜く。指で刃を撫でれば、一時的に天雨が刀に宿る。
軽くひと振りをすれば、辺りの木は倒れる。同時に、妖も灰となる。
能力の強さは、やはり道繁の血を引いている。ただ、この力だけでは上位の妖怪や、強い妖は相手にできない。
雨は降っていないが、ざあ、ざあ、と水音が響く。もう少しで、出る。
草木を分け、足を踏み出した。
目の前に、川が広がる。
流れが速く、常にざあざあと水音を響かせる。太陽の光が水面で反射する。五月蠅い程の眩しさに、華夜は一度目を細めた。
着物は着たままの方が良い。身動きが取れにくくなるから。
ここには何度か来たことがある。両親が家を数日開ける時、必ず来ていた場所だ。心が自然と落ち着く、お気に入りの場所。小さい頃に道繁に連れてこられた時もある。ここで能力の稽古をしていたのだ。きっと、まだ期待をされていた頃。久しく見ていない、思い出の中だけの、父親の微笑み。
だからだろう。どうしても、ここへ足を運んでしまう。
けれど、訪れるのは今回で最後だ。この先、見ることもない。
──ここで、今から。自分は。
加護の石は邪魔であろう。耳横に刺した飾りを川へと投げ捨てる。もう、追いつけない所まで流れたであろう。
草履を脱ぎ、川へ向き合う。
身体は両親によって穴だらけだ。バラバラで、自分の破片なんて、もう、無いのだ。
かかとを浮かす。つま先に体重が集まる。
微かに響いた草木を分ける音。ふと振り返ると他人の動きを制するような、鋭い視線がこちらに向いていた。
一瞬、身体が止まった。だからだ。
既に目の前の川へ向かって前屈みになっていたのだから、そのまま倒れてゆく。
視界の端で、白い髪が揺れる。先程の鋭い視線を向けていた目元は、まだ若かったはずだ。だから、きっともう少しでこの世から居なくなってしまうのだろう。
先に行っております。
名も知らぬ、目元と髪色しか知らない人物へそう心の中で伝えた。
息が苦しい。これで終わりだ。
──ごめんなさい。私が、役目を果たさなかったから、きっと、誰かが傷付いてしまう。
──だ、だめです!
今にも身を投げようとしていた人の手を取った。幸い、同い年ぐらいの子であったため、陸側で一緒に倒れることが出来た。
──うるさい! 放せ!
もう一度川へと向かうその少年に、手を伸ばす。やっとの思いで足首を掴み、力を、奪う。
幼い頭では処理しきれない情報が、脳内へと流れ込む。涙が零れ、視界が霞む。そして、世界の明るさが、少し、落ちた。
白銀の世界が、ほんの少し灰色となる。吐く息が白い。だから、彼も、自分も、息をしている。生きている。
目を閉じる。足首のやわい暖かさを感じ、意識を手放した。
「おお。目を覚ましたか」
果たして、いつの出来事であったか。誰の記憶であるか。それよりも、自分は──。
華夜は身体を起こす。胸に手を当てれば、ドクドクと心臓が脈を打っている。
──失敗したのか?
急いでここが何処であるかを確かめるため、華夜は立ち上がった。やけに涼しく、身に何も纏っていない事に気付く。部屋とも言えない、小屋のような建物だ。
「おっと、見ていない見ていない」
先程からする声の主は誰なのか。華夜は思考が追い付かぬまま、声の主を探す。急に男が目の前に表れ、そっと、布を身体にかけてくれた。
「ようやく、目が合ったな」
一瞬で、目を奪われた。
陶器のように白い肌。そうであるのに、不気味さを感じない。同じように白っぽい髪の毛は、僅かな外の光で反射し、一層輝く。瞼がゆっくりと上がる。睫毛の隙間から、徐々に光を取り込んだ、宝石のような碧色が覗く。緩く頬が吊り上がり、唇が柔らかな曲線を描く。完成された美しさが、目の前にあった。
爪先まで宝石のようだ。形の整った、薄ら紅色の爪を持つ指先が、華夜の頬に触れる。驚くほどに冷たい指先に、眉をひそめた。
「思ったより、目覚めた後が元気そうで良かった」
「私は、あの後──」
「助けたのさ」
「え、」
指が華夜の頬から離れ、男が華夜の着物等の着替え一式を持ってくる。しっかりと渇いており、着物が渇くまでの時間分は最低でも寝ていたことが分かる。
「まず、それを着なさい。処女の裸をまじまじと見る趣味は無い」
一度男が小屋の外へと出る。着替えろという合図だ。まだぼうっとする頭で、順序良く着替えてゆく。流石に帯を着飾る気力は無く、はだけないよう、紐で縛るだけとする。
そういえば刀は何処へ行ったであろうか。華夜はそう思い、一室を見回す。意外にも自分の寝ていた布の横に置いてあり、自分の判断力が鈍っている事を悟る。
刀を手にし、着物と紐の間に刺す。柳沢の屋敷の外に居る時は、やはりこの恰好の方が落ち着く。
あの男。目の色が黒色で無いことからも、普通の人間ではない。そもそも、自分が川へ身を投げ出す直前、こちらを見ていたのは彼だ。
しかし、あの時のような刺す視線はもうこちらへ向けない。何故、助けたのだ。
白髪。能力者としての寿命はもうない。そして、人としての生命も、あれだけの白色となっていたらほぼ無いであろう。
それなのに、なぜあんなにも立ち振る舞いが優雅でいられるのか。
外がどうなっているのかは分からないが、妖が出てきた時の為。華夜は指先へと天雨を集中させる。思ったよりも集まらず、軽い頭痛を感じる。刀を抜き、指先で刃に触れる。ばちりと音がして、指が弾かれた。珍しく失敗をしてしまった。
能力の気配を感じたのか、勢いよく男が帰ってきた。
「あ、危ないであろう」
「な、何がですか」
「君は今、天雨がほぼ残っていない。このまま使い切ってしまえば、命を落としてしまう」
「何ですって⁉」
華夜は自分の髪に触れ、その髪を自分の見えるように持つ。あの黒髪が、すっかりと灰色へと変化していた。
「ほ、本当だ……」
「申し訳ない……。わたしのせいだ」
「え……?」
「話を聞いて欲しい。闇の者」
「まずわたしの正体から明かそう」
小屋の中で向き合って座る。外で風が吹き、カタカタと音が響く。その中で、男の涼やかな声が響く。
「わたしはここら一帯の川の、その神である」
「……?」
「おっと、驚いてしまったか。能力者なのだから、非日常的な物に慣れていると思ったのだが」
「か、神様、なのですね……?」
「そうだ」
神は様々な所に居る。様々な物に宿る。それは一般的な常識だ。だから、あの川に神様が居ても驚かない。
しかし、こうやって神様を目の前にする、という事実は驚くべきことである。
「た、大変失礼いたしました。御見苦しい姿で申し訳ありません。どうぞ、神の御判断を」
華夜の姿は神の前で、無礼と言える。着崩した着物に、乱れた髪。神を前にこの姿は、神への侮辱である。
華夜は丁寧に頭を下げ、神の判断を待つ。許して欲しいなど、出過ぎたことは考えない。
「良い。頭を上げろ」
「失礼致します」
華夜はおそるおそる顔を上げる。柔らかに微笑んだ川の神の姿があった。
「はは、神とは言っても、実は力が全然ないのさ」
クク、と喉を鳴らす。所作の一つ一つが美しい。華夜は見惚れながらも、耳に自然と入る神の声を受け入れる。
「あの川で自ら命を絶つ者が多くてな。本来人のために良くあるべき、というのが神だ。人に良くないことが起こり続けると、力は弱まる」
「な! そうであるのであれば……」
華夜は一度あそこで命を絶とうとしていた身だ。未遂とはいえ、神に悪影響を与えていたかもしれない。
「良い。君には、一度恩があるからね」
「恩……?」
「それはそうと、君の髪についてだ」
下ろしている髪に、神の指が近づいた。乳白色の肌。薄紅色の爪。見慣れない銀鼠の髪が絡む。
「君を助ける際、わたしは力をかなり使った。しかし力尽きる訳にはいかない。だから君の天雨を貰う事にしたのだ」
「そ、それでこうなってしまったのですね」
華夜は真剣に話を聞いており、徐々に近づく川の神に気付かない。毛先に絡んでいただけの指先がいつの間にか頭のてっぺんへと到達していた。
「え、っと」
「多少は力が回復した。君に、天雨を戻そう」
頭から手が離れる。両肩を触れられ、華夜と神が再び向き合う形となる。
緩く目を細められ、覗く瞳が一段と輝いた。
「失礼」
両手が肩から離され、身体が華夜の方へ傾く。布越しで、肌と肌が密着した。
「え……?」
指先はあんなにも冷たかったというのに。華夜の首筋に、神の唇が当たる。抱きしめられる形となり、華夜は数秒してそのことに気付いた。
身体が満たされる感覚。徐々に髪色が黒色へと戻っていく。
唇が首筋から離れ、神の身体も離れる。初めての感覚に華夜は頬を桃色に染めた。
「これで、元通り……かな」
ジッと、神に見つめられる。先程の行為を思い出し、華夜は顔を逸らした。
「おっと、まだ元の君に戻っていない」
今度は特に唇が触れることなく、優しく抱きしめられる。先程の温もりは感じず、ゆっくりと頭を撫でるだけだ。
「申し訳ない。もう今のわたしに分け与える力が残っていない。また、回復したら、君にさっきのように分け与えよう」
言い終わって、身体が離れた。こんなにも大切に扱われるのは初めてだ。鼓動が、脳内に直接響く。
「君、名前は」
「か、華夜と、申します……」
「良い名前だ。よろしく、華夜」
何がよろしくなのだろう。華夜はどんどん赤くなる頬を抑え、理解をせずにこくりと、頷いた。
狭い小屋の中に微かな陽が差し込む。今日もやるべき事をこなしていかなければ。ゆっくりと身体を起こし、重い肩を回す。何故こんなにも身体が痛いのか。
華夜はようやく覚醒した意識で、自分が柳沢の屋敷に居ないことを思い出す。布団でもない、ただの布の上での睡眠。身体が痛くなるのも納得が出来る。
神は別に寝なくても良い。そもそも、このような小屋に居なくても良い。そのため、人間が暮らせるようにはなっていない。
あそこで身を投げず、受けた命を全うしようとしていても、このような場所での寝泊まりとなっていただろう。どっちにしろ、このような暮らしをしながらではまともに力は発揮できない。死ぬことに、変わりは無かっただろう。
「おお、起きたか」
「か、神様……。おはようございます」
急いで正座をし、頭を下げる。そうすると柔く頭を撫でられ、顔を上げるよう指示を受ける。
「わたしに対して、そのような態度を取るのはよせ。わたしは君を認めている。認めた相手とは、ほぼ対等に接したい」
「そ、そうおっしゃるのであれば」
「それはそうと、神様、は呼びにくいであろう。綾波とでも呼んでおくれ。人にたまに会う時は、その名で通している」
水の神──綾波はそう言って華夜に微笑みかける。一日経っただけではまだ見慣れぬ、完成された美しさに華夜は目を逸らす。
寝起きのままでいる自分が急に恥ずかしくなる。顔を伏せ、出来るだけ髪の毛で顔を隠せば、綾波は察したようだ。
「華夜、そこの川で軽く身なりを整えてきなさい」
「ありがとうございます」
華夜は再度頭を下げ、立ち上がり小屋を出る。何日間寝ていたかは分からないため、久しぶりの外の世界だ。
辺りは草木に覆われている。太陽の光は木によって遮られ、優しく地面へと辿り着く。水の音がする方向へと足を進めれば、川が見えてくる。
自分が身を投げようとした場所は、川に結構な幅があった。今目の前にある川は、幅が狭く、山を切り裂いている。きっと、あの場所よりもっと上流なのであろう。
このまま、もう一度身を投げてしまっても良いのではないか。華夜はふとそう思う。せっかく助けていただいた命。しかし、この先どう生きて行けば良いのか。戻る場所は無い。戻る場所を作るためには、奴を討伐しなければいけない。
指先を川へつける。冷たい。その冷たさに、吸い寄せられる──。
「華夜」
「うあ、」
綾波の腕が華夜を包む。昨日と同じように、温かい唇が首筋に当たる、しかし、今回は直ぐにそれが離れ、その代わりに華夜を包む腕に力が籠められる。
「す、少し苦しいです」
「でも、こうでもしないと、またそっちに行ってしまいそうだから」
「そ、れは……」
否定が出来ない。華夜は綾波の腕に触れ、腕を解くようにお願いをする。
「ごめんなさい。少し、気を落としていただけです」
「そうか……」
綾波が寂しげな声を漏らす。腕は解かれない。華夜は背中で綾波の冷たい体温を感じながら、軽く後ろを振り向いた。
「だめだ。このまま離すわけにはいかない。わたしがこうやって、落ちないようにしておくから、今顔を洗いなさい」
──それは少し恥ずかしい様な……。
「ほら、早く」
促され、華夜は抱き留められたまま水を掬い、顔を洗う。その間、綾波が離れることは無かった。
──この人は、本当に、私を死なせる気は無いのだろう。
初めて、肯定されたように感じる。死んでは駄目だと、初めて言われたように感じる。
川の冷たさより、綾波の冷えた肌の方が、ずっと心地が良い。
「華夜。ここでは暮らしにくいだろう」
「暮らす……?」
「そう、一緒に暮らす」
「な、何故……?」
「あれ、言ってなかったか?」
「何を」
「天雨を共有した神と能力者は、運命を共にするのだよ」
華夜は驚きで目をかっぴらく。その表情が面白かったのか、綾波は喉をクツクツと鳴らした。
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