第14章:選択の夜

「和哉くん!」


 離れと母屋を繋ぐ長い縁側に和哉が出たところで、離れの方から瑠璃が駆け寄ってきた。


「良かった。無事だったのね」


 安堵したように、瑠璃は和哉の肩に手を置いた。


「化け物、そっちにも出たでしょう?」


「僕のこと、光志郎が逃がしてくれたから……」


 特別な力があると言われても、いまだ使い物にはなっていない。

 いざ化け物が出てくると、足手まといにしかならない。

 威勢良く啖呵たんかを切ったところでこのザマか。

 役立たずな自分が悔しくて、和哉は拳を強く握りしめる。


「いいのよ。それが私たちの役目。あなたが気に病むことじゃないわ」


「でも……っ」


 言いつのろうとした、まさにその時、和哉の背中を悪寒が走った。

 しかし、和哉が反応するよりも早く、覆い被さるような形で瑠璃が和哉を押し倒して。




 次の瞬間―――赤い赤い血飛沫ちしぶきが、和哉の視界を覆い尽くした。




「さすがね。あたしの動きを読み切るなんて」


 尻餅をつく形で縁側にへたり込んだ和哉。

 その視線の先に居るのは、赤いワンピースの少女―――マリナ。

 その手を赤く染め、全身に返り血を浴びてなお、その優雅さは失われていなかった。


「まあ、無事に、とはいかなかったようだけれど」


 和哉は無言のまま、自分へと覆い被さっている瑠璃に視線を落とす。彼女の背中には裂傷が走り、そこからとめどなく血があふれていた。

 瑠璃は、和哉の肩にひたいを預けて荒い呼吸をしている。出血のショックで朦朧もうろうとしているが、生きている。今のところは。


(焦るな、冷静になれ、相手のペースに飲まれるな)


 じわじわと湧き上がってくる怒りを抑えこみ、和哉は心の中で自分を叱責しっせきした。

 マリナはこちらの感情を揺さぶり、自分に有利な状況へ持っていこうとしている。

 ここで動揺しているさまを見せたら、相手の思うつぼだ。


(瑠璃ちゃんがかばってくれたこと、無駄にしちゃ駄目だ)


 ハンターはタフだと、回復が早いと言ったのは、他の誰でもない瑠璃。

 彼女とて例外ではないはず。そう信じるしかない。


 傷に触れぬように注意を払いつつ、和哉は瑠璃を守るように抱き寄せた。

 そして、マリナをにらみ上げ、ひと呼吸分置いてから口を開く。


「―――ずいぶんと、無作法ぶさほうな訪問じゃない?」


「あら。カズヤがつれないから、こんなことになるんじゃない」


 瑠璃を抱きしめる和哉を見て、マリナは柳眉りゅうび逆立さかだてた。


「最初からカズヤがあたしの手を取っていれば良かったのよ。

 そうすれば、あなたが痛い思いをすることもなかったし、この子だってこんな風に怪我をすることもなかったのに」


「!」


「カズヤさえ手に入れば、これ以上何かをするつもりなんてないのに」


 言いがかりであろうとも、直接的にお前のせいだと言われれば、さすがに和哉も一瞬怯ひるんでしまう。

 マリナの誘いに応じてしまえば、瑠璃も光志郎もこれ以上傷つくことはなくなるのではないか。そんな風に錯覚さっかくしそうになる。


「……どうして僕に執着するの?

 食べるものなんて、君はよりどりみどりなんだろう?

 君が熱を上げる価値なんて、僕にはないのに」


 それでも、腕の中のぬくもりが、和哉を思いとどまらせる。

 腕の中にある命の重みが、マリナの言うとおりにするのは間違いだと、雄弁に語っている。


「僕と君は、種族も立場も倫理観も、何もかもが違う。

 それに、君は僕のことを殺そうとした。

 今更「着いてきて」と言われたって、断るに決まってるじゃないか」


「もう。これだけ痛い目を見てるのに、どうして分かってくれないのかしら」


 和哉の言葉を聞くなり、マリナは己のこめかみに人差し指を押し当てて、頭痛をやり過ごすような仕草しぐさをした。


(すごく人間っぽいからこそ、錯覚しそうになる。

 この子に倫理観なんてないって、道理なんて通じないって、思い知った後なのに)


 そんな仕草をされると、彼女には道理が通じないという事実が、にわかに信じがたくなる。

 話せば分かってくれるのではないかと、錯覚しそうになる。

 彼女が人間ではないという現実は、理屈が通じない相手だという事実は、痛みを伴って和哉の身体と記憶に刻まれているのだけれども。


だまされて、隠し事されて、カズヤは悲しんでたし、苦しんでたじゃない。

 それなのに、人間なんかの社会にしがみつくの?」


「それは……」


「人間の社会なんて、苦痛ばかりじゃない。

 それなら、そんな社会ところ捨ててしまって、あたしたちの社会ところへ来ればいいのよ」


 マリナはゆっくりと和哉の方へと近づいてくる。


「カズヤはあたしの従者モノになればいい。

 カズヤがあたしのモノになることに関して、同胞たち吸血鬼に文句なんて言わせない。

 あたしがどれくらい強いのか、あなたの身体が覚えてるでしょう?」


 近づいてくるマリナから少しでも瑠璃を遠ざけようと、和哉は上体を捻る。


「狼の群れに羊を招き入れるようなものじゃんか。

 人間君ら吸血鬼に喰われてお仕舞しまい。そんな話は乗れないよ。

 今の生活に不満がまったくないと言えば嘘になるけど……それでも、すべてを捨てるほどの何かなんて、僕にはないし」


「カズヤってば、本当に何も分かってないのね。

 あなたがこの街で生きていた事実なんて、とっくに消えてしまってるわよ」


「……っ」


 淡々としたマリナの言葉に、和哉は息を呑んだ。


『俺に関する記録も記憶も、ぜんぶリセットされるはずだった』


 和哉の脳内で、光志郎の言葉がよみがえる。


 吸血鬼に殺されそうになった光志郎は、「吸血鬼なんて存在しない」という結論に合わせるために、その痕跡を世界から消されそうになったと。

 実際、光志郎は、クラスメイトたちの記憶から―――いや、それだけではなく、在籍していた事実ごと消されていた。


 では、光志郎と同じように、吸血鬼のマリナに殺されかけて、異能力のおかげで生き延びた今の和哉は……。


(僕には、もう、帰る場所が、ない)


 現実を飲み下した瞬間、全身から力が抜けた。


 光志郎がそうだったように、きっと和哉のことも、もう誰も憶えていないのだろう。知人も、クラスメイトも、友人も、多分、家族でさえも。

 ちょっと考えれば気づけたはず。

 でも、絶望げんじつと向き合うことが怖くて、考えることを無意識のうちに避けていた。


「あたしは、カズヤのことが気に入ったの。

 あなたのすべてが欲しい。あなたとずっと一緒にいたい。

 だから、代わりにあなたが望むものをあげるわ。

 新しい居場所も、存在意義も、使命も、必要なものは何でもね。

 そうそう」


 追い込まれて、それでも瑠璃から離れない和哉を見て、マリナはうっすらと笑みを浮かべた。


「カズヤがあたしのモノになるなら、その子だって助けてあげる。

 なんなら、向こうで悪あがきしてる、あの小憎たらしい少年のことだって」


 愕然がくぜんとして色を失う和哉に、マリナは悠然ゆうぜんと手を差し伸べてきた。


「ふたりのこと、特別に見逃してあげてもいいわよ」


 色せて無味乾燥なものと化した世界の中で、マリナの紅い瞳だけが鮮やかに見える。




「あなたに帰る場所なんてない。だから、あたしと一緒に来なさい」




「僕、は……」


 和哉の唇が答えを紡ごうとした、その瞬間。


「―――ふっざ、けんな!」


 まばゆい軌跡を残し、マリナと和哉の間に高身長のシルエットが滑り込んだ。

 マリナは面倒そうに顔をしかめつつ、後方にステップを踏んで乱入者との距離を取る。


「いちからやり直すんだろ?」


 高身長のシルエットがまとうのは、黄金こがね色の雷光。

 雷光は激しい雷鳴を伴い、幾重にも枝分かれして空間に広がっていく。


「何もなかったことなんかにさせてたまるか……そう言ったのはお前だろ!?」


 金色こんじきの鮮やかな煌めきが、和哉の世界に色を呼び戻していく。


「だったら、しゃんとしてろ! こんなところでへこたれるな!」


 和哉の目の前。マリナとの間に強引に割って入った、たくましい背中。

 少女の形をした化け物を前にしてもおくすることなく、日の光にも似た黄金色のオーラを全身にみなぎらせて。

 りんと背筋を伸ばし、光志郎がそこに立っていた。


「ああ……」


 和哉の口に自然と笑みが浮かんでくる。


「そうか、そうだったな」


 さっき、光志郎にかつを入れたのは、自分だった。

 それなのに、こいつの前で、みっともない姿をさらしていいわけがない。

 そんな思いがわき上がってくる。


(見ないフリも、知らないフリも、できないフリも、もう終わり。

 やられっぱなしなんて、柄じゃない。

 おとなしく守られてるだけなんて、性に合わない。

 ―――仲間が傷つけられたなら、黙ってなんかいられない!)


 瑠璃の肩を抱えている腕の力を少しだけ強め、和哉はマリナを見据える。


「僕が欲しいのなら、僕だけを狙え! 周りを巻き込むな!」


 感情を爆発させた瞬間、身体の中から「何か」が溢れだした。

 とめどなく流れ出した「何か」が、和哉の内から外へと出て行こうとする。


(この感覚!)


 瞬時に「何か」の流れイメージを、脳内に描き出した。身体の奥から瑠璃の肩に添えた右手へ、添えた右手から瑠璃の方へと。

 それに呼応するようにして、和哉の右手からドッと白い光の粒子が溢れだし、瑠璃を包むように吹き荒れた。


 吹雪にも似たその光が瑠璃に触れた瞬間、背中に走っていた傷が急速に塞がっていった。まるで、傷が治る過程を早送り映像でみているかのように。


「ごめん、待たせたよね」


 和哉は瑠璃の肩を軽く叩いた。

 瑠璃が治った対価だといわんばかりに、和哉の身体を倦怠感が襲っている。

 光志郎の傷が治った時と同じ状態。ならば、これが「異能力を行使することの代償」というヤツなのだろう。


「大丈夫。あなたのこと、信じてたから」


 和哉が抱きしめていた腕をほどくと、瑠璃はすんなりと離れた。

 その表情はどことなく晴れやかに見える。

 痛みを感じる素振りを見せないということは、和哉の力によって、瑠璃の怪我を治せたと思っていいのだろう。


「僕、合格点は取れたかな?」


「そうね。あなたの覚悟は受け取ったわ」


 口だけなら、いくらでも威勢の良いことが言える。

 でも、それだけでは駄目なのだ。


 ―――自分は誰の味方で、どう役に立つのか。


 仲間として認めてもらうためには、他でもない和哉自身の意志で、力で証明してみせるしかないのだ。


(ただ行く末を見届けるだけ、なんて―――そんな風にお行儀よくしてられる人間じゃないよ、僕は)


 瑠璃と一瞬視線を交わし、和哉は立ち上がった。

 一瞬目が回りそうになったが、足に力をいれて踏みとどまる。

 そして、自分を守るように立つ光志郎の肩に、親しみと信頼をこめて手を置いた。


「この世界が僕の生きた証を消してしまっても、それでもまだ、こうやって僕のことを憶えてくれてる仲間が居る」


 光志郎と並び立ち、和哉はマリナを真っ直ぐに見つめる。眼鏡の奥に潜む瞳に、強い意志を宿して。


「僕の軌跡がこの世界から消えても、僕の中には「自分で選んだ道だ」という事実おもいが残ってる」


 そう。自分は既に選んでいたじゃないか。


 光志郎は、自分は非日常側の存在なのだと明かして、離れていこうとした。

 瑠璃だって、和哉を被害者でしかないと言い切り、一線を引いてくれていた。

 すべては、和哉を日常に、昨日と変わらぬ世界に留めておくために。

 そんな彼らの腕を掴み、側にいろと頼んだのは、他でもない和哉自身。


 どれほどいばらの道が待っていようと、彼らハンターと共に戦っていくのだと。

 自分が思ったことに、感じたことに、正直に生きていくのだと。

 すべて自分で決めたのだ。

 今更取り消すことなんてできないし、したくもない。


「何をしたくて、何をすべきなのか。どうやって生きて、何を幸せに感じるか。

 僕は、僕が進む道を、僕の意志で決めたいんだ。

 だから、君の手を取るつもりはないよ」


「その選択を後悔する日が、いつか来るかもしれなくても?」


 マリナがそう問いかけてくる。惑わせるためではなく、確認するために。


「ああ」


 だから、和哉は首肯しゅこうしてみせた。




「未来なんて分からない。

 捨てた日常平穏に対して、未練を抱く瞬間があるかもしれない。

 非日常戦いを選んだことを、後悔する日が来るかもしれない。

 でも、もしそうだとしても、僕が選んだ、僕の人生なんだ。

 すべての責任は僕自身が取るべきで、誰かに押しつけたり、ゆだねたりしていいものじゃないんだよ」




 和哉は寸分も視線を逸らさず、真っ直ぐにマリナを見つめる。


「僕の帰るべき場所は、光志郎と瑠璃ちゃんの隣だ。君の隣じゃない」


「……そう」


 マリナは小さくため息を漏らし、和哉へと手を伸ばした。


「問答無用はいやみたいだから、交渉をしに来てみたけれど。

 決裂した以上、しょうがないわね。

 やっぱり、力尽くで連れていくことにするわ」


「まあ、そうなるよな」


 光志郎は右肘で和哉を後ろに押しやり、雷光をまとわせた左腕でマリナの手を受け止めた。


「お嬢サンさぁ、誰かを口説きたいなら、少しは相手の意志も尊重したら?

 ただ押しつけてるだけじゃ、拒絶されて当然だぞ」


「そんなこと言えるのは、あなたがカズヤと同じ立場にいるからよ」


 赤と黄の光がぶつかり合い、火花が激しく舞い散る。

 体格差だけで言えば、は明らかに光志郎にある。

 それでも、表情に余裕があるのは、マリナの方だった。


「そんなの、誰かと手を取り合って生きていけることを、当然のこととして享受してきた者の言葉よ」


 マリナのまとう紅蓮の光がひときわ目映まばゆく輝く。

 次の瞬間、光志郎の腕から雷光が霧散した。


「あたしは吸血鬼。

 手に入れるための手段なんて、奪う以外は知らないし、知らないままでいいのよ」


「そういうのは嫌だって、他ならぬ和哉が言ってんだ。そろそろ分かってやれよ、お嬢サン」


 軽く腕を振りながら、光志郎は不快そうに片眉をしかめる。


「ちょっ……光志郎!」


「ちょっとしびれただけ。心配すんな」


 和哉が光志郎に触れようとすると、それよりも早く、光志郎が和哉の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。

 次の瞬間、光志郎を中心にして、激しく放電する円筒状の障壁バリアが生まれた。


「瑠璃!」


「任せて」


 瑠璃の影から、ヌルリと青いドラゴンが姿を現す。

 マリナがハッと目を見開き、後方へと下がろうとした。

 しかし、ドラゴンは素早く鎌首をもたげ、マリナに向けて氷のブレスを吐き出した。


「……っ!」


 無数の氷の刃が吹き荒れ、マリナの身体を切り裂いていく。

 マリナの白い肌に刻まれた裂傷から、赤い血がドロドロと流れ出した。


「何度見ても豪快だこと」


 光志郎は、黄金色の障壁を支えるような形で腕を伸ばしている。

 障壁が吹雪を弾いているため、その中にいる和哉と光志郎は無傷であった。


「こ、の」


 マリナは感電を恐れずに、血まみれの手を光志郎の腕に伸ばす。

 彼女の指先が触れた瞬間、バンと派手な音を立てて、障壁がはじけ飛んだ。


「本当、厄介なお嬢サンだ」


 わずかながらに光志郎が表情をくもらせる。


(そりゃ、怪我もするよな)


 光志郎がどんな異能力を使おうとも、マリナは次々と無効化してしまう。

 これでは、相手にならない。光志郎が殺されかけたのも納得がいく。


(マリナにはハンターの攻撃が通らない、とか? いや、そんなわけがない)


 瑠璃の攻撃は効いていた。では、光志郎との違いは何?


(もしかして)


 思いつくまま、和哉は光志郎の手を振りほどき、マリナへと両腕を伸ばした。


「!」


 想定外の行動だったらしく、マリナの反応が一瞬遅れた。

 その隙を逃さずに、和哉はマリナを抱きしめた。彼女の動きを封じるように、強く。


「光志郎!」


「無鉄砲にもほどがある!」


 和哉の意図を察した光志郎が、至極嫌そうな顔をする。

 それでも、ためらいなくその場にひざまづき、縁板えんいたに右手の平を押し当てた。


 光志郎の手から放たれた雷光が、縁板を伝うようにして、マリナの足下まで走る。

 そのまま、縁板からマリナ、マリナから天井へと、雷は駆け抜けていった。


「痛っ!」


 雷撃を受けたマリナの白い肌には、葉脈のように枝分かれした赤い痕―――熱傷が刻まれている。

 しかし、彼女を抱きしめていた和哉は、静電気程度の軽い痛みを感じたくらいで、傷ひとつ負うことはなかった。


「こ、の……!」


 マリナは怒りにまかせて、和哉を振りほどこうと身をよじる。

 その力の強さに一瞬腕がほどけそうになったが、それでも和哉は踏みとどまった。


(まだだ、まだ倒れるわけにはいかない)


 和哉は、自分の限界が近いことを感じ取っていた。

 身体は鉛のように重たいし、感覚もにぶり始めている。


 それでも、本当にあともう少しだけ、踏ん張らねばならなかった。

 どうしてもマリナに言っておかねばならないことがあるから。


「マリナ!」


 和哉は、マリナのひたいに己の額をぶつける。

 一瞬、目から火花が出た。それでも自分以上に彼女の方が痛かったはずだ。


「僕、言ったよね? 不確かで目に見えないからこそ大切にしたくなるものだってあるよ、って」


 和哉はレンズの奥に潜む瞳に怒りの光を宿し、吐息がかかりそうなほどマリナに顔を近づける。


「情なんて目に見えないし、呆気ない理由で失われるもの。

 君からしたら、取るに足らないモノなのかもしれないけれどさ。

 それでも、僕にとって光志郎は親友だし、瑠璃ちゃんは恩人なんだ。

 軽んじられたら腹立たしいし、危害を加えるつもりなら許さないからな!」


 声を荒らげる和哉を見て、マリナはうつむいてしまった。


「……ズルいわ、あなた」


 和哉の腕に囚われたままで、ポツリと呟く。


「あたしだって、こんなにアピールしてるのに。

 それなのに、あたしには、ちゃんと取り合ってくれないじゃない。

 あたしのこと、全然見ようとしてくれないじゃない!」


 マリナはうつむいたまま。その表情を確かめることはできない。


「カズヤを欲しがる気持ちなら、そのふたりに負けてなんかいないのに……!」


「……」


 答えにきゅうした和哉は、意図せず腕の力を緩めてしまった。

 その隙をマリナが見逃すわけもなく、彼女は腕の中からスルリと抜け出した。


「ズルくて、意地悪なんだから。しょうがないから、今回は手を引いてあげる」


 マリナはすっと顔をあげると、少しだけ背伸びをして、和哉の喉元に触れるだけのキスをした。


「でも、憶えておきなさい? あたし、とっても諦めが悪いの」


「―――知ってるよ。君の執着心の強さなんて」


「そう」


 和哉の答え聞くと、マリナは満足そうな笑みを浮かべた。そして、身体を霧に変えて、夜闇にまぎれて去って行く。


「おい……!」


 追いすがろうとする光志郎を、和哉は手の動きだけで制する。

 マリナの気配が完全に去ったところで、和哉は安堵のため息を漏らした。


「和哉! 吸血鬼にまで情をかけるなんて」


「ごめん、光志郎。今なにを言われても、僕は限界だから無理」


 視界がぐるりと回り、身体の末端から力が抜けていく。

 踏みとどまりたいと頭では思っていても、身体の方はもう言うことを聞いてくれなかった。


「おい!」


「和哉くん!?」


 その場に倒れ込んだ和哉を見て、光志郎と瑠璃が慌てて駆け寄ってくる。


「ほら、マリナの前で倒れたら、あっちの思い通りじゃん? だから、せめて彼女が帰るまでは立ってなくちゃって……」


 張っていた気が緩んだせいで、押さえ込んでいた疲れが一気に表面化したのかもしれない。

 指先を動かすことすら億劫おっくうに感じるほどの倦怠感にさいなまれながら、和哉はため息を漏らした。


「足を引っ張ったよね、ごめん」


「もし本気でそう思ってるなら、もう無茶な真似はすんな。

 俺が力の……雷のコントロールをミスったらどうするつもりだったんだ? 心臓止まってたかもしれないんだぞ?」


「僕を傷つけるような失敗ミス、光志郎がするわけないじゃん」


「……おだてても無駄だからな? こっちの気持ちも少しは考えろ」


 和哉の傍らまでやってくると、光志郎は眼鏡を取り上げた。


「ここからは、俺と瑠璃の仕事。お前が今すべきことは、休んで体調を整えること。いいな?」


「うん……」


 光志郎の声に、有無を言わせぬ迫力がある。

 逆らうのは賢明でないと判断し、和哉は小さく頷いた。


(怒らせちゃったかな)


 眼鏡を取り上げられて、視界はぼやけてしまった。これでは、直ぐ側にいる光志郎の表情すら読めない。


「後は俺らがやっておくから、寝れるなら寝とけ。布団には運んでおいてやる」


「ん」


 疲労の波に抗うのをやめ、和哉は双眸そうぼうを閉じて、意識を眠気に溶かす。


「―――ごめんな。お前の人生、狂わせちまって」


 眠りに落ちていく中、光志郎のそんな言葉が聞こえたような気がした。

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