幕間:~それはいつかの教室で~
それは、とある放課後のこと。
強めの雨音を聞きながら、光志郎は教室で目の前に置かれたプリントの束を見つめていた。
「藤沢君、本当にコレやらないとダメ?」
中途半端に開けられた窓から、
ぬるく湿度が高い風は肌にじっとりとまとわりつき、光志郎を不快な気持ちにさせた。
「
机を挟んで向かいに座る和哉が、ジト目で光志郎を見つめてくる。
「やだー、授業終わったのに、まだ勉強しなきゃいけないの?」
「テストで赤点を取ったお前が悪い」
光志郎が机に伏してだだをこねても、和哉は気にした素振りも見せない。
「さっさと解いて提出してこい。
解いて提出すれば赤点はなかったことにしておくって、先生が言ってくれたんだから」
「だって勉強全然分からないんだもん」
「だから僕が一緒に残ってるんだろ? 分からないところは僕に聞けばいい。
どうせお前、家に持ち帰ったところで、解かずに放置するだけだろう?」
和哉の指先が、いらだたしげに机を叩いた。
彼の視点で物を見るなら、圧倒的に正しい言葉。
ただし、それが光志郎にも通じるかというと、そうではなくて。
「うええ……藤沢君てば、いけずぅ」
「ごねても僕には通用しないからね?」
―――だって俺、成績なんてどうでもいいし。
喉まで出かかった言葉を、光志郎は何とか飲み込んだ。
(任務が終わってしまえば、この学校ともオサラバなんだ。
成績が良かろうが悪かろうが、関係ないんだよ)
自分がここにいるのは、ただのカモフラージュ。
街に溶け込み、敵を
新しい任務が入れば、また別の街へ行くことになる。
ここでどんな成績を残そうと、どんな関係を築こうと、すべてはなかったことになる。
(今の任務が終われば、お前とも二度と会うことはないんだよ……藤沢君)
いっそすべてを話せてしまえたら、どれほど楽だろうか。
この学校にいるのもあと数週間くらいだと。
お前と俺の間にある友情は作り物でしかなく、お前は良いように踊らされてるだけだと。
(まあ、言えないんだけどさ……)
世界の真実について、うかつに話すことは許されない。
何をバカなことを、と相手が一笑にふすだけですむなら、それでいい。
だが、万が一、「理解」してしまったら。
もし真実を「受け入れて」しまったら、二度と戻れなくなる。
化け物と戦わざるをえない世界に、引きずり込まれることになる。
そんな被害者を、いたずらに増やしてはいけない。
―――だから、
光志郎は視線だけを動かして、和哉を見た。
こちらの都合だけで、「橋本光志郎の友人」という設定を与えられた少年を。
あと数週間もすれば、縁が切れてしまう少年を。
「……やれやれ」
光志郎の視線を抗議の表明と受け取ったのか、和哉は困ったように
「しょうがないな。
じゃあ、ちゃんとコレを提出したら、お前が欲しがってたフィギュアを取ってあげるよ」
「え?」
「ほら、この前、学校帰りに四人でゲーセンに寄ったじゃん?
その時に、お前がやたら欲しそうにしてたフィギュアがあったよね」
「あ、ああ……ゲームキャラのフィギュアな。あれ、なかなか出来がよかったよなぁ」
数日前の学校帰りに、和哉たちと寄ったゲームセンター。
そこで、光志郎がとある景品に興味を示したことを、和哉は憶えていたらしい。
「取れるの?」
「取るよ。クレーンゲームは、好きだし、得意だし」
当然のことのように、和哉は言い切る。
「だから、さっさと終わらせなよ。提出したら、ゲーセンに行くんだから」
和哉は、「これなら少しはやる気が出るだろう」という顔をした。
「……なんで」
光志郎は伏していた顔を上げ、和哉をまじまじと見つめた。
「なんで、そこまでして」
「なんでって、一緒に卒業したいからに決まってるだろ」
しかたのないヤツだとでも言いたげに、和哉は笑っている。
「僕はお前と一緒に卒業式を迎えたいし、お前だってそう思ってるだろ?」
「それは……」
「もちろん、お前が勉強嫌いなのは分かってる。だから、無理をさせたいわけじゃない。
ただ、進級や卒業ができるレベルは保ってて欲しいし、そのために手伝えることがあるなら手伝いたい。
お前が困ってるなら、助けてやりたいと思う。
友達なんだから、そんなの当然のことじゃんか」
* * *
光志郎が目を開くと、そこは見慣れた部屋だった。
それは、光志郎が同居人と暮らす家の一室。光志郎が「ここを自室にしよう」と決めた場所だ。
「ああ、ウトウトしてたか……」
瑠璃に手当てをしてもらった後、万年床になっている布団に転がっているうちに、うたた寝をしてしまっていたらしい。
―――浅い眠りの中で見た夢は、ただの記憶の反復だった。
日数で言えば、たった数週間前の出来事でしかないのだけれども。
(細かいところまでよく憶えてたよな、俺)
あれは、光志郎がこの街にやってきてまだ日が浅かった頃。
光志郎がまだ、「和哉の友人」という『設定』に馴染みきっていなかった頃の話。
光志郎がまだ、
この街に潜り込むにあたって、組織から渡された表向きの身分である「普通の高校生」を演じ切れてなかった頃のことだ。
『昼間は高校生として街に溶け込んで、夜に吸血鬼の潜伏先を探すように』
それが、上司であり師匠でもあり同居人でもある男からの指示だった。
記憶の
そんな仲間の力を借り、潜入先にそぐう立場を『設定』して、光志郎は任務に赴いていた。
吸血鬼が活発に動くのは夜。昼に探し出すのは
だから、昼間は周囲に違和感を抱かせないように暮らしてろ、という指示は理解できる。
ただ、理屈が分かったところで、感情が追いつくかはまた別の話で。
(最初の頃は「
この自分が、毎日学校へ通って、優等生と穏やかな関係を築く?
―――無理がある、と思った。
性格の不一致で、喧嘩になってしまう、と。
すぐにボロを出してしまい、ハリボテの関係は壊れてしまうだろう、と。
(だって、俺と和哉じゃ違いすぎる)
自分と和哉では、歩んできた道のりが、人生観が違いすぎる。
光志郎は両親を吸血鬼に殺され、復讐を果たすためにハンターになった。
明るい道が歩けなくなろうとも、自分の手がどれほど汚れようとも、
それまでの暮らしを投げ打ち、腕利きと評判のハンターに弟子入りして、吸血鬼の殺し方をたたき込んでもらった。
今日もそうだったように、この先もずっと吸血鬼を狩るためだけに生きていく。
黒い噂が聞こえてくれば、そこに潜り込んで、
そこで自分が何をしたのか、誰と関わったのか、すべては事件とともに闇に
そうやって、吸血鬼と戦い、殺して、殺し続けて、そして、いずれその
自分が生きていた痕跡すら消えてしまう日が来るとしても、より多くの吸血鬼が殺せるならば、復讐が果たせるならば、それでいい。
それが、自分が望んだ生き方であり、自分に定められた使命でもある。
そのはずだったのに。
『なんでって、一緒に卒業したいからに決まってるだろ』
和哉が口にした、何気ないひと言。
それが、光志郎の胸に
―――これからも友として
和哉にとっては
この上なくありふれていて、ごくごく
だが、光志郎だけは知っている。そんな日は、永遠に来ないだろうことを。
(任務が終われば消える、
和哉が向けてくる感情も願いも、すべて作り物だって、偽物でしかないって、分かってる)
任務が終われば、偽りの『設定』は消えてしまう。
どれほど親しくなろうとも、その関係はリセットされてしまう。
だから、遠くない未来、和哉は光志郎のことを忘れてしまうだろう。
和哉が光志郎へ向けている友情も、してくれた努力も、抱えた願いも、全部なかったことになるだろう。
そして、光志郎はその「現実」を、たったひとりで受け止めなければならないのだ。
そんなこと、痛いくらいに分かっている。
今まで何度も繰り返してきたことだから。
(でももし、俺がハンターなんかにならなかったとしたら、そうしたら……)
ただ、もしも、和哉と同じように、光志郎もただの高校生で。
何かの拍子に親しくなって、作り物ではない、嘘偽りのない友情を育むことができていたのなら。
それならば―――この先もずっと友達でいられたのだろうか。
(深く考えたりしないで、和哉のことをバカにすればよかったんだ。
こっちの気持ちも知らないで、偽物の感情に踊らされてやがる……そんな風に、心の中で笑い飛ばせばよかったんだ。
でも、できなかった。
だって、「俺にも明るい未来があったのかもしれない」なんて、一瞬でも思ってしまったから……)
ちゃんとしろと和哉に尻を叩かれ、ぶつぶつ文句を言いながらも勉学に取り組んで。
テストの点数に一喜一憂して、学園祭やら体育祭で盛り上がって、長期の休みは皆で一緒に遠出したりして。
そうして一緒に卒業式を迎えて、違う道を歩むことになろうとも、時折は連絡を取って、昔話に花を咲かせて……。
そんな優しい
(そんなのは、今の俺には身に余る夢。
復讐に生きると誓った心に嘘はない。変わりもない。
でも、優しい夢を見せてくれた、その
この手は
今更道を
卒業式を一緒に迎えるという和哉の願いは、叶えてやることはできない。
でも、一瞬でも穏やかな幻影を、まぶしい夢を見せてくれた、その優しさには報いたいから。
だから、せめて、自分が去る日まで……いや、自分が去った後も、和哉には変わらぬ
この底なしのお人好しが、あたたかく光に満ちた日々を過ごせるように。
人を喰らう化け物を排除して、和哉が暮らすこの街に平穏を取り戻そうと。
そのために尽力しようと、そう思った。
(父さんと母さんを亡くしたあの日から、仇を討つことだけ考えて生きてきた。
この
そんな俺が、生まれて初めて、誰かを守るために、この力を使おうと思った、のに)
それなのに、結局、和哉を守ることはできなかった。
自分が吸血鬼に負けて取り逃したせいで、彼を死にそうな目に遭わせた。
そして、結果的に、この血まみれの世界に引きずり込んでしまった。
(報いるどころか、酷い目に遭わせて!
結局、俺は
お人好しな和哉のことだ。
真実を知れば、
自分が「そういう存在」になってしまったのならしょうがないと、自分にできることがあるならばと、誰かの助けになるならと、あっさりと自分の未来を差し出してしまうだろう。
本来ならば、穏やかな場所で、日の当たる世界で生きていけたはずなのに。
明るい未来を奪われてしまったことに、不満のひとつも言わずに。
きっと、困ったように眉尻を下げて、でも、周りに気を遣わせないために唇には笑みを浮かべて、今まで抱えてきた夢も望みも、
(こんな
一緒に過ごした日々を
それで良かった、いや、それが良かったんだよ……)
光志郎は痛む胸にそっと手を添え、きつく唇を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます