第10章:日常の崩壊

 どれほど恐れていても、必ず朝はやってくる。

 月曜日の朝。足取り重く、和哉は高校へと登校していた。


 ホームルームまで、残り時間は10分ほど。和哉にしては遅い登校だ。

 朝、親から「服のポケットから物を出してから、洗濯物かごに入れなさい」というお小言を食らっていたら、すっかり遅くなってしまったのだ。


(怒られていたから、いつもより遅いだけ。

 ホームルームには間に合ったんだ。何も問題はない。

 別に、どんな顔して光志郎に会えばいいか分からなかった……というわけではなくて)


 頭の中にそんな言い訳を並べつつ、和哉は昇降口に足を踏み入れる。

 半端に靴を脱ぎ、下駄箱から上履きを取り出そうとして、ふとその手を止めた。


「……あれ?」


 和哉が自然に手を伸ばした位置と、自分のネームプレートがられている場所がズレている。


(何でひとつ下の段なんかに……)


 2年に進級してから2ヶ月が経過している。今更いまさら場所を間違えるはずもない。

 何とも表現しがたい気持ち悪さが、和哉の胸にこみ上げてくる。


(そんな、まさか)


 夕べのことを思い出した和哉は、ネームプレートをひとつずつさかのぼって確認していく。

 出席番号順に―――あいうえお順に並んだ、下駄箱のネームプレートを。


「―――な、い」


 スマートフォンのアドレス帳がそうだったように。

 和哉のクラスの下駄箱も、光志郎のものはなかった。


 光志郎の苗字は「橋本はしもと」、和哉は「藤沢ふじさわ」。

 出席番号でいうならば、和哉よりも光志郎の方が前にくる。

 本来、自分よりも上にあるはずの、「橋本」の靴箱が、ない。


(そんなバカなことがあるか!)


 下駄箱に靴を突っ込み、かかとを踏むような形で上履うわばきをつっかけて、和哉は教室へと走る。


「おう、藤沢。おはよう!」


「どうした、今日は遅いじゃないか」


 和哉が教室に駆け込むと、山本と高橋が声をかけてきた。


「おはよう。でも今、それどころじゃなくて」


 和哉は自分の席へと走る。

 その後ろには、光志郎の席があるはずで。


「…………」


 和哉の席の後ろ。列の最後尾。

 光志郎の席があったはずのそこに、机がなかった。

 ざっと教室内の机を数えてみると、やはりひとり分足りない。


「どうしたどうした、顔色が悪いぞ?」


 動きを止めてしまった和哉の肩を、山本がバンと強く叩いた。


「な、なあ。光志郎の席はどうした?

 イタズラだとしたら、タチが悪すぎるぞ?」


 顔を引きつらせながら和哉が問いかけると、山本は軽く首を傾げた。


「コウシロウ? 誰だ、それ」


 和哉が何を言っているのか、まったく分からない。山本はそんな顔をしている。


「橋本光志郎だよ! クラスメイトの……サボり魔で、うるさくて、でも、愛嬌のある……」


「そんなヤツ、うちのクラスにはいないだろ。

 変な妄想にでも取り憑かれたのか?

 俺らは2年生。受験ノイローゼになるには、まだ早い」


「だから、そんなんじゃなくて!」


 救いを求めるように、和哉は高橋に視線を向けた。


「オレらにドッキリをしかけようとしたんだな?

 藤沢にしちゃ珍しいことするじゃないか!

 でも、お前はそういうキャラじゃない。向いてないからやめておけって」


 高橋は和哉の頭に手をおき、グシャグシャと髪をかき回した。

 ふたりとも、まったく話が通じない。らちがあかない。


(ほ、他に何か、確かめられるものは……)


 ふたりの言葉が、たちの悪い冗談であってほしい。

 その一心で、和哉は眼前に広がる現実から目をそらす。


(……そうだ、ロッカー!)


 机の上に鞄を乱雑に放り投げると、和哉は高橋の手を振り切って廊下へと飛び出した。


「お、おい! もうすぐホームルーム始まるぞ!」


「サボる! 今はそれどころじゃないんだ!」


 堂々とサボりを宣言するなど、優等生としては失格かもしれない。

 けれど、今この目で確認しなければ、きっと一生後悔する。


(こんな気持ちじゃ、どうせ授業だって頭に入ってこないし!)


 途中で転びそうになりながらも、和哉は廊下のすみに備え付けられているロッカーの元まで走った。

 和哉のロッカーのほんの数個前に、光志郎のロッカーがあるはず。


「……嘘だろ?」


 校舎の壁に固定される形で備え付けられてるロッカー。

 光志郎が使っていたはずのソコに、「橋本」のネームプレートはなく。

 それ以降―――「藤沢」である和哉も含め―――が繰り上がるような形で並んでいた。


(僕のは、このひとつ後ろだったと思うんだけど……)


 和哉はポケットから鍵を取り出し、自分のネームプレートが貼られた場所に差し込んでみる。

 鍵は鍵穴へとすんなりと入っていき、回せば軽い音を立てて解錠された。


 いたずらで、ネームプレートの場所を入れ替えることくらいはできるかもしれない。だが、さすがに鍵を交換しておくのは無理だろう。

 ならば、おかしいのは、目の前の光景などではなく……。


(僕の記憶の方が、間違って、る?)


 生徒たちは、時間を気にしながら、次々と教室へと走って行く。

 そんな様子に目もくれず、和哉は言葉を失って呆然とその場に立ち尽くした。


『何か悩みがあるというのならば、この親友様が相談にのってあげよう!』


 そう言ってくれた少年なんて、本当は居なかったのか?

 すべては和哉の妄想で、橋本光志郎という生徒なんて存在していなかったのだろうか……。


 スマートフォンのデータに彼の痕跡はなく、クラスメイトも知らぬという。

 さらに、下駄箱も机もロッカーも学校にも、彼のものは何ひとつなかった。


 目の前に広がる現実が、和哉の心を絶望へと追い込んでいく。


(光志郎は僕の妄想の産物でしかないのだとしたら、僕は……)


 和哉の心は叫んでいる。光志郎はたしかにここにいたのだ、と。

 間違っているのは目の前に広がる風景の方であって、自分の記憶の方が正しいはずだ、と。


 だが、そう思うことすら、自分がおかしくなりはじめてる証拠なのだろうか?


(何か、証拠はないのか?)


 どこまでが現実で、どこからが妄想なのか、判断がつかない。

 なんでもいい、光志郎がいたという確固たる証拠がひとつでもあれば……。


「……あ」


 ふと、親の小言を思い出して、和哉はズボンのポケットをまさぐった。

 カツリと指先が固い物に触れる。

 慌てて引っ張り出しすと、それは、バター味の甘い飴だった。


『和哉は疲れてるみたいだし、あまーい飴ちゃんをあげよう。これで癒やされるといい』


 渡された時の、光志郎の声が蘇る。

 和哉なら選ばない、甘い甘いバター味の飴。

 押しつけられて、ポケットにしまい込んで、そのままにしていた。


 自分では買わない物が手元にある。それはつまり……。


(いる。いたはずなんだ。光志郎は!)


 光志郎は、妄想の産物なんかじゃない。

 たしかに彼はこの街で生きていた。存在していた。


(光志郎、何があったんだよ、どこにいるんだよ)


 いまこの瞬間も、彼はこの街のどこかにいるはず。


(絶対に、探し出してやる!)


 絶対に光志郎を見つけ出す。

 そして、何があったのか、彼の口からすべてを説明させてやる。


 ホームルームの開始を告げる鐘が鳴り始める中、和哉は光志郎の痕跡を求めて学校を飛び出したのであった。

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