魔力の流れ

 ドロシーの前に、魔導機が一つある。

 一抱えもあるフライパンのような鍋の上を、半球状のガラスのドームで覆ったもの。鍋と言ったのは形だけで、実際は山地を模した地形ののジオラマのようなものが作られており、その真中に小さな紙のような材質の白い蝶が置かれている。

 その鍋状の大地の横から出ている二本のケーブルを、それぞれ左右の手に握り、ドロシーはひたすらウンウンと唸っている。


「そんな五歳以下の子供の玩具を、今更やらなければならんのか?」


 悪戦苦闘するドロシーに、あくびを噛み殺しながらレオンが呆れる。

 護衛を理由にここに残っているくせに、この熊のような騎士は、扉を護ることさえせずにドロシーの向かいに座り、ふんぞり返っている。

 どうせここまで来るような賊はいないだろうから、セリカの買い出しに付いて荷物持ちでもした方が、よほど役に立つだろうに。


「お貴族様には有り触れた玩具でも、村の鍛冶屋の娘には初めて触れるものですから。賢者様に言われたからとて、自由自在に操れません」


 賢者様は、偉そうなおじさん(セリカ曰く、内務大臣の秘書官)に呼ばれて、昼食の途中で城に戻っていった。

 向かう前に賢者様は、セリカには、三人の居室を整えるよう言い渡し、レオンにはセリカの荷物持ちを命じた。だが、この男は護衛の名目を優先して、ふんぞり返って座っている。

 ドロシーは、魔力の動かし方を学べと、この魔術具を渡されたのだ。

 ドアに魔力を登録した珠のように、勝手に魔力を吸い出してくれやしない。

 ドロシーは自分の中の魔力を動かして、ケーブルを伝って魔導機に流そうと躍起になっているのだが……。

 魔法修行の初歩の初歩らしいが、こっちも生まれて初めての練習だ。

 ドームの中の紙の蝶は、ピクリとも動かない。

 さすがにドロシーも、うんざりしてきた。


「そんなに笑ってるのなら、騎士様はさぞお上手なのでしょう? お手本を見せてくださいな」

「見せてやりたいところだが、騎士に魔法は必要ないからな」

「あら? 先程の賢者様の紹介では、文官の家系だと伺いましたよ? 今は道を外していても、子供の頃は文官として学んだのでは?」

「下らないことを覚えてやがる……」


 図星のようだ。

 たちまち表情が曇り、顔を顰める。


「コツがあるなら、教えて欲しいものね」

「わかったよ……最初はこうするんだ」


 ドロシーに代わってケーブルを握ると、ぐっと力を込める。

 白い蝶は舞い上がるどころか、跳ね上がるようにしてドームの天井に貼り付いた。


「あのねぇ……これで良いわけ?」

「良いんだよ! どのくらいの魔力を与えれば浮かぶか、解りもしねえ奴が力の加減も何も無いだろうよ。……まず貼り付かせてから、少しづつ力を抜いていくんだよ」


 なるほど。ある時ふらりと天井から離れ、微妙に高度を変えてゆく。

 ちょうど良い高さで前後左右に蝶を羽ばたかせ、レオンは得意げに笑ってみせた。

 悔しいが、ちゃんと使いこなせてる。


「じゃあ、魔力はどう動かすのよ?」

「それは自分の感覚だから、説明しづらいな。……七転八倒してりゃあ、その内に感覚がわかるんじゃないか?」

「説明が、お座成りだわ。……それで教師役が務まるのかしら?」

「選んだのは賢者様だ。俺のせいじゃねえよ」


 無責任な護衛役に代わって、再びケーブルを握る。

 途端にはらりと地に落ちた蝶を見つめ、もう一度舞いあがれと力を込めた。しかし、蝶はピクリともしない。

 会話をした分、親しげな気分になったのか、遠慮のない笑いが返ってきた。


「ワハハハハ……才能が無いんじゃないか?」

「煩いわね……。まだ二時間も使ってないのよ、仕方ないじゃない。あなたは、蝶を動かせるようになるまで、どれだけかかったのよ!」

「そんなもの、一時間もあれば動かせるだろう?」

「一時間? そうなの?」


 愕然としてしまう。

 ……本当に才能が無いのかもしれない。

 だが、扉が開かれると同時に、それは否定された。


「あっきれた! 物臭な上にホラ吹きなんて、最低の騎士様ね。それを一時間で動かせるくらいなら、魔術学校からスカウトが来ちゃうわよ」


 大荷物を抱えたセリカが、小気味よく啖呵を切った。


「でもよ、こいつは実際に……」

「こいつじゃなくて、『ドロシー様』でしょ? 出自はともかく、今のこの方は『刻の塔』の補佐役。下級貴族のあなたより、位はずっと上よ? それに、警護対象を護衛役が下に見てどうすんのよ? 頭可怪おかしいんじゃない?」


 小気味よく正論を叩きつけられて、レオンが口籠る。

 いつの間に着替えたのか、朱色のメイド服で腰に手を当てた姿が実に頼もしく見えた。


「私は三日目に動かせたけど、それでも才能が有りそうだと魔法学校に進むように親から言われたくらいよ。文官の家に生まれて、騎士になっているようじゃあ二週間はかかってるわね」

「そこまでかかってねえよ! ……十二日目には動かせた」

「どんだけサバ読んでるのよ! まずは鎖鎧の下のチュニックをこれに着替えなさい。『知識の塔』では、従者は主の魔力の色を纏うのが決まりです」


 舌打ちしながら、ここで着替えようとするレオンを、眦を釣り上げて自分の部屋へと追い出した。


「まったく……ドロシー様も、早くこちらに着替えてください。後で採寸して作り直しますが今は帯で調整してくださいね」


 若草色のローブを脱ごうとすると、セリカが身支度を手伝ってくれる。

 そんな生活に慣れていないから、なんとも照れくさい。


「では、最初にドロシー様の私室を整えますので、私とあの物臭騎士の入室許可をお願いします」


 言葉にして、意思表示すれば良いのだとか。

 それが済むと、廊下に積まれた配達された物たちをレオンを叱咤して部屋の中に運ばせる。運ぶ側から、また荷が届くあたり、どれだけ買ってきたのやら。


「あ……セリカ。窓辺に置いてある物には、触れないでください」

「わかりました。……言われた側から、触ろうとしない!」

「だってよ……これって何で出来てるんだ? 見たことねえぜ?」

「『知識の塔』では、門外不出の物は珍しくないの! 一点ものを壊したら、生涯奴隷確定と心してね」

「マジかよ……」

「当たり前でしょ。お金で買えないものも無造作に置かれてたりする所よ」

「くわばらくわばら……」


 セリカが見ている内は、大丈夫だろう。

 魔導機の白蝶相手に悪戦苦闘している内に、ドロシーの部屋は整えられて、この研究室にかかったようだ。

 窓という窓には朱色のカーテンが掛けられ、応接セットには白いクロスがかけられる。

 照明も蝋燭のシャンデリアから、燭台を外して魔導機の灯りに替えられてゆく。

 磨き直されたデスクに、羽根ペンなどの文具が整えられ、それらしい形になった。

 感心しながら眺めていたら、セリカの眉が吊り上がったので、慌てて魔導機に集中する。


(彼女たちが真面目に仕事をしてるのだから、主人の私がサボってちゃいけないか……)


 身体の中の魔力を動かすという感覚が、なかなか理解できない。

 力を込めた所で、ワイヤーを握る力が増すだけ。身体の中の流れを押し出そうと、手振り身振りを加えてみても、変な人に見られるだけだ。


(さっき、あの騎士様も普通にしていながら、動かしていたっけ)


 だいたいが、平民の生活の中に魔導機なんて存在しないのだ。

 お貴族様の家なら、蝋燭代わりに灯りに使ったり、水差しに水を湧かせたりと、当たり前のように魔導機を使うのだろう。

 魔力を吸われる感覚に慣れていれば、まだ自分の中の魔力の動きも理解できるのかもしれない。


(そもそも、私に本当に魔力があるのかも怪しいのよね……)


 産まれてから一度も、使ったことがないのだ。

 でもさっき、ドアに魔力を登録する珠は朱色に染まった。あれが私の魔力の色だというのなら、本当に私にも魔力があるのだろう。

 とても、信じられないが……。

 気長にやるしかないだろうと、ため息をつく。

 そんな風にぼんやりしてたら、不意にセリカの声がした。


「ドロシー様、蝶が浮かんでいます!」

「えっ? まさか……」


 ぼんやりしている間に、どう魔力が流れたのだか?

 確かに蝶が宙に浮かんでいた。

 出来たら出来たで、ドロシーは頭を抱えることになる。


(何がどうやって、魔力が流れたのよ? 誰か教えて……)

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