第6話 <偶然か運命か><形而下と形而上><器と道>
さて、その女性、何日かすると、今度は受付コーナーに座る日が多くなったのですが、ここでもまた、その姿と動きは「お茶の宗匠」。
全部書けば一冊の本になってしまいますが、動物ではない人間としての動作やその人生を見る観点として、その究極は「偶然か必然か」ということではないでしょうか。
ある人がたまたまそういう動作を行なっている、ということではなく、まるで運命でそう決められていたかのような、重みのある動作に見える、ということがあります。
単に、正確・迅速に機械的に処理するのではなく、まるで前世・前々世からそう決められていたかの如き運命的な動き。機械と同じように正確で迅速な処理を行なっているのですが、違う次元と異なる位相がそこにはある。
開山忌、千家家元の動作に、私はそういう「違い」を感じました。「運命」まではいきませんが、「運命的な、と形容できるほど重厚で深い意味が感じられる動作」です。
もちろん、大徳寺の本堂、客席には御歴々・各界の名士という舞台装置の効果もあるでしょう。 しかし、茶道の技術としての価値はわかりませんが、5年間の大学日本拳法時代、何百万回もぶん殴る動作をしてきた私には、お茶を点てるという動作以上の「何か」をそこに感じました。
これが「形而上」ということなのかもしれません。目に見える現象の裏・奥・別の次元に存在する「姿形を越えた存在が見えた」ということです。
「帳(とばり)の後ろに身を潜め、陰にして在。我は力を持った魂であった」(ジャン・ラシーヌ)
Behind a veil, unseen yet present, I was the forceful soul that moved this mighty body.
そして、「開山忌に感じたこと」を、私はその後の今までの人生で何度か見て・感じてきました。
といっても、坊主には少ない。(いわゆる高僧と呼ばれる坊主を含め)私が坊主時代に出会った何百人もの禅坊主では2人だけ、この機械的な正確さと人間的な温かみを感じさせてくれた人がいました。が、運命までは見えなかった。
やはり、家元だとか高僧といった肩書きがあると、究極の所でその無意識の自意識が「運命的なる次元」の邪魔をするのでしょう。
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