再飛翔
雨の中を登山を終えた翌日、ラグロスが伸びをしながら洞穴を出た。
時刻は早朝。雲一つない空から朝日が顔を出していた。
「少しでも休めたのはありがてぇな」
想定よりも早くついた二人は二時間ほど仮眠をとっていた。
セレンは睡眠の必要がないので、ラグロスが起きたのを確認してから先に頂上へと向かった。そのため、今ここには居ない。
「味気ねぇなぁ……」
保存の効くものや木の実を潰して練り合わせ、押し固めた棒状の携帯食をかじる。
安さと保存のし易さを重視したそれに味は考慮されていない。
食べられはする、というのがラグロスの意見だ。
「オイラはねむいぞー……」
「フレアか……。昨日は出てこなかったけど、どうかしたのか?」
「あめ、きらいだ」
「……その炎っぽいの、消えるのか?」
「ちがう、ここのあめはまりょくがうるさいからやだ」
よろよろ。そんな言葉が似あう様子で、人魂がラグロスの中から飛び出す。
いつもよりも勢いのない炎を揺らめかせる人魂は一段と低い声だ。
顔など見えないはずなのに、気力のない子供の顔が目に浮かぶ。
「ここの……? 確かに、こんな降ったりやんだりする雨が普通な訳ないしな……」
「オイラ、ここきらいだ」
「努力はする」
そんな感情論で抜けられれば誰も苦労はしないが、進めるのなら進みたいラグロスが頷く。
それとは別に、この一日おきに変わる天候に改めて興味を抱いたが、分かることは既知の事実のみ。
考えても仕方のないことだった。
「きょうはどうするんだー?」
「今日か?」
「おー」
ラグロスが遠くを見渡す。
中層の中でも最も高い標高付近であるため、彼の視界を遮るものは少ない。
切り立った山々と、麓で生い茂る群青の林が視界一面に広がっている。
彼が見通すのはさらに奥。どこからともなく集まった水で出来た湖と、その湖を吸い込むように滝を創り上げる巨大な大穴。
中層最奥部、終着の滝壺。
下層へ至るための門と、その守護者が居る場所だ。
「……抜け道ってやつだよ」
目的地を捉えて離さないラグロスの瞳と打って変わり、彼はにやりと口角を上げた。
*
先に頂上の開けた場所にいたセレンは、岩に腰かけたまま顔を出した朝日を眺めていた。人間でない彼女に絶景に対する感情は薄い。強いて言えば悪くないと思うくらいだ。
後ろから来た足音を感じ取って振り返ると、片手を挙げたラグロスの姿が現れる。
「よっ、元気か」
「遅い」
「そいつはすまねぇ」
「で、何をする気?」
「こいつだよ」
さりげない辛辣な言葉を微塵も気にせず、ラグロスが鞄から袋と瓶を取り出す。
彼女が本気で思ってもいないことはそれとなく分かっていた。
袋の中身は二人で買いに行った風魔石の粉末だ。瓶の方は使い捨てで、再利用度外視。
単に強度のある素材で出来た代物である。
中層で採れる粘土、
現時点では同じ大きさの石ころと同じ重さしかないが、水を吸わせることで何倍にも重くなる。
「……貴方も隠す気ないのね」
「必要ならとっととやるべきだからな」
「同意ね」
昨日までは意図が理解できなかったセレンも、ここでようやく彼の意を察した。
「準備するから待っててくれ」
「分かったわ」
近場の岩に腰かけたセレンは、ローブの首紐を解いて脱ぎ去った。
魔力で出来たローブが溶けるように霧散する。
胸元にリボンが付いたオフショルダーのブラウス。
フリルが付いたスカート。ニーソックスにミュール。
彼女の背から生える白翼も含め、文字通り真っ白だ。
白尽くしの服装から覗く彼女の肢体。凹凸のあるそれに一瞬目を惹かれるも、ラグロスは己のやることに専念した。
雨上がりでまだ水たまりが残っている場所に瓶を転がす。
すると、あっと言う間に水を吸いこみ始めた。
それを傍目になるべく平らな地面を探る。
足踏みで均したり、大剣を置いてみるなどで確認。
良さげな場所に鞄を置いて置き、瓶の回収へ。
数分足らずで水たまりは消えていた。
足首まで覆える程度に深い水たまりを食い尽くした瓶を拾い上げる。
「──おもっ」
「不思議な瓶ね」
「だろ? 使うの初めてだけど」
「そ……人間も変なものを考えるのね」
「作られて、売られてる。つまり、需要があるってことだからな」
ラグロスが袋の中身を瓶の中に注ぐ。
からからと音を立てて、粉末状の風魔石が中へと転がり込んだ。
「よし、終わったぞ」
「想像はつくけれど、どうするの?」
「これをこうして──わっっと」
「ふふっ」
すりぼうを取り出し、粉末をさらに砕く。
途端に中から溢れ出した強風が一気に放出され、顔で風を受けたラグロスが慌ててその場を離れる。
後ろでは少し滑稽な彼にセレンが噴き出していた。
「……とりあえず前みたいに掴んでくれ」
「了解よ」
自分でもダサいと思ってはいたが、口にはせず乱れた茶髪を軽く整え、セレンへ背中を向ける。
それを抱き着くような形で彼女がしっかりとホールド。
「行くわよ」
白翼を広げ、宙へ飛び立つ。目の前の瓶から生み出される上昇気流も利用し、一気に上空へ。
魔力には秀でていても力は見た目よりは強い程度。がっしりとした体格のラグロスを抱えて真上に飛ぶのは流石に難しい。
それを解決するための瓶と風魔石だったのだ。
雲に届く程ではなかったが、ラグロスが生きてきた中で最も雲に近いところまで上昇する。
そして、態勢を変えて滑空。気圧の変化に耳が追い付かず、外の音が聞き取れない。
さらに目が開けられないほどの速度の飛行。
(目痛てぇ……)
二度目で覚悟は出来ていたが、とても遊覧飛行とはいかなかった。
加えて、ラグロスの背中で主張する存在も彼の意識を奪ってくる。
普段はローブに隠れているし、最悪目を離せばいいだけなのだが、物理的に接触されるとそうもいかない。
罪悪感と意識を紛らわせるため無理やり目を開けては眼球に空気をぶつけられて、悶えるのを繰り返していた。
「ちょっと! あまり動かないで!」
「……ぐ、すまねぇ!」
ラグロスの内心など欠片も知らないセレンは、前よりも騒がしい彼の体を落とさないよう力を強める。
この状況では逆効果だが、彼女に気付けるはずもない。余計に身じろぎする彼に苛立ちを募らせるのみだった。
彼女は天使、すなわち人外であり、羞恥心のような無用な感情を基本的に抱かない。
だから、このような行動に対するハードルが低かった。
「……すまねぇ」
下手に動くのが危ないのを自覚したラグロスがついに動くことを諦める。
自信を支える少女の体に意識してしまっていることを謝罪するとともに、なるべく平静を保てるよう心内で今後の計画を考えることに努めた。
「……? あまり動かないで」
何故二度も謝られたのかセレンは疑問符を浮かべる。
空気を割く音で聞き取りにくかったのもあり、空耳かと疑うほど。
ともかく、飛びやすくなった。
苛立ちも消え、特に彼を責めることもなく前を見据える。
(……どこへ向かうのか聞いてなかったわね)
そこでようやく目的地を知らないことに気付いた。
とはいえ、怪しさ満点の大穴の中に濃密な魔力を感じる。
恐らくあそこだろうと検討をつけ、目的地を知らなかったことをおくびにも出さず飛行を続けた。
中層のことを知る本人に聞けばいいだけの話なのだが、彼に尋ねるのは何かが邪魔をしていた。
──何度言ったら出来るようになるのだっ!!
(……聞かなくて済むならそうすべき、よね)
頼りたいが、頼ることを恐れていた。
支配する側とされる側だった時であれば話は違った。
だが、彼女の中でラグロスという存在は対等とはいかずともそれに近い者へと変質していた。
きっかけは彼自身で新たな一歩を踏み出し、セレンと並び立てるようになったこと。
過程はともかく、仲間と呼ぶに値する彼へ頼ることを彼女は無意識に避けていた。
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