体温

「……ん」


 朝を告げたのは土砂降りの雨音。

 岩肌と水面を雫が激しく跳ねる音にラグロスは煩わしさを覚えた。


 重い瞼をゆっくりと持ち上げ、体の感覚と焦点を取り戻していく。

 万全でない視界は、目の前で何かが彼の視界を遮っていることだけしか分からない。


 一日おきに入れ替わる天気。

 今日の中層は雨だが、雨具の類も鞄にしまっている。

 当然気温が下がり彼の体を冷やしていた。


 冷気に身じろぎした彼が次に妙な暖かさと柔らかさに触れた。


「ふわぁ……? ──!?」


 漏れ出た彼の欠伸が疑問の色を帯びる。

 しかし、穏やかな寝息を感じ取った彼が目の前の何かをロープに身を包む少女だと気付き、慌てて距離を取る。


「セ、セレン……!?」


 彼女がここにいること自体はおかしいことではない。

 ここで一緒に野宿をしたのだから当たり前だ。


 しかし、天使であるセレンは眠らないはず。

 その彼女が寝ていることに驚いていた。


 先程感じた暖かさは彼女の体温。柔らかさは少女の肢体だとラグロスは遅れて気付く。


 思わず息も止めて距離を取った彼は、落ち着くために一度深呼吸。

 外の冷気で肌寒いおかげもあり、突然のことに熱くなった体が冷めるのも早かった。


「……」


 ローブに身を包んだ彼女が露出しているのは伸ばされた足と顔のみ。

 どちらも睡眠をとらないという不健康な生活に見合わない質を保っていた。


 冷静になったラグロスがそれらに目を惹かれる。

 最近でこそ見慣れてはいるが、酷く魅了されるものに変わりはない。


 ましてやそれを間近で目にしたのだからなおのこと。きめ細やかな肌は撫でれば心地よさそうだ。……ついさっき触れたばかりだから断言できてしまう。

 思い出したら余計に考えてしまいそうで思考を切り替えた。


「……そういや」


 ラグロスが入り口に目を向ける。

 セレンが寝ているということは見張りがいなくなる。

 比較的安全な場所だが、襲われない確証もない。


 そう思い見つけたのはセレンがルーンで作り上げた光の膜。

 その辺りは抜かりないようで、ラグロスは胸を撫で下ろす。


「……。──おーい、起きてるかー?」


 何をすべきか一瞬迷ったラグロスが、セレンに声をかける。

 だが、随分と深く眠っているセレンは身じろぎすらしない。


「……お、おーい」


 ローブ越しに彼女の横腹辺りに手を添え、揺する。

 ぎこちない動きになっているのは分かっていたが、彼自身も何故かはわからない。


 流石に体が揺れると目が覚めるのか、瞼が震える。

 しかし、その瞼が開くことはなかった。


「……はぁ──起きろー」

「……ぅん」


 こんどは強めに声をかける。

 すると、セレンは何かを探すかのように手を彷徨わせた。


 そして、すぐ横で胡坐をかくラグロスの服の裾に触れ、離すまいとばかりにしっかりと握ってきた。


「……おい?」


 流石のラグロスも困惑し、怪訝な顔のまま呼びかけ続ける。

 もっと大声を出せば起こすのは簡単だが、そこまでして起こす理由もなかった。


 相も変わらず、セレンは目を覚まさない。

 そのくせラグロスの服の裾を掴んだまま隣で寝ているのだからたちが悪い。


 再び起こそうと試みたが、フードの陰に隠れた彼女の表情に微笑が浮かんでいるのを見て彼も気が抜けた。


「……はぁ、もういいか」


 その笑みを最後に見たのは上層以来。門番を倒し、ハイタッチを交わした時だ。

 あまりにも自然な笑みで、これを起こすのは流石に忍びなかった。


 さらに言えば、これはこれで役得だと思っている自身も居た。


 そのまま動くこともせず鞄を引き寄せ、中から昨日も食べた携帯食を口にする。

 棒状のそれをかじりながら、視線を再び外へと向ける。


 不思議なくらい雨が降っていた。

 一日おきに天気が入れ替わるなど、中々に理解しがたい。


 しかし、一年もここで活動していたのだ。

 慣れるものは慣れる。


 それでも慣れないものがあるとすれば──


「……寒」


 ラグロスが小さく身震いする。

 凍てつく程ではないが、体が何か暖かいものを欲する程度には憎い寒さだった。


 そんな寒さの中では僅かな温かみさえもよく感じられる。

 具体的に言えば、彼の服の裾を握りしめて近くで眠っている少女の体温が。


(セレンも……寒かったのか? ──いや、違うか)


 そう思うも、天使とやらが寒暖を感じにくいことを遅れて思い出す。


 ならば何故。

 深まる疑問に答えを出せぬままラグロスはしばらく思考にふけった。

 少なくとも、この状況を嫌ってはいなかった。



 *


「……」

「よ、起きたか?」


 セレンの瞳が目覚めよく開かれる。

 たまたまその様子を見つけたラグロスが彼女に声をかけた。


「……~~~~っ!?」

「えぇ……」


 がばっと、体を起こした彼女がラグロスから急速に距離を取る。

 穏やかに眠っていた割に起きた途端距離を取るものだから、若干傷ついたラグロスがジトりとした目つきでセレンを見やる。


 壁際に体を引っ付けた彼女は限界まで見開いた目を元の大きさに戻すと、徐々に状況を理解して強張らせた体の力を抜いていく。


「……どうし──いえ、私が寝ていたのね」

「気付いてくれたようで何より。珍しいっつうか、初めてだよな。アンタが寝てるの」

「……ちょっと、気が抜けたのよ」


 ぷいと顔をそむけ、表情をフードの奥に隠す。

 しかし、僅かに除く頬は朱に染まっていた。


 その様子を見ていたラグロスが頬を緩める。

 彼女の言葉は自分に気を許していることの証明だった。

 少なからず好意を持っていると分かって嬉しくないはずがない。


「そうかい。準備出来次第出るぞ。これ、雨具な」


 ラグロスが鞄からセレンの雨具類一式を取り出す。

 ひょいと彼女の膝元に投げやり、彼も合羽かっぱを着こんだ。


「……どのくらい寝てた?」

「言うほどじゃないぞ。ほら、空模様も変わってない」

「……雨じゃないの」


 横穴の外を見たセレンが苦笑する。

 気を使われているのは彼女もよく分かっている。

 だが、彼女の胸を覆っていた罪悪感を打ち消すには十分だった。


「じゃあ、誤差だな」

「……分かったわよ」


 諦めたように息を吐いたセレンが合羽を着こむ。

 昨日とは一転して肌を覆い隠した二人が横穴を出ると、大量の雨粒が二人の体に襲い掛かって来た。


「へぇ──煩わしいけれど……これはこれで良いわね」


 感覚の鈍いセレンにとって叩きつけられる雨粒はあってないようなもの。

 しかし、その衝撃によってはためく雨具が彼女の動きを妨げていた。


 当然、煩わしい。


 だが、それ以上のものが二人の目の前にあった。


 渓谷を流れる激流。

 昨日は清流だったそれから水龍の所以となった滝が昇っている。


 荒れ狂う川に流されてか、昇る滝も激しくうねっている。

 これこそまさしく水龍と呼ぶべき代物だった。


 静かに見惚れるには少々騒がしい場所ではあるが、目を奪われるのは確かな光景だ。


 弾ける雨粒を飲み込み、流れる激流は飛沫をたてて岩肌を削る。

 二人が立っている狭い足場もその繰り返しで出来た成れの果てである。


 水龍の源である激流も、まるで命を持っているかのように垂直に伸びる飛沫を何度も上げる。


 流れゆく勢いが上へと捻じ曲げられ、二人の目の前に水柱がそびえたつ。

 そして一瞬で崩れ落ち、また激流の元へと帰っていく。


「だろ? 危険もでけぇけど、俺は好きなんだ」


 ラグロスがにやりと笑う。

 セレンも頷きを返した。


 それから二人は細い崖道を歩く。

 息を奪われるような光景がすぐよこで見えるが、そこに飛び込んでしまえば命はない。

 荒れ狂う自然の暴力で儚く散ることは間違いない。


 そして、彼らが歩く道も水で濡れて滑りかねない。

 一見ただ歩いているだけだが、綱渡りに近い危険を背負っていた。


 そして、ここは迷宮だ。

 それが意味することは二人も当然知っている。


「──ラグロス」

「分かってらっ」


 背中の大剣は抜かず、腰に挿した投げナイフを投擲。

 うねり昇る滝の水面を蹴り、巨大な青色のカエル──駆水蛙ブルーホッパーを迎撃する。


 水面歩行という非常に厄介な能力を持つが、それ以上はない。

 あとはただの大きな蛙だ。無論ラグロスと同じ高さを持っているため、体当たりを受けるだけでも馬鹿にならない。


 足場のない空中でナイフを脳天に受けた駆水蛙ブルーホッパーが勢いを失って谷底へ落ちていく。

 駆水蛙ブルーホッパーが水面に立てるのはあくまで四肢を水面に付けている時のみ、背中から落ちれば──


 着水。大きな水柱をたてて自然の暴力に飲み込まれる。


「ちょいと勿体ねぇな」

「もう十分あるでしょう?」

「お、何をか分かるのか。セレンもいっぱしの探索者だな」

「茶化すなら落とすわよ」

「……へいへい」


 ラグロスが魔石になるはずだった迷宮生物が谷底に落ちていったのを悔いる。

 少なからず探索者として活動したセレンも彼が何を惜しんだのかを理解して、呆れ顔を作った。


 あまり中身のない会話を交わし、二人は再び崖道を進む。

 それから水龍の渓谷を抜けるまでさして時間はかからなかった。

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