十一月二日、花を贈る。

豆渓ありさ

十一月二日、花を贈る。

 彼の部屋の窓辺には、時折、花が活けてあった。


 ガーベラ、ひまわり、カスミソウ。トルコキキョウ、薔薇、カーネーションに、ピンポンマム。ユリ、そして、ラナンキュラス。


 近所に気に入りのフラワーショップがあるのだとか。彼がそこに立ち寄る時に傍にいたことがあったが、なるほど、店員とも随分馴染みであるようだった。


「だって君、花があるだけで部屋の空気がぱっと明るくなるだろう。そうは思わないかい?」


 そのひとは私に向かってそう言うと、ひとつ、非常に様になるウィンクを投げて微笑んだ。


 彼はたぶん美しいものが好きだった。


 だがそれは、決して表面的な美だけを愛でるのではなかった。


 いや、内側に潜めた美しさがあってこそ外見も輝くのだ、と、彼はたぶん本能的にそれを知っている人だったのだ。だからこそ、いつか、私の耳許に、ひそかにこんなふうに語りかけたことがあったのだろう。


「見てご覧よ、彼女の指。傷だらけだろう」


 花屋の店先、頼んだ花束を作ってくれている相手の、まさにその手許を言うのだった。


「花屋というのは意外と過酷な仕事だと思うんだ」


 彼は澄んで高い秋の青空のような色の瞳を瞬いた。私は、相手の真意を窺うように彼の端正な顔を見詰めた。


 花が長く美しくその生命を保てるよう、花屋の店員達は常に心を砕いている。そこには沢山の苦労がある。


 たとえば、水仕事をすれば、勿論手が荒れるだろう。棘のある花を触って傷がつくことも稀ではない。冬は吹きさらしの寒さの中、長時間ずっと立ったまま。重いものを運ぶ仕事も多い。


 見た目の華やかさとは違って、随分大変な職業なのだ。


「でもさ」


 彼は、にこ、と、穏やかに微笑んだ。


「そういうの、お客にはまるで見せないじゃない? そういうところがすごいなあって思うんだ」


 こそりと私に言いながら、彼の視線は店員のほうへと向けられていた。尊敬めいたものをたっぷりと籠めて細められた彼の瞳の青は、どこまでも澄んでいて美しかった。


「痛かったり寒かったり辛かったり、すごく大変な面があると思うんだ。でもさ、フラワーショップの店員さん達って、いつも明るく笑っているよね」


「ええ、そうですね」


「それはきっと、知っているからなんだ。彼ら彼女らが頼まれる花は、お客にとって、特別な何かを彩るためのものなんだって。――日常生活に色を添えるために部屋に飾るのもそうだけれど、それは誰か特別な人との豊かな時を過ごすためかもしれない。他にもさ、目の前のお客はもしかしたらこれから、その花束を持って愛の告白をするのかもしれない。プロポーズをするのかもしれない。大切な母親への感謝を込めた贈り物かもしれない。恩ある人との別れに際して手渡すのかもしれない。あるいは、病気の友人を見舞うのかも」


 言いながら、彼はとろりと青い目を眇めて私を見た。


「僕たちはいつも誰かへの思いを花に籠める。特別なプレゼントだ。きっとそれがわかってるから、花屋さんたちはみんな、どれだけ辛くても笑顔でいる。――すごいよね」


 相手のやさしい視線を受けて、ええ、と、頷きつつ、私もすっと目を細めた。


 ちょうどそのとき、彼が注文した花束が出来上がってきた。


 デルフィニウムにブルースター、ルリタマアザミにトルコキキョウウ、可憐なカスミソウがほんのりと青いのは染色されているからだろう。そして中央にあって一際ひときわ美しいのは、青い薔薇の花だった。


 自然界に存在しないその花の花言葉はかつて、不可能だとか、ありえないもの、だったとか。でも、今日、店先に染めの青薔薇を見つけて足を止めた私に彼は、別の花言葉を教えてくれた。


「いま青薔薇の花言葉はね、奇跡とか神の祝福だとかなんだよ」


「それは、すてきですね」


 私が言うと、くすりと笑った彼は、ちょっと悪戯っぽい、あるいは子供みたいな無垢で純粋な表情を見せた。


「じゃあ、今日はあの花を買って帰って、部屋に飾ろう。君との食事の場がますます素敵になりそうだ」


 そう言ってウィンクすると、店員に、青薔薇を主役にした青い花束を作ってくれるよう頼んだのだった。


「いつもありがとうございます」


 馴染み客である彼に店員が花束を渡しながら言う。


「こちらこそ、いつも素敵な花をありがとう」


 彼が答える。


 青は聖母マリアの色。彼の抱えた青い花束は、彼の心根の浄さ、やさしさ、強さを、そのまま映したかのように美しかった。その時、私にはそう思えた。





「あの」


 私は奥の店員に声をかけた。作業中だったらしい店員は顔をあげ、はい、と、返事をして店先に出てきてくれた。


「この青い薔薇と、それからこちらは、勿忘草わすれなぐさでしょうか……これで小さなブーケを作っていただけませんか?」


 皺深くなった指で心に留まった花を指す。


「わかりました」


 店員はにこやかに応じてくれた。


 その指には小さな傷がたくさんある。けれど彼の笑顔は辛さなど微塵も窺わせない、明るいものだ。つられるように私も微笑んだ。


「誰かへのプレゼントですか?」


 訊ねられ、ええ、と、私は答える。


「掛け替えのない、大切な友人だった人に」


 私の言葉に、相手は何かを悟ったようだ。何も言わなかったけれど、慈しむように花を手に取り束ねていくその手つきが、更に優しいそれになったように思った。


 黒い瞳を瞬かせ、私はほうと息を吐く。目尻には皺。かつて艶やかな黒だった髪は、今やもう大分と白い。


「君も歳を取るんだね」


 晩年の彼には随分とからかわれたものだった。


 今日は十一月二日、死者の日だ。だから、花を贈る。特別な想いを籠めて――……ひと足先に天へと旅立った、大切な貴方へ。

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十一月二日、花を贈る。 豆渓ありさ @aoi_tsuki

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