第12話
22、22歳か。
別に大した年の差でもない。
振る舞いが年上だとは思えなかったが、そのあたりはどうでもいいことだ。
あの女が一緒に寝るつもりだったことに動揺してしまったが、経験があるようには見えない。
そういう相手には余裕を持って接してやるほうがいいと聞いたことがある。
どっかのホテルで家族で飯を食ったとき、通りすがりに話している声を聞いた。
初めての女には、こっちにはまだそんな気はないという素振りを見せてやると、安心して心を開くとかなんとか。
心を開いて欲しいとは思っていないが、俺を怖がらないならそれでいい。
あの女が俺に怯えると、イライラして何も考えられなくなる。
風呂から上がって雑に髪を拭いて、着替えを取りにクローゼットに向かった。
新品の下着を引っ張り出して、一度も着たことない部屋着を着る。着心地は悪くなかった。
ドアを開けるとベッドに山があるのを見つけた。変な気持ちが湧いてきて、口元が歪む。
なんで今、笑ってんだろうな。
別に面白いことなんかないのに。
ばかみたいな顔をして寝てる女がいるから、それが面白いのかもしれない。
女の寝顔は前回見たときよりも穏やかで、ベッドの寝心地が良いんだろう。
ここに住むことになったらこのベッドは女にくれてやる。
少し肌寒いのか、女の手が何かを探すように動いた。
上掛けが必要らしい。
どっかに薄い毛布があったはずだが、場所が分からない。
寝室にもクローゼットがあるから、その中に仕舞っている可能性が高いだろう。
そう考えて開けてみると、未開封の薄手の毛布があった。
包装を力任せに開けて、女の体に掛けてやる。寝ているとは思えない素早い動きで毛布を引き寄せ、女は満足そうな顔をした。
この女、凛音とかいったな。
凛音から少し離れてベッドに転がる。
不思議と眠れそうだった。
凛音がいない間にまた眠ることが難しくなって、隈も色濃くなっていたが、今日は眠りにつけそうだ。
凛音は気まぐれで性格が悪い女だ。
ろくな連絡をして来ない癖に、急に通話を掛けてきて、顔を見たいだなんだと言い出して、帰ろうとして。
俺のことをわがままと言ったが、それは凛音の方だ。
寝顔を観察して、飽きた頃に照明を落とした。
しばらく仕事の予定はない。
凛音はいつ、ここに引っ越してくるのか、明確な日が決まっていないとまたイライラしそうだった。
起きたら引っ越し業者に電話するように言ってやる。嫌がる顔が思い浮かんで、ふっと笑いがもれた。
目を閉じて思考があやふやになったとき、とん、と触れる感触がして、一気に目が覚める。
凛音に背を向けていたが、その背の間近に凛音がいる。
振り返ることができなかった。
動機が激しくなって苦しい。
なんなんだよ、この女。
いつだったか付き合った女が触れてきたときは暑くて鬱陶しいと思っていたが、それとは違う。
明らかに病気の象徴だ。
呼吸が少し苦しくなって、凛音から離れようと体を動かす。
その拍子に腕が伸びてきて、凛音が体に絡みついた。
拘束されている。
心臓の音がひときわ激しくなり、油断をすると口から出てきそうだった。
呼吸が荒くなると起こしてしまう。
それは可哀相だと思った。
なんとか静かに息をしようと深く吸い込んで、深く吐き出す。
だんだんと落ち着いてきた。
俺を枕かなんかだと勘違いしてるんだろう。腹が立つ。
悪態をつこうにも起こしてしまっては可哀相なので、ぐっと堪えて目を瞑る。
目を瞑ると凛音の方からせっけんの匂いがして、心が掻き乱された。
なんでこんないい匂いがするんだ。
起きたら絶対に、絶対にシャワーにぶち込んでやる。こんな匂いをさせていたら外を歩くのも危険だ。ふらふら力のある相手に寄ってこられたら、この女じゃ勝てないだろう。
久しくなかった生理現象に一足遅れて気が付く。
なんか熱いなと思ったら、反応してしまっていた。
眠っている凛音に自分がそんな反応を見せたことが許せなくて、カッと頭に血が上る。
俺は、馬鹿か。
凛音が安心して眠っている横で、そんなふうになるなんて、凛音がもしも気が付いたら俺のことを軽蔑するだろう。
軽蔑は、されたくない。
凛音が俺にそんな目を向けたら、俺はめちゃくちゃになって何もできなくなってしまう。
ただでさえ、今でも心を乱されるのに、凛音が冷たい顔をして俺を見たら、俺は一生床に這い蹲って起き上がれない気がする。
絶対に見つかってはならない。
じりじりとうつ伏せ寄りに体を動かして、心臓を落ち着ける。
凛音の絡みついた腕と足が大きく動けば、おそらく起こしてしまう。
そうならないように細心の注意を払って、態勢を整えた。
「……倫太郎?」
「おっ、おきっ、起きて」
喉がキュッと締まって変な声が出た。どうして一番嫌なタイミングでこの女は起きるんだ。
「ごめん、ちょっと寝てた……」
するすると腕と足が離れていく。
別に、それはそのままでもいい。
わざわざ離れなくていい。
「抱きまくらがないと眠れないのか?」
「そういうわけじゃないけど、家に長いやつがあるから癖でくっついたんだと思う」
「か、貸してやってもいい」
「あるの?」
「俺をだ」
「あー、うん、気持ちだけで」
また、そうやって俺の心をぐちゃぐちゃにする。
この女はいつも俺で遊んで、本当にイライラする。
自分の体が反応していることも、心がぐちゃぐちゃなことも、凛音に知られたくはないのに、ぶつけてしまいたい気持ちが溢れて苦しくなる。
「倫太郎?」
「なんでもない」
爆発しそうな感情が止められなくて、体を抱き締めて隠す。泣きたくなんかないのに勝手に涙が流れた。
「なんでもない感じじゃないね」
よっと、と声を上げて凛音が起き上がった気配がした。ベッドが揺れて、背後に凛音が近付いてくる。
「来るな」
「なんで?」
「お前なんか、嫌いだ」
「……そう、なんだ」
息を呑む音がして、凛音が離れていく。発した声音が傷付いているように思えて、慌てて振り返った。
「違う!今のは違った!」
「じゃあなに……なんで泣いてるの」
「泣いてない!」
びっくりした凛音が俺の頬に触れる。
「暗さに目が慣れたからはっきり見えてるよ。なんで泣いたの?先に寝たのが寂しかった?ごめん」
「違う」
「理由は教えてくれないの」
「お前が、いい匂いがするから」
「いい匂い……」
服を引っ張って凛音が嗅ぐ。
違う。
お前の体からいい匂いがしてるんだよ。
馬鹿女め、気付いてもないのか。
くそ。
「それでなんで泣いてるのか分からないんだけど」
「うるせぇ」
「いい匂いが嫌いだった?」
「……嫌いじゃない。そのせいで、俺が」
「俺が?」
「なんでもない、聞くな」
「分かんないよ。言ってくれないと」
凛音が溜め息をついた。
ざわざわと胸が不快になる。
溜め息を、つくな。
俺のことを、そんな困った顔で、見るな。嫌になって背中を向けた。
「なんか嫌なことをしたならごめん、ソファーの方で寝るよ。毛布出してくれたんだね、ありがとう、借りていってもいい?」
「そうやってすぐ、いなくなるな」
「……倫太郎が、怒ってるから」
ベッドから降りる音がして、急いで引き止める。
腕を掴んだら凛音がベッドに倒れ込んで、間近で視線を合わせてきた。
「怒ってるの?」
「怒ってねーよ」
「じゃあなんで拗ねてるの?」
「拗ねてるわけじゃない」
「…………あ、そういうことか。ごめん、する気だった?先に寝てたから……」
「違う!」
反応したそれに気が付いて、凛音が申し訳なさそうな顔をする。
羞恥で頭がおかしくなりそうだ。
「えーっと、する?そういう用意ある?」
もし見つかったら軽蔑されると思っていたが、凛音は少し気まずそうにしただけだった。
少しずつ頭が冷えていって、凛音の顔がちゃんと見れるようになる。
そういう用意ってなんだ。
凛音の言葉に返せないでいると、凛音は苦笑いした。
「つけるやつとか、そういうの」
「ばっ、あっ、あるわけないだろ!俺はそういうつもりでお前を家に連れてきたわけじゃない!」
「それは分かってたんだけど、えっ、じゃあなに?なんで泣いてたの?」
「お前がいい匂いをさせるから俺が反応して!見つかったら軽蔑するんじゃないかと思って!なのにお前は俺を捕まえてるし、動いたら、俺が抜け出したら、起きるかもしれねーだろ!起こしたら可哀相だろうが!」
「うん、それで?」
「俺はお前がどう思うかって考えたら……苦しくて、自分がこんなことになってるのも嫌で……わかんねーよ、なんなんだよ、お前がいい匂いするから!」
自分の考えていたことを伝えるだけでこんなに恥ずかしいのは初めてだった。
羞恥からうまく言葉が出て来ないせいで支離滅裂な話になる。
それでも凛音は頷きながら聞いて、俺が言い終わると笑った。
「ごめんって、いい匂いさせて」
「笑うな」
「うん、ごめん。ありがとうね、起こしたら可哀相だと思ってくれて。そういうの嬉しいよ」
「……可哀相なのは当然だろ」
「倫太郎は優しいね」
「優しいやつはお前にイライラしたりしない」
「そう?優しくても腹が立つことはあると思うよ」
「お前は?イライラすんの?」
「……するときもある」
「…………俺に?」
「倫太郎にイライラしたことはまだ一回もないよ」
ないのか。
わがままとか言ってたわりに、怒ってはないんだな。
暗い部屋の中で凛音が俺を見て笑っていた。
この女は普通に見えて、全然普通じゃない。俺を振り回して遊んで、嫌なことを聞いてくるから。
「いろいろ考え過ぎて不安になったり恥ずかしかったりして、涙が出たってことだよね?」
「……お前が俺をぐちゃぐちゃにさせるから」
「うん。分かった。分かったよ。倫太郎のこと、少しは分かったと思う」
「俺はお前がわかんねーよ」
「私は……押しに弱い、かな」
それは感じていた。
この女、強引に行けばしぶしぶでも従うところがある。
俺にはそれでいいが、他のやつにそれをされるのは非常に迷惑だ。釘を差しておかないと何かやらかす可能性がある。
「変なやつの言うこと聞くなよ」
「変なやつって?」
「俺以外のやつ」
「範囲が広すぎる。倫太郎は変なやつには入らないんだ」
「……」
イライラした。
そういうことを言うから、お前のことが嫌いなんだ。
「心が決まったかもしれない」
「はあ?」
「倫太郎、私のこと抱き締めて」
急にわけがわからないことを言い出したが、別に応えてやらなくもない。
さっき嫌いだと思ったのは一応、撤回してやる。
抱きしめるって、どうやるんだよ。
そのまま頭を抱えりゃいいのか。
腕はどこに置くのか、力はどのくらいか、俺がシュミレーションをしていたら、凛音が噴き出した。
「おい」
「うん、ごめんって、可愛くて」
「馬鹿にしてる?」
「してないって、もー」
凛音が俺の体に絡みついて、勢いのまま、ふたりで横に倒れた。
額をくっつけてじっと俺を見る。
心臓が勢い良く跳ねた。
いまの一瞬、かなり痛かった。
目の前の凛音を見ると締め付けられたように胸が苦しい。
「うん、私、倫太郎のこと好きかも」
「……っはあ!?」
「倫太郎は私のこと嫌いかな」
「心臓が痛い、好きならこうならないだろ」
「なるよ」
「……なる、のか?」
「好きだと胸が苦しくなったり切なくなったりきゅんきゅんするらしいよ。私は倫太郎にきゅんってしたよ」
「俺はお前のことが好きなの?」
「どう思う?きゅんってする?」
「お前が笑うとそういう感覚がある」
「じゃあ好きなのかもしれないね」
凛音の顔が近過ぎて、体が熱くなっていく。全身が沸騰しそうなくらいに心臓は激しくなるし、よくわからない感情に引っ込んでいたはずの涙がまた流れた。
凛音の体をすべて溶かして食べてやりたいと急に思う。
この体と凛音が溶けて混ざって一つになれたら、俺は生きていけそうな気がした。
無防備な唇を口に含むと凛音の体が震える。ほんのり甘い味がして、堪らず唇を舌で割った。
「りんたろう」
「……なんだよ」
「せめてもう一回歯磨きさせて……ちょっと寝ちゃったあとだよ……」
「…………お前の、そういうところが、俺は」
「ついでにコンビニとか行ったほうがいい気がする。何かが必要になる気がする、絶対に行ったほうがいいと思う」
「…………車出す」
「近所が恥ずかしいって気持ちは伝わってきた。それは同感」
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