第6話


焦っているような、憤っているような、そんな相手にどういう言葉を投げ掛けていいか、ついに分からなかった。


付き合えと言って私を連れてきた彼は、自宅のマンションらしき場所の駐車場に車をとめた。


周りを見ることもなく一直線に歩いていって、停まっていたエレベーターに乗る。


おそらく、私が乗らなかったとしても、彼はそのまま行っただろう。


視界に私が入っていないことはすぐに気付いたが、同時に心配する気持ちもあって、敢えて距離をとって置いていかれる選択をしなかった。


以前にみた彼の姿はここまで消耗していなくて、急激な見た目の変化に驚いて、少し怖かった。


憎しみといってもいい強い感情が、彼の目に浮かんでいるような気がしたからだ。


憎まれることをした覚えはないけれど、彼はなにかを私に思って、私を探していたのだろう。


理由が聞けていないから、それが何なのかは知らない。


だが、とにかく玄関先で倒れた彼を放置して逃げ出す勇気はなかった。


力尽きて倒れた彼の傍にしゃがみ込む。

脈を確認して、呼吸を確認して、それから玄関の鍵を閉めた。


力が抜けて重くなった彼をなんとか移動させようとしてみたが、私の力では無理そうだ。

眠っているだけに見えるけれど、顔色は優れない。気絶状態だろう。


部屋中にあるドアを全て開けて、ベッドルームを確認する。


頬を叩いて僅かに意識が戻るのを待って、そのタイミングで体を支えて起こした。


ベッドルームに引き摺って、上体をベッドに下ろしたあと、足もベッドにのせる。


空気清浄機が常時運転しているらしく、小さな音を立てて反応した。


加湿機能もあるようだけれど、水が入っていないのか赤い光が点滅している。


タンクを持ってリビングルームへ向かい、キッチンの水道を借りた。


ここまで、と書かれた線まで水を入れてベッドルームに戻る。


タンクをセットしたら点滅が消えて、空気清浄機が水を飲み込む音がした。



ベッドルームのドアを静かに閉めて、冷蔵庫のある方へ向かう。


ペットボトルの水があったので拝借して、彼が眠るベッドのベッドボードに置いてきた。


ここまで手早く済ませたので、ひと息ついてきれいなフローリングの床にへたり込む。



どうしてこうなったのか、見当がつかない。


彼は怒鳴ることも暴力を奮うこともしなかったが、怒っているように思えた。


途方に暮れた気分になって、膝を抱えて額をくっつける。


あの頃、こうして小さくなっていると、いつの間にか隣におばあちゃんの気配がした。


顔を上げるとおばあちゃんはなにもなかったような顔をしていて、目が合うと、私におやつを食べるかといつも聞いてきた。


もういないことは分かっているのに、癖のようにたびたび私は小さくなることがある。


ひとしきりそうやって、気持ちを持ち直して顔を上げた。


リビングルームはやたら広くて、何十万とかで借りられるマンションの室内画像と似ている。


叔父の貸してくれたマンションよりも、ずっと高そうな内装だ。


備え付けのものも高そうで、キッチンだって広い。


活用されている様子は全くなかったけれど、男の独り暮らしでは逆にコスパが悪いから自炊しない人が多い、などとどこかで聞いた。


それが本当なのかは知らないけれど、少なくともこの部屋の持ち主は、自炊なんて言葉すら知らなさそうなくらい、きれいなキッチンの持ち主だ。


大きい壁掛けの薄いテレビは、今は消えていて真っ黒だ。


テレビの前に置かれている座り心地の良さそうなソファーには、脱いだあとの服が散らかっている。


おしゃれなローテーブルの上には、捻り潰したゼリー飲料のゴミとエナジードリンクの缶がいくつもあって、痩せこけた彼の顔をすぐに思い出した。


こんな生活をずっとしていたなら、あの様子も頷ける。


固形物はあまり食べていないのか、ゴミも見当たらなかった。


病院の領収書が何枚もローテーブルからはみ出して落ちていて、点滴を何度も受けていたことがわかった。


拒食症になっているのか、ろくに水分がとれていないらしい。


目の下の隈も色濃く、明らかに体調が悪そうだった。



まだ、彼は曲を作っているのか。


ベッドルームを探すために開けたドアの一つ、その向こうに機材とパソコンが置かれている部屋があった。


壁にスポンジのようなものがついていて、作業部屋みたいな雰囲気の、部屋。

ギターやキーボードがあって、液晶がいくつもあって、軽く横になれそうなソファーもあった。


きちんとしたベッドルームがあったので、そちらに運んだけれど、もしかしたら普段はあのソファーで眠っているのかもしれない。


ベッドルームのベッドは大きくて高そうなマットレスも敷いてあったのに、シーツに乱れが殆どなくて日常的に使用しているベッドには見えなかった。



立ち上がって、部屋を見渡す。



隅にロボット掃除機があるけれど、ほこりかぶっていて長らく使われていなさそうだ。


けれど、部屋はそんなに汚れていなくて、むしろきれいに見えた。


じろじろ見て回るのはよくないか、と反省してソファーの一部を借りて座る。


  

スマホで現在地を確認。


田舎育ちなので、距離的に歩いて帰れないこともない。


帰って、いいのだろうか。


連絡先を残しておけば、今後は対面して話す必要はないかもしれない。

そう思って、体調の悪い彼を怖がっている自分に自己嫌悪した。



せめてなにか食べるものくらいは、彼が眠っているうちに買ってきて置いておくべきか。好みも知らない人間がそういうことをするのはよくないだろうか。



ぐるぐる考えて、カードキーを借りて部屋を出ることにした。



真夜中だし、コンビニくらいしか開いていないけれど、この部屋でジッとしていることに、耐えられないと思ったからだ。


彼のマンションの近くにはコンビニが数件あった。


それなのに、距離のあるコンビニにわざわざいたことが不思議だったが、それは機会があったら聞くことにして、あまり考えないようにした。


もし、彼がいらないと言っても持って帰って自分が食べられるもの、そういう基準で商品を選んでいく。


基本的には自炊をしているが、やはり手を抜いたり、人が作ったものを食べたくなる。


コンビニやスーパーのお惣菜にお世話になることもあるし、外食もまれにする。



経済的に余裕があるとは言えないので、貯金と心にいつも相談している。


今日、回転すし食べてもいい?

食べれなかったら長く引きずる?


などと自分の心に問い掛けて、一週間経っても心に残るようであればちょっと贅沢をする、というような生活をしていた。



この買い物は大打撃だが、たまにする贅沢の一つだと自己暗示を掛けながら、なるべく悩まず買うことにした。


彼が食べられるならそれに超したことはないし、持ち帰ることになっても自分の好きなものだから楽しく食べられる。


めんたいことマヨネーズのおにぎり。

梅とおかかの味のりつきおにぎり。

スモークされたささみをふたつ。

カマンベールチーズ。

ちょっとピリッとするナゲット。

長芋とかつおぶしを混ぜたおつまみ。

栄養補助食品のショートブレッドのチョコ味とメープル味とフルーツ味。

ナタデココと果肉が入ったマスカットゼリーにメロンゼリー。

たんぱく質が取れるヨーグルト。

塩分補給のタブレット、ビタミンがとれるグミ。


「久しぶりにみた……これも買っちゃおうかな」


ちぎって形を作れるパン。

子どもの頃によく買って欲しいとお母さんにせがんだ。カニの形の素朴なパン。


冷蔵庫の中はあまりものが入っていなかったけれど、冷凍庫は中を確認しないまま出てきてしまった。


余裕はあるだろうか。


新商品のアイスをいくつかと好きなアイスをいくつか買った。


高いのでちょっと悩んだけれど、必要かなと思って栄養ドリンクも2本買った。


彼が飲んでいたエナジードリンクは、今は、買わないことにする。


それがあればなんとか体を動かして、食事を忘れる気がした。



たくさん買ってしまったので、袋が結構な重さになる。コンビニまで距離が近いことが本当に救いだ。


部屋の前までなんとか辿り着いて、荷物をいったんおろしてカードキーを引っ張りだす。


なるべく音を立てないように室内に入ったけれど、大丈夫だろうか。


少し待ってみて、物音がしないのでホッとしてリビングルームに向かう。


要冷蔵のものは冷蔵庫に、要冷凍のものは冷凍庫に、買ってきたものを仕舞った。


冷凍庫は保冷剤が2つだけ入っていて、他にものは見当たらない。


こんなに不安な気持ちになるのは、彼の家の中に食べ物のゴミがあまりにも少ないからだ。


今や、配達してくれる人がたくさんいて、いつでも手軽に食事を頼むことができる時代でもあるというのに、デリバリーを頼んだような痕跡が見当たらない。


買い物で気分が切り替わったのか、先程よりも明るい気持ちになれた。満足感すらある。


ローテーブルの上を片付けて、領収書は揃えておく。


紙の中にハウスクリーニングの領収書が紛れ込んでいて、部屋がきれいな理由を知った。定期的に頼んでいるようだ。


夏でも冬でも毛布がないと眠れない体質なので、彼の作業部屋のソファーにあった、薄くて小さいブランケットを借りる。


リビングルームのソファーに横になって目を閉じた。


彼の部屋はルームフレグランスのおかげか、爽やかな匂いがする。


少し柑橘系に思えるけれど、よく分からない名前がついた種類のそれを、今度探してみようかなと思った。

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