第7話
ぶつりとまるでテレビを消したかのような感覚のあと、意識を取り戻す。気絶したのは、一瞬の間のことだと思っていた。
ドアの隙間から、僅かに光が差し込んでいる。廊下の電気をつけたままだったか、と思った直後に思い出す。
ベッドで眠ったのは久しぶりで、ここにいることがおかしいと気が付く。
ここ数週間、眠れなくて、この部屋に入るのは気が重くて避けていたからだ。
強烈な飢餓感に吐き気がする。
胃液が上がってくる感覚があって、視界に入ったペットボトルを無意識に掴んだ。
蓋を開ける力がなく、深く息を吸い込んで力を込める。
指に痛みが多少あったが、蓋は問題なく開いた。水を喉に流し込んで、意識を失う前のことを思い出す。
たしか、女を連れてきて、そのあとからの記憶がない。
また探しに行かなければならないのか、とイライラしながらベッドを抜け出す。
廊下に出るとリビングのドアが開いていた。そのことに違和感を覚え、ふらつく体を壁で支えて、誘われるようにそこへ向かった。
なんだ、この違和感。
人の気配がある気がする。
もしかして、あの女、帰っていないのか?
込み上がってくる感情をなんと表現するのか分からなかった。
歯痒いような、安堵のような、侮蔑のような、腹立たしいような、混沌とした複雑な感情。
ドアの枠を掴んで中を覗く。
見渡したら、ソファーに盛り上がったブランケットを見つけた。
足がはみ出している。
なんとも言えない光景に、一気に力が抜けていく。
呑気に寝やがって、なんなんだ、この女。
俺を起こしたりすれば良かったのに、と考えて、起こされたのに俺が起きなかった可能性もあるかと思い直した。
不思議と腹が減って、足が冷蔵庫に向かった。
この一ヶ月、自らなにかを食べたいと思うことはなかったのに、ごく自然に食欲があって、そんな自分に驚く。
食べないと死ぬという感覚があって何かしらを口にしていたが、食べたいと思って食事をとったことは、一ヶ月の間一度もなかった。
もしかしたら、もう数年ずっとそうだったかもしれない。
腹に何か入ってればいいと、それだけで過ごしていた気がする。
冷蔵庫の中には何も入ってないはずで、それを知っていたくせに冷蔵庫に手を掛けた。
開ける前に馬鹿だなと自分を嗤って、開けたあとに俺は野生の動物かよと情けない気持ちになった。
中身が入っている。
よく嗅ぎ付けられたもんだ。
初めて見るものばかりが冷蔵庫の中に詰まっていて、そのうち鮮やかな色のゼリーに惹かれる。
マスカット+ナタデココと書かれたものを手に取る。
ナタデココってなんだよ。
食べたことがない。
キッチンのレンジボードの上に置かれたプラスチックのスプーンを見つけて、それも手にソファーに向かう。
敷かれたラグの上に座って、女の寝顔を盗み見た。
笑っても、苦しんでもいない顔。
ただ、眠っているだけの、感情の浮かばない顔をしていた。
ゼリーの蓋を開けようとして、指がつるりと滑る。
開かないことに苛ついて、たったそれだけのことをするための筋力すらも落ちている自分に、またイライラする。
女の鼻がぴくぴくして、うっすら目が開いた。
「あ」
「……帰ってなかったんだな、お前」
完全に覚醒したわけではなさそうだが、眠りに落ちそうな雰囲気でもない。
起きるのだろう。
そう思って話し掛けたら、女が横になった態勢のまま、すっと手を出した。
「それ、ください」
「……」
いま食おうとしたのに、と思いかけたが、そもそも自分で買っていないことは承知の上だ。
女が買ってきたことは明白で、買った本人から寄越せと言われたらその通りにするしかないだろう。
しぶしぶゼリーを渡す。
「汁こぼさないように気をつけて」
ぺりぺりぺり、と器用に寝たままゼリーの蓋を開けて、そうっと差し出してきた。
汁?
表面張力でなんとか留まっている液体に気付いて、慎重に受け取った。
持ったままだとこぼすだろうなと思ってローテーブルの上に静かに置く。
「俺が食っていいのか」
「もちろん」
念の為に確認をとると、女は即答した。
いいと言われたなら躊躇う必要はない。
汁をこぼさないようにゼリーをすくって、震える手をなんとか抑えてスプーンを口に入れた。
「うまいな、これ」
「マスカットの粒が大きいから好きなんですよね」
「へぇ」
どちらかというと小さいように思えたが、女にとっては大きく見えるんだろう。
食べすすめていくと、白くて硬いものがあり、予想しなかった食感に吐き出しそうになった。
「もしかして、ナタデココ食べたことない?」
「これがナタデココか」
「噛みきれるとこがあるので、噛む側面を変えて食べてください」
「……わかった」
変な食い物、と思ったが、ナタデココを知らないと露見したことが恥ずかしくてなにも言えなかった。
なんなんだよ、そんなもん買ってくんなよ。くそ。
なんとか噛んで飲み込んで、腹が満たされる前にゼリーがなくなった。
名残惜しく空の容器を睨んでいたことに女が気が付いて、起き上がってこちらを見つめる。
「……他にもいろいろと買ってきてますよ。同じものはないですけど」
「知ってる。さっき見たからな」
「また同じもの、買ってきましょうか?」
「は?」
「いや、だって、そんな顔するから……」
「どんな顔だよ」
「おあずけ食らった犬みたいな顔ですかね……」
この女、性格が悪いな。
人を動物に例えることが、失礼だとは知らないらしい。
「誰が犬だよ、お前、義務教育も受けてねーのか」
「なんでここで義務教育……?」
不思議そうな顔をする女にイライラして、立ち上がる。
立ち上がって、別に行く場所がないことに気が付いた。ここは俺の家だった。
「もう帰れよ」
「え?帰ってよかったんですか?」
女が驚いて聞き返してきたので、そういえば話があると言って連れてきたんだったと思い出す。
けれど、本当は話したいことなんてない。それに、不思議ともうどうでもいいような気持ちだった。
「……もう、いい」
「じゃあ帰りますね」
そういわれると、少し苛つく。
あっさり帰ろうと立ち上がって背を向けた女に言葉を掛けようとして、なにも出てこない。
「いろいろ買ってきましたけど、食べられそうですか?」
「……さぁ」
「食べられないものは持って帰るつもりなので、言ってください」
「食べる」
「……わかりました。じゃあ、帰ります」
スマホを手にして出ていこうとした女の腕を、反射的に掴んだ。
「お前、連絡先は?」
「……あー。いり、ます?」
「一応聞いとく」
俺に連絡先を教えたくなさそうだったから、無理やり聞くことにした。
女の電話番号を聞き出してメッセージアプリで検索する。
アイコンが犬だった。
「飼ってんのか、犬」
「いえ、それは好きなわんこチャンネルの記念配信で配布されたパロンちゃんの画像です」
「はぁ?」
「もういいですか?」
「……いい、帰れよ」
最初に会ったときとはまるで違う態度に悪態をつきたくなったが、我慢する。
あの時はずっと笑って嬉しそうな顔をしたくせに、今日は全然笑った顔を見せない。
カードキーを押し付けて、女は帰っていった。
しゃがみ込んで、イライラをなんとかしたくて髪を掻き乱す。
ああくそ、なんなんだよあの女。
作業部屋に入って前髪を雑にかきあげて視界を確保した。
慣れたページを開いて「パロン」で検索したらすぐに犬が出てくる。
有名らしい。
聞いたことは一度もなかったが、チャンネルの登録者も多かった。
少し考えて、登録する。
人気動画の一つを選んで再生したら、フリーBGMで人気のよく聞く音楽が流れた。つまんねー動画だなと思って犬が遊ぶ様子をぼんやり見つめる。
自動再生で終わると次がまた流れる。
腹が減ったなと思ってスマホを見たら、日付が変わって深夜になっていた。
くそが。一日見てたってことかよ。
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