第2話


支えにしてきた音楽がある。


その曲を聞けばどれほど辛くても前を向ける気がした。


どん底にいてもどうにかなるのではないか、と思わせてくれた。




東京は憧れの街だ。


行ってみたいという気持ちを持っていたけれど、唯一の肉親の祖母を置いて行けるはずがなかった。


両親が事故で死んだのは、高校生の時だった。


あまりにも現実味がなくて、しばらく涙も出なかった。


自分の人生において、突然両親が居なくなるということが起こるだなんて、微塵も思ったことがなかったから。


それはそうだろう。

きっと誰もそんなことを想定して生きてなどいない。


今日は早く帰っておいでと微笑んだ父が、行ってらっしゃいと送り出してくれた母が、そのやり取りを最後にこの世からいなくなってしまうなんて、いったいどこの誰が想像しただろう。



私の、誕生日だった。


父は珍しいことに休みをとって、母とともに私のためのケーキを受け取りに行ったそうだ。


その帰り道で玉突き事故に合い、二人とも命を落とした。



運が悪かったと誰かが言った。

言葉が静かにすり抜けていった。



母の両親は遠方に住んでいて、父の両親は離婚して、近くに住んでいるのは父方の祖母だけだった。


祖母は私を抱き締めて、よう頑張ったねと言った。



その時、初めて涙が流れた。


父と母はもういない。

この世にいないのだ。




学校には行けなかった。

けれども、祖母は何も言わなかった。



田舎の人口も少ない街で、ゆっくりと時間が過ぎていく。


ぼーっと一日を過ごして、祖母の手伝いをしたり、庭の手入れをしたりする。


教師が何度も家に訪ねてきたが、祖母は本人の意思を尊重するといって、無理に学校に行かせようとはしなかった。


好きなことを飽きるまでやってみんさいと言ってくれたが、好きなことなんて事故があったあの日からすべて色褪せてしまって、なにも取り組めなかった。



そんな日々が半年を過ぎた頃、祖母が珍しく浮かれて帰ってきた。


「これ、これ、あかりの絵よ、こないなったんねぇ」


CDショップの袋を渡された。


中を出してみると、真っ白な背景の中にぽつりと鮮やかな一枚の絵が小さく飾れているジャケットのCDだった。


力強いその絵には覚えがある。

母の油絵だった。


ケースの側面には「colorful」と書いてあり、タイトルの下に「Rin」とある。


アーティストの名前だ。


事故の前日、母が納品したものだ。



この仕事のことは、よく覚えている。

油絵を描いている母にとって、少し珍しい仕事だったからだ。


展示の依頼や作品購入の連絡が多いなか、描き上がった油絵をなるべく高画質で写真に撮ってから欲しいというものだったから、家に作品が残っている。


CDのジャケットにある油絵は、写真とは分からないくらい綺麗に印刷されている。



もう一つ、記憶に残っている。

依頼をしてきた相手の提示した予算が、とても少なかったことだ。


母はそのことに少し悩んでいて、けれど珍しいその依頼を受けることにした。

必死な感じだったから、と言っていた。



母に絵を依頼したその人がどんな歌を歌うのか、当然気になった。


祖母はとても古いCDラジカセを引っ張り出してきて、嬉しそうにコンセントを繋げた。


二人で、ドキドキしながらCDをセットした。


再生ボタンを押すと、音楽が流れる。



可愛らしい曲調だった。

楽器の音が始まる。


歌い始めたのは、想像と違って男性だった。


高さのある、男の人の声。

優しい声だった。


高いけれど、跳ねていない。

キンキンするようなところは無くて、落ち着いた声音だった。


男性というより少年に近い。

音楽は、激しくはない。


明るい曲調だけれど、染み入るような歌詞と歌い方だ。


歌詞カードを引っ張り出して、読みながら音楽を聴いた。



突然の悲しい出来事、恋人に別れを告げられて、困ったな、でも仕方ないなと思った主人公は行ったこともない街にふらっと行って、そこで一度も飲んだことのない珈琲を飲む。


意外に美味しいことを知って、珈琲が好きな恋人のことを思い出す。


いつも飲んでいたなと思い出して、けれど、そう思うだけ。


悲しい気持ちはあまりない。


そんなことが起こっても、世界は普通に回るだけ。


悲しみに暮れても、暮れなくても、時間は過ぎて、日は昇る。


だから何が起ころうと、大丈夫。


自分は自分で、誰にも自分を左右はさせない。


悲しんだりしてあげない。

すぐに忘れるから。


そう言いながらもちょっとずつ思い出す。


新しい生活が始まって、作ったことのない料理を作ってみる。


元恋人の得意料理だ。

失敗してしまうけれど、食べてみると悪くない。


自分にも作れるものだ。


そうやってまた世界が回っていく。

ひとりでも、ふたりでも、変わらない。

自分は自分。



可愛らしい曲調なのに、恋人に振られて強がって前を向こうとしているというストーリーのアンバランスさが不思議と病みつきになった。


恋人に対しての気持ちだということは分かるのに、父と母を思い出す。



毎朝珈琲を飲む父、料理が上手な母。



ああ、珈琲なんて飲んでみたことはなかったな。


コツや隠し味を教わってはいたのに料理を作ったこともなかったな。


「おばあちゃん、珈琲って」

「買いに行かんとないねえ」

「行く」


なぜだか、走った。


部屋に戻って部屋着から外に出てもおかしくない服に着替える。

伸ばしっぱなしでぼさぼさの髪を後ろで一つにまとめる。


久しぶりに鏡を見た。


眉毛がうっすらつながっていて、洗面台に置いてあった安全刃のカミソリを取りに行って、そこで剃った。


顔を洗って、拭いて、居間に戻る。


「行ってくる、おばあちゃん」

「うん、うん」


祖母が手作りの小銭入れにお金を入れて渡してくれた。


スーパーまで走る。

息がすぐに上がった。


部活はバスケット部に入っていたのに、学校に通っていた二か月間、必死に筋トレもやってきたのに、全然もう筋力がないみたいだ。


走りながら涙が出た。


どうしてかは分からない。


だけど、自分が走り出せたことが分かった。




初めて飲んだ珈琲は苦くて、不味くて、祖母は笑いながら砂糖と牛乳を出してくれた。


ふたりとも鼻の頭が赤くなっていて、夜は少し寝つきが悪かった。



その日から、インターネットで「Rin」を検索することが増えた。


どうやら、あのCDが初めて発表した曲で、インターネットの中ではとても評価が高かった。


ランキングというものにも入り、上位を飾った。


大々的に取り上げられていたけれど、アーティストの情報については一つも有力な情報がなく、年齢も、性別も、何も明かされなかった。


一度だけグッズの販売があって、あの油絵のアクリルキーホルダーだった。


すぐに祖母は購入した。

自分のぶんと、私のぶん、と二つ。


私は学校に行くようになって、いろいろなことがあったけれど、colorfulを聞いていればどんなことも乗り越えられる気がした。


どんなことが起こっても、誰に何をされても、きっと自分が自分でいれば大丈夫。


いじめは途中でなくなって、勉強も淡々と復習をこなしていけば同級生に追いつけた。


祖母のことをからかわれても、参観日に親が来なくても、何を言われても、大丈夫だった。


私は誰にも傷付けさせない。

傷ついてなんかあげない。


少しだけ悲しい気持ちがあるときは、祖母と一緒に珈琲を飲んで、母のレシピのご飯を作って食べた。


一年が過ぎ、二年が過ぎ、Rinのことをみんな忘れていった。


colorful以降、一度も曲を出さなかったからだ。



けれど、私は覚えている。



まだ勢いがあった頃、Rinが東京に住んでいることをさらりとインタビューで答えていた。


Rinは対面でのインタビューは受けず、全てメールでの回答だったそうだ。


それを知ってから東京に行きたい、と思った。しかし、祖母のことを思うと、その気持ちは萎んだ。




colorfulだけをずっと聞いて、私は成長していった。


高校を卒業して家からぎりぎり通える距離の看護専門学校に入学した春、祖母が亡くなった。老衰だった。


先が長くないことは分かっていた。

それでも、長生きして欲しいと願いを込めて、ずっとずっと一緒に暮らすと言い続けてきた。


祖母の体調が悪くなることが増えて、それが心配だったから看護の道を選んだ。


知識を深めて少しでも助けになれたらと思っての進路だった。


祖母の葬式は遠方に住んでいた父の弟が行ってくれた。家を出てからあまり帰ってこなかった人で、父との思い出も十八歳までしかないと言っていた。


祖母と辛うじて連絡先だけは交換していたが、ここ一年で連絡を取り合うことが突然増えたらしい。


私のことを心配してのことだった。


遺産は全て私に譲りたい、ということを相談していた。


叔父にあたるその人は事業でかなり成功していて、はじめ、祖母からの連絡が金の無心かと一瞬思ってしまい冷たい態度をとったことをひどく後悔していると言った。祖母は叔父が成功しているだなんてまったく知らなかったようだ。


話していくうちに、一人になってしまう姪のために何かをしてあげたいのだという祖母の思いに共感し、こんな田舎まで来てくれたらしかった。


何も知らず、申し訳なかったと謝るその人に責める気持ちなどなかった。


存在を知らなかったのだから当然だ。



叔父は東京に住んでいて、こちらに来るかと言ってくれた。


独身で所帯はないが、人と生活することがストレスなので、部屋を借りて住んで貰うことになるが、と。



東京に憧れていた。

Rinが住んでいて、Rinが曲を作ったところ。


行ってみたかった。

けれど、祖母との生活にまだ触れていたかった。


看護師の資格を取ったあと、十分な用意をしてから叔父のもとへ向かった。


祖母の家は全てを写真に収めて、壊さず使ってくれる人に売ることにした。


早い段階で買ってくれることになったのは東京から引っ越してくる予定の夫婦で、田舎暮らしに憧れていたと言って、なんだか真逆さに少し笑ってしまった。




東京での一人暮らしは思っていたよりもずっと簡単で、便利さを考えるとこちらの方が断然住みやすかった。


看護師免許があれば仕事には困らない。そう思っていた。


実際、困らなかった。

夜勤の仕事はどこも人手が足りなくて、独身の私はほぼ休みがないような状態だった。


けれど、精神的にすり減っても、私にはcolorfulがあった。


母と父のことを思い出して祖母と過ごした時間が支えだった。


colorfulを聞けば鮮明に思い出す。


何度も何度も祖母と一緒に聞いた。


主人公の置かれている状況とは全然違ったけれど、恋人なんて一度も出来たことはなかったけれど、ずっと支えだった。


身体を壊して辞職するまで、幾度となくcolorfulを聞いた。




東京に住み、私は二十四歳になった。

叔父は家賃は気にしなくてもよいと自身が持っているマンションの一室を貸してくれた。


そのため、日々の生活を派手にしなければ十分に貯金ができた。


四年間ずっと働き通しで、ゆっくりと休めた記憶がない。


体調には気を付けていたが、蓄積していたのか、自律神経失調症と診断された。


それまで厳しかった先輩たちが、途端に同情的になったことがかなり印象深かった。


さて、よくよく休むようにと医師には言われていたが、そのタイミングで叔父の方から退去をお願いされた。


引っ越し先に安いアパートを見つけて、即入居可だったので、あまり迷わずそこに引っ越した。


引っ越しが終わると気が抜けて、ぼうっとする時間が増えた。



とくに、やりたいことがなかった。



毎日ループでcolorfulを流して、もはや耳が慣れて、掛けているかいないか分からないときもある。


聞き入るときと、そうでないときがあって、しかし、生活の一部には変わりなかった。


忙しくて調べるようなことをしていなかったけれど、久しぶりにRinを検索した。


すると、たびたび思い出す人がいたようで、ちらほらと情報が上がっていた。


どれも信ぴょう性は低く、新曲が出るらしいだとか名前を変えて活動しているらしいだとか、見つけては確認してみて、ソースがないことを知る。


やはり、上がっているものはだいたいが嘘のようだった。



壁に飾ってある母の油絵を見て、懐かしく思う。


母のノートパソコンを調べると、Rinからの依頼があった。


しかし、得られた情報は少なかった。

本名ではなくRinという活動名での依頼だったからだ。


今思うと少したどたどしい文章での依頼だった。


メールアドレスは控えているが、メールをする勇気はなかった。



感謝を伝えたいと何度も思ったが、母の死を知らないであろう相手にそれを伝えるのもなんだか気が引けたし、遺作だと知ったら依頼した油絵を持っていかれてしまうかも、と思った。


手放したくなかった。


ただ休めと言われている日常は退屈で、けれど働くには覚悟が決まらなかった。


また体調を崩して迷惑を掛けることが憚られたし、復帰できるほどに回復しているとは自分でも思えなかった。


趣味を探してみるのはどうかと提案されたが、どれもこれも合いそうになかった。


気持ちが暗くなりそうになると、ふらりと出かけて電車に乗って、知らない駅で降りてみた。


見つけた喫茶店で珈琲を飲む。

帰ると母のレシピで料理を作った。


祖母はもういないけれど、colorfulを流してぼうっとした。



そんな生活のなか、私は彼に出会った。

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