桜の海

尋道あさな

第1話

「あ、やば……間違えた」


 私とナルの関係は、そんな失礼極まりない──人違いの言葉から始まった。


 ナルはいつも強引で、私の都合なんてちっとも考えてくれない人だった。

 それでも私はそんなナルの手を取り、二人で歩む未来に期待をしていた。

 まだ見ぬ未来は明るいと当然のように考えて、私の隣にはナルがずっと居てくれるものだと、疑いもしていなかった。


 二人で歩む未来は、一体どんなものだっただろう。

 二人で分かち合う筈だった悲しみや喜びはどれほどのものだっただろう。

 今となっては想像することすら、難しくて叶わない。

 考えれば考えるほどに、涸れた筈の涙が流れ出して頭の中がナルの笑顔で埋め尽くされる。



 呼び掛けても自分はあまり返事をしない癖に、私が無視をすると直ぐ様拗ねる。不貞腐れて分かりやすくそっぽを向いて、更にはその場から逃げようとした。

 怒ったらナルは私の前から姿を消す。何も言わずに財布だけを持って、私に背中を向けて出ていく。


 私はこの小さなアパートの一室でナルが帰って来るのを待って、帰って来たらわかりやすく拗ねたように膝を抱えて俯いた。


 私とナルはきっと幼稚で、どっちもどっちの関係だった。

 素直になれない私とナル。

 ぶつかる事を恐れたナルは私の前から逃げ出して、私もナルを追い掛けずに待つことしかしなかった。


 いつもみたいにむくれて子供のように不貞腐れて、財布を持って出ていって。

 私もいつもみたいに、ナルが帰ってきた時の事を考えて晩ごはんを作ろうとしていた。


 それは本当にいつもと変わりない、慣れた光景の筈だった。


 けれど、ふいにひやりと首筋に冷たいものが走って――肩を揺らしたその瞬間、私は指先に傷を負った。


 滲み出る鮮血が、切りかけの野菜に色を移す。

 ぼうっとしていた自分に気付き、慌てて絆創膏のある場所へ近付いた。



 今思えば、あれは虫の知らせというものだったのかも知れない。

 その時、無性に不安になった私は、絆創膏を貼るのを後回しにして携帯電話を引っ掴んだ。

 ──その日、ナルは珍しく財布を置いて出て行っていた。








「由紀、うちに帰っておいで」


 ああ、皺が目立つようになった。

 いつの間に母はこんなに年老いたのだろう。


 父、という存在は物心がついた時には既に居なかったと思う。いくつかの跡を残して“お父さん”は居なくなった。

 大人になってやっと理解した。

 離婚という選択肢が、夫婦にはある事を。


 母は父と離婚して、父は家を出て行った。

 私が大人になっても帰って来ないという事は、復縁の可能性はなく、もしかしたら父はもうこの世にいないのかも知れない。


 女手一つで一生懸命、私を育ててくれた母だ。

 しかし、過保護と言えるほどに私を心配して、上京する事を許さなかった母。

 上京すると告げ、ずっと反対されていた。

 その反対を押し切って上京したいつかの日。

 あの日、大喧嘩をしてから、電話でたった一度だけしか話していなかったと言うのに。


 ああ、そうだ。たった一度。

 あの時だって、ナルが傍にいた。


 電話を無視する私を見兼ねて、ナルが勝手に電話をとったあの時だけ――電話から漏れ聞こえる、母の声を懐かしく思いながら聞いた。



 ナルが居なくなった事を、どうして母が知っているの。

 ──ぼんやりと、今更ながらそう考えて思い出す。


 私が茉莉(まり)に連絡をしたからか。

 今の会社に入社して、再会した中学の同級生だ。恐らくその茉莉が気を利かせて母に連絡したのだろう。


「大丈夫よ、きっとまた……」

「また、があるの?次があるの?」

「そういう、わけじゃ」


 違う。そうじゃない。母を責めたい訳じゃない。

 よれよれの服を着て髪もぼさぼさで、くたびれた旅行鞄を抱えて──駆け付けてくれた母を、決して責めたい訳ではないのに、どうしても突っ掛かってしまう。



 だけど、いないのに──ナルはもう、私の傍にはいないのに。


 ナルと二人で歩む未来に、私は期待をしてしまった。

 まだ見ぬ未来が明るい事を、疑いもせず信じていた。



 眠たくなる暖かい季節。心地好い風に吹かれる季節。

 桜が咲いて、花見なんかして、楽しくなる筈だった春。


 私を置いてきぼりにして、ナルはこの世から消えた。






「何でだよ、プリンの方が美味いじゃん」

「風邪引いたらふつうはゼリーでしょ」

「誰が決めたんだよ、そんなの」


 ありがとうと言えば良かった。

 ゼリーを頼んでプリンを買ってきたナルを責めたりせずに、お礼をちゃんと言えば良かった。

 小さな事だ。本当に小さな事。

 だけど、私はナルに対して素直にお礼を言ったことが一体どれだけあっただろうか。

 ナルに心から感謝をしたことが、どれだけあっただろう。


 いくつも出てくる後悔が、じくりと胸の内側を抉る。



 ナルとする喧嘩の殆んどは、簡単に仲直り出来る小さな喧嘩ばかりだった。

 卵焼きの味付けや、新しい家具の色。

 小さな喧嘩を繰り返して、私とナルはお互いを知っていった。


 それは、たった二日間で整理出来る程、軽くはない記憶の海。いつでもナルが傍に居て、嬉しい事も悲しい事も二人で一緒に分かち合った。

 思い出が溢れる度に、私は声をあげて泣いた。

 朝方だろうと夕方だろうと構いもせずに泣き喚いた。

 そうする事で私の中のナルが、消えていくような気がしたのだ。



 忘れたい、忘れたくない。

 どちらの感情もあったけれど、私はナルを刻み付けておくよりも忘れてしまう事を選んだ。


 喚いて、叫んで、声を涸らして──ぼんやりと現実に戻った時、私はナルと一緒に過ごしたアパートには居なかった。



 そうして、現実を受け入れる為の、逃げられない日が始まった。




 始めに見た光景は、ひどく懐かしいものだった。

 母が私を見下ろして、私が母を見上げる。

 懐かしいな。そういえば、小さい頃に風邪を引いた時はこんな風に見下ろされていたっけ。


「由紀?由紀っ?気が付いたのね……!」


 ずっと握っていたのだろうか。ずっと傍にいたのだろうか。一目見ただけで分かる程に母は弱々しくなっていた。

 痩せこけた顔は涙で濡れ、握り返したら折れてしまいそうなか細い手。

 温もりが同じだった。

 手を握っている母と、握られている私の体温があまりにも同じ過ぎて、握られているという感覚がうっすらとしか分からない。

 小刻みに震える母の手を、握り返す元気は無かった。


「ここ、病院?」


 掠れた声で紡いだ言葉はちゃんと母の耳に入ったらしい。

 母はハッとしてひとつ頷き、私の腕に刺さった点滴を一瞥した。


「なにも、食べてくれなかったから……」


 その寂しげな眼差しに、何と言えば良いのか分からない。

 心配かけてごめん、なんて素直に謝れるような可愛げは残されていなかった。

 母に対して素直になる、というのはこれからも無理な気がする。

 私の上京を頑なに母が許さなかったあの時、間に生まれた深い溝はこんな状況下にあってもなかなか埋まりそうにない。


 消毒液の匂い──保健室と良く似た匂いのする病室は、簡素で無駄なものが一切なかった。

 ナルのものもない。ナルの匂いもしない。

 そう自覚した途端、言い様のない大きな不安が私を襲う。


 足元から、背中から、頭のてっぺんから襲い掛かってくる漠然とした恐ろしい不安は、私の肢体を硬直させるだけでなく感情までもを溢れさせる。


「ナルに、あいたい。あいたいの」


 寝起きで声があまり出ない。

 それでも強く願ったことを、言わずにはいられなかった。

 私の口からぽろりと出たその台詞に、母がサッと青ざめた気がした。



「もう少し眠ったら、きっと気持ちも落ち着くわよ」


 それだけを言い残して、ひどく焦ったように母は病室を出ていった。

 慌てて病室から出て行く様子は、まるでなにかから逃げているように見えた。


 小さな背中を見送って、一拍遅れて無人に気が付く。

 目が覚めたのに医者は呼ばなくて良いのかとか、ナースコールもしないのかとか、そんな現実的なことが一瞬頭を過ったけれど、熱くなった思考回路はそんなことをすぐに忘れさせた。


 ねぇ、ナル、手を握って。

 ねぇ、ナル、私の名前を呼んで。


 ひたすらナルの名前をずっと呼んで、私は再び眠りの中に落ちた。




 微睡みから目覚めた私を見下ろしていたのはナルだった。

 瞳を開いた私に気付き、ナルはくしゃりと顔を歪める。


「馬っ鹿じゃねーの!……何も食わないとか、おまえ、死ぬ気かよ」


 こんな風に目の前で怒ったナルは、久しぶりに見たかも知れない。眉間に思い切り皺を寄せて、ナルは私をじっと見つめた。


「何でだよ……」


 絞り出したような、悲しげな声音ですらも嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。


「ナル、会いにきてくれたの」


 会いに来てくれたナルが、夢でも幽霊でも構わなかった。

 ただ、ナルがそこにいて私を見てくれている。それだけで充分だった。



「飯食え、仕事行け、ちゃんとしろ」

「……なんか、偉そう」


 ぶっきらぼうに注意する夢のナルはいつもより偉そうで、だけどちゃんとナルらしい。


「由紀。ちゃんと、しろよ」

「ナルが戻ってきてくれるなら、ちゃんとするよ」


 意地悪を言ってしまうのは、もう会えないと理解してしまっているからなのか。ナルを困らせたくてナルにもっと話して欲しくて、普段言わないような我が儘を私は悪戯に口にした。


「……俺、死んでるんだぞ」

「知ってる」

「どうやって戻れば良いんだよ」

「幽霊でも、夢でも良いよ。会いに来てくれるなら」


 とても無茶な事を言ったと思う。そんなの叶う訳が無くて、だけど言わずにはいられなくて。



「……分かった」


 けれど、ナルは頷いた。私の我が儘を了承した。


 夢だと分かっているはずなのに、次に目が覚めた時──私は妙にすっきりしていて、母に向かって笑いかける、変な余裕さえ出来ていた。

 そんな私を母はとても悲しそうに見つめていた。



 大丈夫、変になった訳じゃない。

 ナルが会いに来てくれたから、夢でも会いに来てくれたから、だから、ほんの少しだけ気持ちに余裕が出来たんだと思う。

 大丈夫、と言った私に母がぼろぼろと涙を流した。

 ぎょっとした私が言葉を掛ける前に、母は逃げるように病室を出て行った。


 それが一体どうしてなのかさっぱり分からなくて胸の内が少し痛んだ。私は変になってしまったと、母はそう思っているのだろうか。違うと私がもし言っても、きっとまともには受け取らないだろう。


 だったら、それで良いじゃないか。

 元々、仲が良いとは言えなかった関係なのだから。



 翌日、診察を受けて病室に戻ると、見覚えのある後ろ姿が私の視界に映り込んだ。

 まだ少しだけふらついていた身体の力が全て抜けてしまったように、私は磨かれた綺麗な床にへたりこんで固まった。


 嘘、嘘だ。ありえない。

 こんなの、ありえない。


 そう叫ぶ声が心の中にある。

 胸の内では強く叫んでいる。

 こんなのは、嘘だって。


「な、る……?」


 背中がぞわりと寒くなる。

 鳥肌が立っていくのが分かった。

 全身に走る寒気と恐怖は、誤魔化そうにも誤魔化せない。

 悪寒が走ったのは確かなのに、次いで瞬時に込み上げて来た感情は紛れもなく歓喜だった。


「戻って来いって、言っただろ?」


 呆れ顔で、溜め息混じりに、ナルは私へ手を伸ばす。

 小刻みに震える私の指先がナルの手にそっと触れた。



 ──温かい。紛れもなく、これは人間の体温だ。

 震える手を掴んだナルは、ゆっくりと引いて私を床から立たせてくれた。


「暫くは流動食じゃねーの、由紀」

「……うん」

「ちゃんと飯食って、由紀が元気になったらまた会いに来る」


 私がベッドまで辿り着くと、ナルは元気付けるみたいに私の頭を数回撫でた。


「もう、帰るの?」


 一体、何処に帰るのだろう。

 そもそも何処から来たのだろう。

 透けているなんて事もないナルの身体は、どこからどう見ても生身の人間だった。



「また来るって言ってんだろ?そんなに寂しいかよ」


 さみしいよ。そう言いたい。

 素直になれなかったと後悔しているくせに、また素直になれない自分が本当に馬鹿みたいに思えた。寂しいから消えないでと私が口にしたらナルはきっと驚くだろう。恥を捨てて、縋り付いて、行かないでと言いたかった。


 私が言葉を口にする勇気を振り絞っている間に、諭すような子供に言い聞かせるような優しい口調で、ナルは別れの言葉を吐き出した。


「珍しく大人しいな。やっぱこんな状況だから、由紀もいつも通りの勝気な女にはなれないか?」


 少しだけ交えたからかいは私がよく知るナルのもので、生前のナルを沸々と思い出させる。

 勝気だ何だと言いつつも、大人しくしていれば気持ち悪いやら体調が悪いのかやら、好き勝手なことをよく言ってくれたものだ。



「由紀が元気になって、仕事も行くようになったらまた会いに来てやるから」


 上から目線のいつものナル。可愛げのないその言葉に、懐かしさと切なさで胸が締め付けられた気がした。


「……なにそれ」


 偉そうな態度にちょっとだけむっとする。以前と、同じように。


「じゃあな、由紀」


 ──いかないで。

 思わず出そうになった言葉は寸での所で我慢した。

 意地だったのかも知れない。弱さを見せることが下手くそな私の、余計で邪魔な意地。けれど、伸びた私の手は何より素直さを現していて、ぎゅっとナルの服の裾を掴む。



「……由紀。俺、あんまり時間がねぇんだ」


 困惑を顔に浮かべたナルに気が付いて、慌てて掴んだ手を離す。離したらナルがいってしまう。無意識に出た行動は随分と幼かった。25歳にもなって、やることが子供染みている。ただ、そこに嘘は無かった。服を掴んだことに、嘘は一切ない。


 ナルが目の前にいて、触れるところにいる。そんな幸せを手放したくない。


 だけど──これもまた、私の都合の良い夢なんだろう。

 掴んだ先にカーディガンの確かな感触があったとしても、ナルが私の頭に優しく触れてくれたとしても、ナルが死んでしまった事は変えようのない事実だから。



「必ず、会いに来てよ。約束して、おねがい、ナル」

「……おう、約束な」


 力強い返事に嘘は混ざっていなかった。

 私がそう思いたかっただけなのかも知れないけれど、ナルはこの約束を守ってくれると確信に近い自信があった。

 根拠はないのに、得た自信。


 ナルは約束を絶対に破らないとか、そんな出来た人間じゃない。時には嘘を吐くし、約束だって破ることがある。

 それなのに、この約束だけは破らないと本気で思った。

 真面目な顔をして真っ直ぐに私を射抜くから、目の前にいるナルは絶対に会いに来てくれる。そう、不思議と思った。


 急に消える訳でもなく、ナルはあくまで普通にドアを開けて出ていった。人間らしい幽霊だと小さく笑ってしまうくらい、リアルなナルの後ろ姿は──見えなくなった途端に私に孤独を知らしめる。


 やっぱり追い掛けようと立ち上がると、足にひやりとした感触が伝わる。その冷たさが現実を思い知らせて来る。


 ナル、ごめん、やっぱり待てない。傍に居て欲しい。


 ふらつく足取りでベッドを下りてドアまで辿り着いたものの、開けた先の廊下にはナルの姿は既に無かった。





 味気ない病院食も出来るだけ完食するように心掛けた。

 積極的に散歩もして軽い運動をしてみたり、間食は栄養補助食品と表記されたものばかりにしてみたり。

 単純だと自分でも思う。それでも、もう一度ナルに会う為には言われた通りにするしか無かった。

 病院の売店で、ゼリーに手を伸ばそうとして、プリンを手に取った私をナルはきっと笑うだろう。


「ほらな、そっちのが美味かっただろ?」


 そんな風に、言うだろう。

 本当はそうじゃない。ナルが好きだから、選んだのに。

 変な所で鈍いナルは、きっと私がプリンを選んだ本当の理由になんて気が付かない。


 プリンが入った袋を揺らして病室に帰る途中で、丁度私に会いに来たらしい母と合流して歩く。

 か細い手足でゆっくり歩き、時折心配そうに私を見上げる母の眼差しは妙に居心地を悪くした。


「先生が明後日には退院出来るって」

「そう……良かったわ。足は、疲れていない?」

「うん。大丈夫」


 母の付き添いを必要としない年齢になったと自分では思う。自分の事は自分で出来る──出来ていなかったから、入院した訳だけれど。

 ナルが死んでしまってから、今日で丁度一週間だ。

 葬式にも行っていない。ナルのご家族にも挨拶出来ていない。


「退院したら、ナルのご両親に会いに行ってくる」


 報告は必要ないのに、どうしてか母に私は言った。

 きっと、間を持たせる為に何かを口にしたかったのだ。


「行かなくて良いわ」


 けれど、母から返って来たのは予想外の返答で。


「な、んで……?」


 唖然として問い掛けた私に母はハッと表情を変える。

 しかし、理由を言うことはせず何でもないと苦笑いを浮かべて早足に私の病室へ向かった。



 それから何度か母に聞いてみても、母は頑なに答えなかった。ただ、行かなくて良いとだけ繰り返す母を不可解に思うのは当然のことで、私は母の言うことを聞かず退院してすぐにナルのご両親へ電話を掛けた。母の居ない、日中に。


 私はナルの携帯からご両親の番号を抜いて、自分の携帯電話で掛けた。

 緊張のあまり床に正座をして、コールが途切れたその瞬間にごくりと唾を飲み込んだ。

「もしもし」と聞こえた声に心臓が激しく鼓動する。


「あ、あのっ、初めまして。私、ナル……鳴海(なるみ)さんと、お付き合いをさせて頂いておりました──」

「……ごめんなさい」


 ぷつりと音が途切れた。

 僅かに聞こえていた雑音も綺麗さっぱり無くなって、通話を終了させた事を知らせる音だけが無情に聞こえる。

 ──故意に切られた。

 もしかして「私」だから?ナルの恋人だった「私」だから?

 そう気が付いたのは、二回目の挑戦を経てからだった。



 最初はただの間違いかも知れないと、勧誘か何かと勘違いされているんじゃないかと、微かな希望を抱いていた。

 けれども、二回目に電話を掛けた時、告げられた機械的な台詞は“この電話からの通話は――”という着信拒否のメッセージで。

 住所は分からない。けれど、ナルの免許証を見ればきっと本籍地は分かるだろう。ご両親に会いに行く事を一瞬だけ思い浮かべた。が、すぐにその考えを却下する。


 話したくない、会いたくない。

 だから、私に知らせていない。ナルのお葬式の連絡は私に届いていなかった。

 それはつまり、そういうことで。


 母は知っていたのだろうか。それとも察したのだろうか。私が今になって気付いた、ナルのご両親の気持ちを。

 安易に連絡しようだなんて考えた私が馬鹿だ。

 あの日、ナルは間違いなく私と喧嘩をして家を出たのに。喧嘩なんかしていなければ、ナルが居なくなる事もなかったのに。



 すべてが自分のせい、だとか悲観的になっている訳じゃない。私が居なかったら、なんて考えても仕方がない事をずっと悩む事もしない。

 ただ、喧嘩をしなければナルはあの時間に家を出ては行かなかった。

 それだけは真実で、私はそれを認めなければならない。

 私に責任があったのは事実、私に原因の一端があったのも事実。そして、いつもの事だと思ってナルを引き留めなかったのは間違いなく私の落ち度で、言い合いをしたくないからと言って家を出ていったのは間違いなくナルの落ち度だ。


「ナルも私も、子供だった……どうしようも、ない、くらい」


 落ち込んでも仕方がなくて、私が俯いていてもナルは戻って来てくれなくて。


 だったら、ちゃんとしなきゃ。

 ナルが会いに来てくれると言った、あの約束を信じなくちゃ。

 そんな風に自分を奮い立たせないと、駄目になってしまいそうだった。

 気を抜けば足許から崩れ落ちてしまいそうで、私はナルが居なくなって悲しむ自分に蓋をした。

 見ない振り、気付かない振りで、涙を流している自分を無かったものにしようとした。




「由紀ー!こっち!」


 晴天の空の下、茉莉(まり)は左手を大きく振った。茉莉がランチを一緒に、と誘って来たのは本当に久しぶりで、彼女なりに私の事を心配してくれていたのだろう。


「何にする?私は本日のオススメパスタにしたけど」

「じゃあ私もそれにする」

「オッケー。すみませーん」


 代わりに注文してくれる茉莉に「ありがと」とお礼を告げながら着ていたカーディガンを脱ぐ。

 日差しが強いからと着てきたけれど、この気温では暑くて汗をかいてしまう。

 椅子の背もたれにカーディガンを掛けて、前を向くと必然的に茉莉と向かい合う形になった。

 バレッタで髪を纏めた茉莉は涼しげに見えて少し羨ましい。中途半端に肩まで長い私の髪は結ぶには少し短かった。



 注文したパスタが来るまで、何故か茉莉は喋ろうとしなかった。本日のオススメであるアラビアータが到着して、フォークを握った茉莉は漸く私を見て口を開く。


「元気になって、本当に良かった」


 独り言を溢すような茉莉の口調に何となく気まずくなる。

 だけど、心配してくれていた事は充分に伝わって来た。


「うん。ごめん、心配掛けて」

「どんな言葉を掛けたら良いか、分からなくて連絡出来なかった。言い訳になっちゃうけど、話聞いてあげられなくてごめん」


 ナルが病院に運ばれて、呆然としていた私にタイミング良く茉莉からの電話が掛かってきたあの日。

 涙声で私が紡いだ言葉は「ナルが死んじゃった」の一言だった。

 茉莉は必死に声を掛けてくれていたけれど、私は踞って震える事しか出来なくて、一段落しても尚、茉莉に電話を掛け直す気力さえ残ってはいなかった。

 茉莉もどうしたら良いか分からなくて、連絡を取れなかったんだろう。現に私が出勤して二日目の今日連絡が来たのだから。


 違う部署でも会社は同じ、入院生活で有給をすべて使いきった私は漸く会社に出勤した。

 急遽もぎ取ったような休みで上司にも同僚にもとても迷惑を掛けたけれど、出勤前に電話で事情を聞いて納得してくれた上司は率先して温かく迎え入れてくれた。

 今まではどうしてその上司が慕われているのかはっきりとは分からなかったけれど、今回の一件でよく分かった。

 普段はあまり見られない、ここぞという時の思い切りの良さと気遣いが、きっと上司が古参の社員からひどく慕われている理由だったんだろう。


「由紀がこんな時に言うのはどうかって自分でも思うけど、私ね、会社辞めるの」


 くるくるとフォークにパスタを巻き付けた茉莉は俯きがちにそう言った。


「もしかして、寿退社?」


 以前から近い内にそうなりそうだと言っていた茉莉が本格的に会社を辞めると決めたのなら、理由は寿退社だろう。

 本当は嬉しい筈なのに、ちっとも嬉しそうな顔をしない茉莉は恐らく私を気遣ってくれている。


「おめでとう。茉莉、素直に喜んで。私なら大丈夫だから、いつもみたいに笑ってよ」


 いつも明るい茉莉が、結婚報告をこんなに悲しそうにするのは私のせいなんだろう。

 とても喜ばしい事なのに、祝ってあげなくちゃいけないのに、ぎこちない微笑みしか作れない私は最低だ。



 いつか、ナルと話した事がある。

 結婚したら子供は何人欲しいかとか、そんなまだまだ先の小さな未来の話を。


「賑やかな方が良いよなー。で、お揃いのTシャツとか着せんの」

「お揃いは絶対恥ずかしがるって。今の子供はお洒落に敏感なんだから」

「結婚かぁ……してぇなぁ」


 ごろん、と横たわったナルは横目で私を一瞥した。


「なに?」

「由紀とするんだろうな、俺」

「……結婚?」

「そう。すっげーそんな気がする」

「どんな気なのよ」


 嬉しかったけれど恥ずかしくて、照れ隠しにそっぽを向いてしまった私を、一体どんな気持ちでナルは見ていたのだろう。


「まぁ、そんな未来もいつかはあるんだろうし。……しっかりしろ、俺!」


 いきなり自分の頬を叩いて、ナルはニッと笑って見せた。


 しっかりしろ、俺。

 ナルが自分自身を叱咤する為に言ったその言葉に、私は密かに期待をしていた。


 ナルの仕事があんまり上手くいっていない時だった。

 上手くいっていないからこそ、そんな先の見えない未来のことを想像してみたのかも知れない。

 寄り添ってただ話を聞いて、慰めるなんて器用なことが出来ないから、いつもと同じように「ばか」と笑い返すことしか出来なかった。



 ──結婚式には、行かない事にした。

 茉莉は分かってくれたけれど、行けない分お祝いは茉莉が喜んでくれる物を値段構わずに選んで贈ろうと思う。

 そんなに高いものは選べないけれど、茉莉とその旦那さんの幸せを祝う為に使えるなら、貯めていた結婚資金も報われる。


 背筋を伸ばして交差点を歩けば、前に進めるような気がした。人並みに紛れて誰かと一緒に歩けたから、ほんの少しだけ前進したような気になって。


 ナルはいつ、来てくれるんだろう。


 そんな事を考えていたからか、次の横断歩道の信号が赤だと言うことに私は全く気が付かなかった。


 ぼんやりと、ただぼんやりと、ナルのことを思い出す。

 笑ったナル、怒ったナル、悲しそうな──顔をしたナル。




「あ……ッ、ぶねぇッ!」


 危ない、と聞こえた時、私は地面に尻餅をついていて。

 自身の腹部にしっかりと回った腕を辿って後ろを向く──と、


「ナル……?」


 そこにいたのは紛れもなく、会いたかったナルだった。


「何やってんだよ!馬鹿!」

「ごめん……」


 ナルに手を引かれて歩く。

 前は簡単に出来た事が、今はこんなに愛おしい。


「もしかして、死ぬ気だったのか」

「違う!ぼんやり、してて」

「ぼんやりすんな!」

「……はい」


 叱られてばかりだ。

 ナルは死んでしまってから、私を叱ってばかりいる。

 やっと会えたのに、ドラマみたいなロマンチックな感動の再会にはならない。


「昼休み、いつまで?」


 問い掛ける声に顔が上がる。

 本当は今すぐにでも戻らなくちゃいけないのに。


「もう、少し」


 嘘を吐くのが下手くそだと、よく友達にも言われたけれど、今はこの嘘だけは通じて欲しいと強く願った。


「今夜19時」

「え?」

「最初に会ったとき二人で行った公園で、会おう」


 じゃあな、と言い残して。くしゃりと私の前髪を撫でて。ナルは背中を向けてその場を早足に去っていく。


 みるみる間に小さくなっていくナルの背中を見送りながら、拳をぎゅっと握り締めた。


 また、置いていかれてしまった。


「19時に公園、か」


 ナルが最初に会った日の事を、まだ覚えているのが可笑しかった。




 21歳の春。まだ私が大学生だった時の事。

 半年間付き合った彼氏にデートをドタキャンされた挙げ句、振られたその日、待ち合わせ場所だった駅前で私は下を向いていた。

 怒りに震えて、悔しさと恥ずかしさを堪え、悲しさを誤魔化して、私はぐっと唇を引き結び駅前でひとり立っていた。

 そんな時、改札から人が溢れ出してきて通行の邪魔になっていた私を人波が端に追いやる。


 そして、肩を叩かれて。


 ──今更迎えに来ても遅い。

 別れるって言ったじゃない。


 いつもの意地っ張りがひょっこり顔を出して来て、涙に濡れたまま瞳をキッと吊り上げながら私は顔を上げたのだ。


「あ、やば……間違えた」


 素っ頓狂な声を発し、男は目を丸くした。

 ロングスカートをぎゅっと握って男を睨み付ける私と、首を傾けながら私と携帯を見比べる失礼な男。


「っていうか、何で泣いてんの?え、俺?もしかして何かした?してないよな?」


 数秒遅れてそう聞いてきた男は、無言のままひたすら睨む私へ早々に痺れを切らした。

 声を出したら涙が今以上に溢れそうな気がして、どうしても声が出せなかったのだ。


「とりあえず、こっち。近くに公園あるから」


 ナルに手を引かれたのは、きっとこれが最初だろう。




「少しは落ち着いた?」


 鼻水を啜りながら頷く私に、ナルは浅い溜め息を吐いて隣にそっと腰を下ろした。


 公園のベンチだった。何の変哲もない、どこの公園にもある木で出来た普通のベンチ。


 ナルはすこし眉を寄せて、意を決したように口を開いた。


「あの、泣いてるのって、俺のせい?」

「違う。まったく違う」

「だよな」


 答えを聞いて心底ホッとした、とでも言うように安堵の息を長く吐き出しあからさまにナルは表情を緩めた。

 鞄に入っていたハンカチで盛大に鼻をかんでしまったから、今垂れそうになっている鼻水をかめなくて私の鼻はむずむずして。ずっと鼻を啜っている私に気が付いたナルは、ポケットから紺色のハンカチを取り出した。


「これ使えよ。返さなくて良いし、やる」

「どうも、ありがとう」


 一言の遠慮も躊躇いもなくハンカチを借りた私にナルは呆れ気味だったけれど、当時の私は今よりずっと意地っ張りで身の程知らずで、本当に我が儘だった。



「で、何で泣いてたんだよ」

「彼氏に振られたから。急に、しかもデートをドタキャン!」

「あ……やべ!」


 私の言葉を聞いて何かを思い出したらしいナルは、携帯を取り出して開いたけれどすぐにそれを閉じてしまって。

 ──今思えば、あの日のナルは誰かと約束していたのだろうか。


「……まぁ、良いか。じゃあ、あんた一日暇って事か」

「まぁ……」

「気晴らしにどっか行くか?」

「行きません。ナンパはお断りさせて頂いています」


 ああ、思い出しても子憎たらしい。

 自分はどうしてあんなにも、自惚れが強く警戒心が変に強い女だったのだろう。

 田舎からひとりきり、誰も知らないところへ出てきたからだろうか。

 都心はとても危なくて、始終警戒していないと危険な目に合うと思っていた。

 見知った人間以外とは話さないし出かけない。強い警戒心を持つ私に数人の友人は「考えすぎだよ」と笑っていた。



 ナルはその日の夕方まで公園で私と話してくれた。

 この時は「話してくれた」なんて考え方はしていなかったけれど、どこにも行かないと言った私に付き合ってくれたのか、公園から動こうとはせず夕方まで傍に居てくれた。


「そういえば、名前は?」


 好きなアーティストの話が案外盛り上がって次から次へと話が移り、なんとなく同じタイミングで一息ついたときナルはそういえばとでも言いたげなトーンで聞いた。

 私も似たような事を思ったからはっきりと覚えている。

 苦笑いをしながら、だけどやっぱり警戒しながら、名前だけを私は告げた。


「由紀。あなたは?」


 何故か一瞬だけ戸惑って、ナルはまっすぐに私を見つめて自分の名前を小さく名乗った。


「……鳴海(なるみ)、鳴る海でナルミ」


 余りにも簡単に思い出せる、ナルと歩んだ日々の欠片だ。

 ぽろぽろとこぼれ落ちる、大事な大事なナルの欠片。





 ──携帯を、引っ掴んで。

 私は家を飛び出した。

 嫌な予感がして、胸騒ぎがして、私はあの日家を飛び出したのだ。


 ナルが死んでしまった事はしっかりと理解している。

 ナルが私の前に現れてくれているのは、単なる私の妄想の可能性が高いっていうことも。


 だってナルは、私の目の前にいた。

 どうして、家の間近に居たのか。どうして、救急車が中々来てくれなかったのか。私は理由を知っていて、だからこそナルの死を認めない訳にはいかなかった。


 ナルが死んだあの日、天候はひどく荒れていて余りにも酷い豪雨で交通規制が掛かっていた。

 道路は恐らく大量の雨で滑りが良くなっていて、車に乗っている人はとても運転しづらかっただろう。

 もしかしたら、その人は全く見えなかったのかも知れない。それとも単純に早く家に帰りたかったのかも知れない。豪雨の時にナルが家を出て行く事は過去にも数回あって、私もナルもきっと「いつも」と同じだと思っていた。

 天候が酷くても、帰って来れると思っていた。



 私とナルが住むアパートの近くの道は事故が起こりやすいことで周辺では有名な道路だった。

 だからいつも気を付けていて、あの日もナルはきっと気を付けただろう。


 憶測になってしまうけれど、ナルはきっと帰ろうとした。

 私が居るアパートに、帰ろうとしていたのだ。


 行きは道路がよく見えるけれど、帰りは標識のせいで道路が少し見えにくい道。事故が多発していたのは、アパートへ帰る時に通る先の道路が見えにくい道の方だった。

 だから、ナルは恐らく“家に帰ろう”として事故にあった。


 よりによって何故その日だけ帰ろうとしていたのか。

 私と、仲直りをしようとしたのかも知れない。

 ナルは財布を忘れてしまっていたから。

 財布を取りに帰るだけなんて当てつけがましい事をナルはしない。そういう性格だから、財布が無いと気が付いたなら素直に出かけるのを諦めて帰ってくる筈だった。



 豪雨はなかなか止まなくて。

 アパートの近くで事故に合って。


 ナルを一番最初に発見したのは、他でもない私だった。


 轢き逃げ犯はあの後きちんと捕まった。

 だけど、そんな事はもはやどうでも良かった。


 ナルが息絶えた姿を、私は一番初めに見つけた。

 それだけが重要で、それだけが事実だった。


 救急車を呼んだのも私。呼吸が上手く出来なくて、途切れ途切れの声で電話をかけて救急車を呼んだ。

 豪雨の中で、息をしていない血だらけのナルの身体を、私は思いっきり抱き締めた。


 最後にナルが言った言葉なんてわからない。

 到着したその時には、既にナルは意識を失っていて、どんなに大きな声を出しても反応一つしてくれなかった。


 だから、ナルは死んだのだ。

 私に会いに来てくれるナルは本物のナルじゃない。



 自覚していても尚、妄想のナルに縋り付く。

 置いていかれた焦げ茶色の財布といっぱい傷付いたナルの携帯は大事に箱に仕舞っている。ナルのものは一つに纏めて、ベッドの下に置いていた。

 妄想でも良い、夢でも良い。

 私の頭が変になってしまっているのだとしても、それでもナルに会えるならいくら変になっても良い。


 ──だから、お願い、会いに来て。

 約束の19時ぴったり。私は会社から走って、漸く約束した公園に辿りつく事が出来た。


「ナル!いるの!?」


 いい歳して、子供みたいに。──ナルの前ではいつだって子供だった。

 夕暮れの、公園で。──丁度、この時間くらいまでナルは私に付き合ってくれたね。


「ナル!出てきて、お願いっ!」


 必死に、ナルを探して、汗だくて、涙も流して。


「おねがい、ナル。まだ、言ってないことが、あるの!」


 もうこれが最後の気がした。

 どうしてかわからないけれど、ナルに会えるのはこれが最後のチャンスになるような気がして。

 ナルの事にだけ敏感に、私の第六感が働く。



 一度だけナルが見せた、本気の怒りに私は怯えたことがある。

 ナルの言葉に肩を跳ね、私は反射的にナルを怖いと思ってしまった。それからナルは喧嘩をする度、家から出て行くようになって。


 伝えたい事がまだ山ほどある。

 ナルは求めていたけれど滅多に私からは言わなかった「好き」というナルへの気持ちも。

 素直になれない私の代わりに母の電話を取って「元気です」と伝えてくれた事への感謝も。


 私が怯えたあの日からナルは私を怒らなくなった。

 あの時ナルの言葉を受け入れもせずにただ怖がって「ごめん」の謝罪も。

「もう怖くないから、怯えたりしないから、ナルの言葉を、本心をぶつけて欲しい」

 ずっとそう言いたかったのに、中々言い出せなかったから。


 伝えたい。沢山の言葉。

 ナルに言えなかったこと全て。


「ナル、ごめんっ、私……」


 ──言いたいことが、いっぱいあるの。



「もう、いいよ」


 続けようとした言葉を遮って、ナルは私の後ろから影を背負って現れた。夕日がナルの背中に当たって、ナルがオレンジ色に染まる。


「もう、いいから。由紀」


 切なそうに歪む顔ははっきりとは見えなくて。ゆっくり近づいてくるナルを見て、やっと私は気が付いた。


 ──ナルじゃない。


 彼は私の恋人の「ナル」ではなかったのだ。


「もういいよ。泣くなよ、そんな顔して、泣くな」

「なん、で……」


 目を見開いて驚く私を見て、ナル──じゃない、ナルによく似た彼は泣きそうな顔をした。


「やっと、気が付いた」





「あの日もこうやってベンチに二人で座ったんだよな」


 彼は懐かしそうに呟き、ベンチへと私を座らせた。ひどく穏やかで、ナルとよく似た声音の彼。


「由紀は鼻水啜りながら泣いて、俺はずっと隣にいて」


 カッターシャツの袖を捲くって彼は疲れを取るように首をぐるりと回してみせた。


「あー……暑いなぁ。去年の春ってこんなに暑かったっけ」


 ネクタイを緩めながら、私を見つめるその視線は真っ直ぐ過ぎて何故か直視出来ない。


「初めて由紀に会った日、俺は鳴海の代わりに他の子とデートする事になってたんだよ」


 からからと明るく笑って彼は出会った日の話を始めた。


 その言葉通り、思い出したら引っかかるところがある。

 ドタキャンされたと私が言った言葉に慌ててナル──違う、ナルだと名乗った目の前の彼が携帯を手にしたのは鮮明に覚えている。


「鳴海は風邪引いちゃって、でもどうしても行きたいって言うから」

「あなたが、代わりにきた?」

「そう」


 デートに代わりを寄越すなんて、男としてどうなんだろう。だけど、ナルならそんな事をやってしまいそうな気もして。キャンセルするのが可哀想だとか、そんな事を思ってそうだ。


「でも、結局行かなかった。俺は由紀を放っておけなくて、鳴海の約束の方をドタキャンしたから」

「ナルは、怒らなかった?」

「怒ったよ、そりゃ。だけど、風邪引いたあいつが悪い」

「それは……そうかもね」

「そうなんだよ」


 強く肯定する彼から自分はナルをよく知っているのだという感情を痛いほどにひしひしと感じた。


「俺は鳴海が好きだった。別に、変な意味じゃねーよ。家族としてな」

「……うん、分かる」

「だから、鳴海に由紀の事を聞かれた時、隠そうとはしなかった」


 寂しげに曇った瞳で、けれど彼はそらさずに私を見ながら話を続けた。


 ナルと出逢ったと思っていたあの日、私が出逢っていたのはナルではなく彼だったこと。

 彼がナルに私の事を話し、ナルが興味を持ったこと。

 ──その後、ナルが私に会いに行ったこと。


 そうだ、二度目の再会は私の通う大学だった。

 校門で私は彼を見つけて「同じ大学だったの?」と尋ねた。


 その時、会いに来ていたのは彼ではなく本物の鳴海だったという事だ。


 結局、私はその後に鳴海が専門学生であることを知ったのだけれど、その頃には既に再会した場所なんて頭の隅に消えてしまって鳴海本人に問うことすらしなかった。

 思い出してみれば、何の理由もなく私の大学に来ていたのはやっぱり可笑しい。


 彼の話は続いた。

 静かな声音で、時折懐かしそうに。


 何度か私との接触を重ねていく内に、鳴海は私に好意を抱き彼に謝罪をしたそうだ。

「好きになってしまった」と謝る鳴海を彼は許し、私は正真正銘本物の「鳴海」と付き合いを開始した。



「なら、初めに言った間違えたって言うのは……」

「鳴海がくれた相手の子の写メが黒髪ロングだったから。由紀は俯いてたし、顔見えなかったし……」


 拗ねたような顔がナルにそっくりで、思わず笑ってしまった。


「それで“間違えた”だったんだ」


 ひとつひとつ、紐解いて行こうとする私に彼は少しだけ渋い顔をして、だけど全部に答えてくれた。

 全てを掘り返して真実を話してもどうせ言い訳にしかならないから、と何度か言葉を止めたけれど、そんな風には思わないからと私は過去の疑問のひとつひとつを思い出しては彼に尋ねた。


 家族に紹介してくれないことを私が不満に思ってナルと喧嘩をしたとき、頑なにその理由を言わなかったのは彼に会わせることになるから。

 本当の事を話して、嫌われるのが怖い。

 そう言っていたと聞かされて、ナルの「嫌じゃない」と言った言葉が本当だったと気が付いた。


「会わせるのは嫌じゃない。由紀が悪い訳じゃない」


 そう言ったナルに「じゃあどうして」と尋ねたいつかの私を今は宥めてあげたいくらいだ。

 他にも、不可解だったこと、気付いてしまえば可笑しなことを一つずつ、埋めていった。



「ねぇ、どうして鳴海って名乗ったの?」


 ずっと気になっていた。

 最初に鳴海だと名乗ったのは彼で、あの時自分の本名を言っても何ら構わなかったはずだ。


「気付かない?俺を見て」


 苦笑いを浮かべる彼はくしゃりと自分の髪に手を当てる。


 ああ、そうだ。

 髪の色も着ている服も雰囲気も。

 似てはいるけれど、鳴海と全く一緒ではない。

 鳴海は暗い茶髪で、彼は黒髪。

 鳴海は明るい色が好きでよく古着を着ているけれど、彼は身につけているものが全体的に暗い色ばかりだ。

 能天気でお調子者で明るい鳴海と、思慮深そうで冷静で落ち着いている彼。


「全然違うのにね……」


 私は彼をナルだと、ずっと思い込んでいたのだろうか。


「由紀に会った日は鳴海の振りをしてたから、鳴海だって名乗ったんだよ」

「あなたの、本当の名前は?」

「──桜海(おうみ)、桜の海で、桜海。鳴海の双子の兄だ」


 出逢ったあの日、本来聞くはずだった名前。

 鳴海ではなく桜海。

 けれど、もしも桜海が私にそう名乗っていたらナルは自分を「桜海」だと偽り続けたのだろうか。


 なんとも変な話で、とても不思議な話だった。



「病室に来てくれたのも、あなた?」


 きっとそうなんだろう。

 真実を受け入れようと覚悟して尋ねたのに──彼は呆然と目を見開いて私を見返すだけだった。


「どうしたの?」

「……いや、まさかそう聞かれるとは思わなくて」


 どういう事だろう。

 顔面蒼白になった彼は深く息を吸い込んで、長い長い時間を掛けて吸った息を吐き出した。


「恨んだり、しないで欲しい」

「……恨む?私が、何を?」

「隠し通すつもりは無かったし、必ずバレる事でもある。ただ、もし聞かれなかったら俺は答えなかったかも知れない。……仲があまり良くないって、鳴海からも聞いてたから」


 ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して、彼は何度か指を動かした。


「俺が病室に行ったのは、由紀のお母さんから連絡が来たからだよ」


 そう言って桜海は──着信履歴を見せてくれた。


 けれど、私は母の番号を覚えている訳じゃない。

 その事に気が付いて、妙に笑いたくなった。


 娘の一大事にあんなに必死になってくれた母の、電話番号さえ知らない。


「……私ね、素直になりたかったの」


 母からの電話を無視し続ける私に痺れを切らしたナルが、私の代わりに電話に出たあの時。


「“お母さん、由紀は元気です。心配掛けてごめんって言いたいけど言えないみたいなんで俺が代わりに言います。由紀の恋人の、鳴海です。お母さん、心配かけてごめんなさい”ってナルがいきなり母に言ったことがあって」


 一字一句覚えている。

 あんなにぽかんとした事は後にも先にもきっとない。


 まずいきなりの挙動に驚いて、それから勝手なことを言ったことにムッとして、すぐにナルの言ったことを反芻して胸がひどく切なくなった。

 ハンズフリーにしていた電話の向こうが異様なくらいにシンと静まって、暫く無言が続いた後に母の啜り泣く声がした。


 掠れた小さな声で「ありがとう」と言った母に私は何故か泣きそうになって、母からもナルからも逃げるようにして寝室へ向かった。


 通話を終えてからか、数分して後を追いかけてきたナルは「たったひとりの家族だろ」と、私を抱き締めながら呟いた。


「上京するって言ったとき、誰より母に応援して欲しかった。たったひとりの家族だからこそ、信じてるって、頑張ってこいって、背中を押して欲しかった……」


 自分の未来を否定された気がした。

 お前じゃ無理だと言われた気がした。


 たったひとりで知らない街にきて、使わないでひたすら貯めてきた貯金でアパートを借りて、保証人すら親戚筋の人に頼んだ。

 あの頃は母に頼らないということだけで自分を保っていた気がする。そうやって掴んだ今の生活だから、自分の選択を悔やまない為にと意地になって母をやたらと遠ざけた。


「あの子から電話がもし掛かってきたら、何も言わずに切ってあげて下さいって、お母さんから言われたんだ。うちの家族にも頭を下げて、こんなことを頼める立場ではありませんが、って」


 桜海が語る母は、今の弱々しい母とは似ても似つかない。

 けれど、私が上京する前はそんな強い姿勢で言葉を話していたような気もする。


 一切帰郷しなかった。

 したら負けを認めてしまうような気がして。


「最後に言葉を交わせなかったみたいだから、一度だけ会ってやって欲しい。きっとあの子は強いから気持ちの整理だけつけば立ち直れると思うんです──って、言うのが由紀のお母さんの言葉」


 余計なお節介だ。本当に、余計な。

 桜海が懸念したように、もしかしたら私は母を恨んでいたかも知れないのに。


 桜海にナルの真似をさせるなんて、非道と言われたって可笑しくない所業だ。


 だけど、あのままだったら、桜海が現れることなく、ただ日々が過ぎていくだけだったら、立ち直れなかったかも知れない。


「うちの家族は由紀のこと、心配こそすれ恨んでなんかない。鳴海が馬鹿なんだ、あんな豪雨の日に家を出るなんて」

「止めなかった私も、悪い」

「そうだとしても、由紀を残して居なくなった鳴海を俺は叱りたいけどね」


 不貞腐れた顔で桜海は言った。

 似ているけれど、全然違う。じっと見ていた私に気が付いて、桜海は肩を竦めて苦笑いを浮かべた。


「大馬鹿野郎だ。鳴海は」

「……そう、だね」

「なぁ、由紀」

「なあに」

「もう一つだけ、大馬鹿野郎の話をしても良いかな」


 もう一つだけ、と言ったのはきっとわざとだ。

 もう一つだけじゃない、桜海はきっと最後の一つだと言いたいんだ。


「……大馬鹿野郎は、なにをしたの?」

「由紀の、お母さんと……由紀に秘密で仲良くなったんだ。よく似た、男も一緒に」


 驚きはしなかった。そんな気がしていたからだ。

 桜海の話を聞けば聞くほど、その事に納得がいく。

 母が私のもとに駆け付けたのは茉莉が連絡したからだと思っていた。ううん、実際そうなのかも知れない。

 だけど、茉莉が連絡したというよりも母と鳴海が知り合いで、母は桜海の存在を知っていて──桜海が母に連絡をしたのだと思う方が何故かしっくりくる。


 ありえないことじゃない。だけどきっと、普通ならありえないことでもある。


「会ったりはしてないよ。電話とか、メールとか、本当にそれだけだった。俺は皮肉にもお母さんに会うことが出来たけど……鳴海は、会えてないままだ」


 逆だったら、良かったのにな。と呟いた桜海をつい睨む。


 そんなことを、思わないで欲しかった。

 だけど、叱る言葉は出てこない。

 その気持ちが、わかるから。

 私だって、事故にあったのが私だったら──と何度も思った。


 責められない。

 同じ気持ちを抱いたから、責められなかった。


 桜海は空気を変えようとしてか、浅く息を吐いた。


「由紀に内緒で、色々やってたんだ。あいつ。前はたまに話を聞いてたけど、最近は由紀のことあんまり聞かせてくれなくなった。その代わり、会ったら由紀のお母さんのこと話してくれたりしてたけど。……妬いてたんだよ、鳴海のやつ」

「私の話の代わりに母の話をするっていうのも、何だか変な気分なんだけどなぁ」

「確かにな。俺は、どんな話でも聞けて嬉しかったけど、由紀からしたら複雑だよな」


 桜海の話を聞きながら、体中に溜まっていた重たいものがゆっくりと溶けていくような気がした。


 キレイさっぱり切り替えるなんてうまいことが出来るはずなくて、想いは胸に伸し掛ってずっと沈んだままだけれど──全ての事には理由があり、奇跡や幻想なんてやっぱりこの世には存在していないんだと、ここ数日ふわふわしていた自分自身の視界が開けていくような気がした。



 私がナルだと思っていた彼は、桜海というれっきとしたナルの兄弟であり、桜海が私に会いに来たのは母がそう頼んだから。


 ナルは現れてくれなかった。

 この世のどこにももう居ない。


 自覚してきちんと刻んでしまえば、それは思いの外現実として入ってきた。


 桜海の話を聞いて、ナルがもっと恋しくなり、会いたくなり、だけど、会えないんだとはっきり理解出来たような──言い表せないリアルな感覚が私の中にあった。



 すべてのネタばらしをした桜海自身も困ったように笑みを浮かべ、片手を上げてぼそぼそと白状するように申し訳なさそうな顔をした。


「また会いに来るって言ったのは俺の独断で、俺の我が儘。お母さんは一度だけって言ったのに、どうしても放って置けなくて……会いに来るって言ったんだ」

「桜海の我が儘?」

「鳴海に由紀を譲ったこと、ホントはずっと後悔してた」


 つまり、桜海は私のことを忘れていた訳ではなくて、鳴海と付き合っていることを知りながらもそう思ってくれていた、と言うことで。


「鳴海が由紀を本気で好きだって知ってたから何も言えなかった。俺の知らない由紀を知っていく鳴海が羨ましかった。でも、鳴海も大事だから──俺は一度、由紀を諦めた人間だけど」


 なぁ、由紀。一目惚れって、信じる方?


 そう問いかけた桜海の言葉に、私はあの時と同じ口調で──



「信じません。ナンパはお断りさせて頂いています」


 いつか、ナルの事を今より忘れて。

 いつか、どこかの誰か、違う人を想って。

 私は生きて行くんだろう。


 だけど、今は──

 鳴海をまだ好きでいて、母との溝をゆっくり埋めて、現実と向かい合って、前に進む努力をしたい。


「確かにナルは大馬鹿野郎だよ。だけど、私も大馬鹿だ」

「そんな馬鹿は馬鹿なりに、色々なことを考えてたみたいだけどな」

「どういうこと?」

「──さぁ」


 “もし俺になんかあったら──桜海、おまえ、由紀に会いに行けよな”


 ナルが生前そう言った事を私は数年後──桜海から聞くことになる。


 沢山の苦悩を経て、沢山の喜びを経てナルが居なくなったこの世界で。

 ──私は今日もナル無くして、それでも“ちゃんと”生きていかなければならない。


「連絡したのは……桜海、しかいないよね」


 公園の入口で息を乱して、小さな身体を揺らして、泣きそうな顔をしている母に苦笑いをそっと浮かべる。


「本当の事を話します、ってここに来る前に連絡したお節介な大馬鹿がここにひとり」


 あまりにも軽い口調で言うから、笑ってしまいそうになる。いっそ、笑ってしまえれば良いのになかなか上手くはいかないみたいで。


「ありがとうって、言うべきだよね」


 心配しているのだろう。

 きっと、ずっと心配してきたのだろう。


 私の知らないところで、私の知らない間、ずっとずっと心配してくれていたのだろう。


 素直になるのは、本当に難しい。

 こんなときでも素知らぬ顔で通り過ぎてしまいそうになる。


「由紀は意地っ張りだけど、態度は充分素直だよ」

「ばか」


 ああ、もう、また言っちゃった。

 可愛げのない、いつもの一言。

 素直に言えばいいのに、どうしても言葉が尖ってしまう。


「お母さんもよく分かってると思うけどな、俺は」


 ──そんな顔してる由紀を見て、分からない筈ないと思うし。



 ぼろぼろと滴り落ちる涙を乱暴に拭って、どうしたいかを素直に思い浮かべる。

 ──そうだなあ、小さい頃みたいに、おかあさんって抱きついて、思いっきり泣き叫びたい。

 だけど、出来る訳がないから、そんなこと、出来ないから、ゆっくりと顔をあげて母のところへ歩き出した。


 近づくにつれて母の顔が歪む。

 私の顔もきっとひどいものだ。


 ねぇ、ナル。見てて。

 素直には程遠いけど、まだまだ本当の意味で素直にはなれないけど。

 ナルがどうにかしようとしてくれたことを、絶対に無駄にしたりはしない。

 勇気を出してほんのすこしだけ、私の気持ちっていうものをお母さんに伝えてみる。


「おかあさん。大切な人が、大好きな人が、私の傍から居なくなったの。もう二度と帰って来ない。もうずっと会えない。──すごく、さみしいよ」





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桜の海 尋道あさな @s21a2n9_hiromichi

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