第2話 進展
1
如月みゆきの自宅アパート近くの公園。朝の6時である。すでに気温は30度近くになっている。如月は日課であるトレーニングをしている。約10㎞のランニングの後、縄跳び、前屈、キャットストレッチ(骨盤から背骨を順番に動かす体操で猫のようであることからそう呼ばれている)、後方飛び、スクワット、ハイキックなどを行っている。あとはストレッチや前腕、腰のトレーニングを実に毎日、おこなっている。これは雨でもやる。
また、夜間の道場では機器を使ったパワートレーニングと実践を主体にしている。
こういった練習メニューは昔から行っていたものもあるが、中田から伝授された部分が大きい。ジークンドーからくるものだった。
司法解剖結果により、長谷川千尋の遺体に明確な他殺の証拠はあがらなかったが、吉川線と抵抗したようなうっ血が腕に見られたことから、他殺の疑いがあるということで捜査本部が立ち上がった。ただ、合同捜査ではなく、所轄のみで対応することとなった。
現在までにわかっているのは長谷川千尋の事件当日の足取りである。
大船の自宅を14時半ごろに出て、電車を使っている。中央線で16時に立川駅で降りたところまでは判明しており、防犯カメラを解析するも以降の足取りがよくわかっていない。そして翌日の深夜1時30分に玉川上水で亡くなっている。
殺害現場までは車で移動したと考えられているが、それなりに交通量も多いことから、車種の特定までには至っていない。さらには殺害現場の付近に防犯カメラがないこともある。
如月はトレーニングを終えて、アパートに戻り、シャワーを浴びてから出勤する。アパートから武蔵大和署までは徒歩で行く。それだけでも汗だくになるので、あまりシャワーの意味はないかもしれない。距離にして1㎞以上はあるのだが日常生活すべてをトレーニングの位置づけとしている。エレベータやエスカレータは使わない。バランス感覚を習得するために事あるごとに片足立ちで作業する。服を着替える時もそうするので、周囲の人間からは慣れるまでは気味悪がられていた。
本日は朝礼後に捜査会議が行われることになっていた。
今朝は珍しく佐藤係長や神保さんがいない。如月が自席につくとすでに黒瀬が仕事を始めていた。黒瀬は本庁からの出向者ではあるが、とにかく切れる印象だ。こういう輩はたまに頭でっかちで仕事ができない人間が多いが、黒瀬は腰も低く、さらに鋭いと佐藤係長が褒めていた。如月は本庁の人間と仕事をするのは初めてなので、そんなものかな程度に考えている。
「おはようございます」如月が挨拶する。
「おはようございます」黒瀬は如月を先輩として扱ってくれる。
「サーバーの立ち上げがお仕事なんですよね。黒瀬さんはどうして強行班で仕事もするんですか?」
黒瀬がにこりと笑う。イケメンは何をしても絵になる。
「黒瀬と呼び捨てでけっこうです。如月さんは先輩ですし、ああ、サーバーの立ち上げは実は口実に近いところもあるんです。所轄の仕事を経験してみたいというのが本音です」
「そうなんですか」如月には不思議な気がする。単純に本庁の仕事の方がかっこいい気がする。わざわざ所轄の泥臭い仕事を経験したいとはなんだろうか。
「まず現場を知らないとよくないですよ。本庁で仕事をしても地域の仕事までは見えない部分が多いです」
「そうですか」そんなものかと如月は素直に感心している。黒瀬がまじめな顔になる。
「如月さんに個人的な質問をしても良いですか?」
「個人的ですか?別にいいですよ」如月は何だろうとは思うが普通の女子のように勘ぐったりできない。通常はコイバナなどと思うものだろうが。
「如月さんは何かマーシャルアーツをやっていると聞いてます。そうなんですか?」
「正確にはマーシャルアーツの一種です。ジークンドーって聞いたことありますか?」
「ジークンドーですか?いえ、初めて聞きます」
「じゃあ、ブルースリーって知ってますか?」
「ああ、昔のカンフー映画に出てた人ですね」
「そうです。実は彼は格闘家としても一流で、その彼が考えた武道がジークンドー(截拳道)なんです」
「へー」
「私は半年前から、やりだしたんですが、とにかく感激しました。まさに私が求めていたものはこれだって思ったんです」如月はジークンドーの話をすると止まらなくなる。黒瀬は少し驚いている。それには構わず如月が続ける。
「格闘技って型があったり、禁止事項があるじゃないですか」
「ああ、寸止めだったり、急所を避けたりしますね」
「そうです。でもジークンドーはそういったことをしないんです。急所をなぜつかないんだって考え方です」
「え、じゃあ競技なんかできないじゃないですか」
「そうです。競技ではありません。純粋に相手を倒すことしか考えていません」
「それはすごいな」
「あらゆる格闘技を参考にしていいところを抽出しています。そしてもっとも効率よく相手を倒すことを主眼に置いています」
「最強の格闘技ですね」
「ええ、そうです」如月は増々うれしそうになる。
「どうやってそれを知ったんですか?」
「はい、ひょんなことで知り合いになった人から教えてもらったんです」
「その方から指導も受けているってことですか?」
「はい、その人もプロってわけではないそうなんですが、理論的なことも含めて指導してもらっています」如月は実際はジークンドーだけではないが敢えて話をするまでもないと判断した。
「道場かなんかがあるんですか?」
「専門の道場ではなくて、地元の空手道場を借りてやらせてもらってます」
「そうですか、面白そうですね。当然、僕は無理だけど。ああ、そうだ。如月さんが強くなりたいって思う理由は何ですか?」
「何ですかね。強さに対する憧れかな。警察官としても必要だとは思いますけど、それだけじゃないですね。女らしくないって言われますけど」
「いや、今のジェンダーレス時代にそれは問題ないですよ」
「ジェンダーレスですか?」如月はよくわからないが、それなりの対応をする。
ようやく佐藤係長が出署してくる。8時とはいつもよりはずいぶん遅い時間だ。
「おはようございます。係長にしては遅いですね」
佐藤は若干、眠そうな顔をして話す。
「昨日、遅かったんだ。署長と今日の捜査会議の打ち合わせをしててな。戒名も決まったよ」戒名とは捜査本部の事件名のことを言う。
「他殺だ。ガイシャの預金が根こそぎやられてた」
如月と黒瀬の顔がこわばる。
捜査は武蔵村山署全体で作業をすることになる。強行班も主体的には動くが、すべての部署が参加して情報収集に当たることになる。捜査本部の本部長は署長が担当する。
50名近くが大会議室に集まっている。
先ほどの戒名は「玉川上水殺人事件」となり、入口に書かれた紙が貼ってあった。
強行班係も席についている。上座にホワイトボードと長机が置いてあり、署長と副署長、野中刑事課課長と佐藤係長がそこに座っており、会議進行は野中課長がやっていた。
野中が話を始める。
「それでは、玉川上水殺人事件の会議を始める。それでは本部長の清水署長からお言葉をいただく」
武蔵村山署での殺人事件となるとおそらく数年ぶりだろう、署長の緊張も伺える。
「お疲れ様です。昨日の捜査内容から当事件のガイシャである長谷川さんの預金が引き落とされていたことが判明しました。そのため当事案は殺人事件であると断定しました。武蔵村山署としてはなんとしても犯人を見つけ出し、被害者の無念を晴らしたいと思います。みんなも心して取り組んでいただきたい」
一同からわかりましたの声が出る。如月も切に思う。野中が話す。
「事件当日に長谷川さんの預金口座から1億2000万もの大金が、細かく色々な口座に振り込まれていた。口座はいわゆるオレオレ詐欺などで使われているもので、実態がないものだ。すでにその口座からも金はなくなっており、どこかに移されている。そういった点も含め、組織犯罪の疑いが強い。まずはガイシャの当日の動きから犯人に結び付く情報収集をお願いする」
その後、野中から個々の班に指示が出た。如月は神保と黒瀬とでガイシャ周辺を当たることになった。
自室に戻った如月が神保と黒瀬とで打ち合わせをしている。神保が話す。
「ガイシャの会社関係もそうだが、預金金額が高額なのには驚いたな」
「そうですね。亡くなられたご主人の慰謝料などがあったんでしょうが、確かに多すぎる気もします」
「少しそういった金銭面の動きも探ってみたい」
ここで如月が思ったことを話す。
「まったく的外れかもしれませんが、先日の聞き込みでも話があったと思うんですが、飛行機事故で亡くなったはずのご主人を見たというような話がありました」
「噂の話だよな」神保が答える。
「そうです。ただ、千尋さんはどこかでそんなことを信じていたんじゃないかと思うんです」
神保と黒瀬が不思議そうな顔をする。如月が続ける。
「亡くなって7年もたっているのにいまだに再婚もせず、男性との噂もないとなると不自然です」
「噂を信じていたということか・・・じゃあ、今回もそういった背景があるかもしれないということか?」
「女性が動くとすれば、そういったことでもないとわざわざ知らない土地まで来ないような気がします」
「なるほど、如月の言うことにも一理あるな。じゃあ、そこも含めて過去の経緯を探ってみるか」
2
如月は黒瀬と慰謝料の金銭関係を当たった。さすがに黒瀬はそういった話に強く、調査は順調に進んでいく。如月は黒瀬の指示で問い合わせや資料の請求をおこなった。
外協製薬は一流企業の例に漏れず、社員の仕事上の不慮の死に対し、一般企業以上の慰謝料や退職金を支払っていた。さらに航空会社もモントリオール条約の倍額以上の慰謝料を支払っていた事実が判明する。調査を進めたところ、個人でも生命保険に加入をしていた実績があり、それも全額支給されていた。金額にして5000万もの高額だった。つまりはそういった資金でマンションのローンを完済し、なおも多額の資産が残ったことになった。
如月は黒瀬と長谷川千尋の外協製薬時代の友人である田中翠を訪ねた。
外協製薬研究所のある鎌倉駅近くのカフェで、会社終わりの夕方6時からの待ち合わせとなった。全面ガラス張りで鎌倉の海岸が見渡せる絶景のお店の窓際の席に、如月と黒瀬が座っている。田中はまだ来ていない。黒瀬が如月に話をする。
「如月さんは鎌倉には来たことがありますか?」
「ほとんどないよ。確か学校の行事で大仏を見たのが最後かもしれない。もう10年ぐらい昔かな」
「そうですか、僕も基本は都内なので鎌倉まではあまり来ません。彼女と来たぐらいですか」
「へー黒瀬は彼女がいるんだ?」
黒瀬が照れながら話す。
「ええ、大学時代から続いています。まあ、こういう仕事なんであんまりフォローできてないですけど」
「そうだよね。不定期だし、急な仕事も多いからね。黒瀬なんか準キャリアだったらこれからどこに赴任するかわからないものね」
「そうですね。若いうちは転勤が続くでしょうから、そういった意味でも色々考えます」
「そうか、仕方ないな。でも出世出来たら、警視とかになれるかもしれないね」
黒瀬はにやりと笑うが答えない。認めたな。
カフェの入り口に田中がやってきたのが見えた。黒瀬は面識があるので手を挙げる。
田中が二人のところまで歩いてきて話をする。
「お待たせしました」田中は如月を見て少し不思議そうな顔をする。
「こちらこそ、わざわざありがとうございます」如月が礼を言う。
「なんか、いい雰囲気のカップルさんみたいですね」
田中が笑顔で言う。如月は黒瀬と顔を見合わせる。
「すみません。若い二人で頼りないですか?」
「いえいえ、けっしてそんなことではありません。むしろ話しやすい気がします」
佐藤係長もそういう配慮だと言って如月たちを送り出していた。まず如月が話す。
「まだ、非公式ですが、実は長谷川さんの事件は殺人の方向で捜査しています」
田中の顔が青ざめる。
「それで、今は情報を集めています」
ウエイトレスが注文を取りに来て、田中がコーヒーを頼む。如月が仕切りなおす。
「長谷川さんの話で気になる部分があります」
田中は何事かと身構える。
「ご主人の和人さんの話です。数点、確認したいことがあります。まず、お二人はどういう経緯で知り合ったのですか?」
「ああ、千尋と和人さんですか、彼は中途入社だったんです。元々、アメリカで仕事をしていたみたいで、ええ、むこうの製薬会社でです。どこだったか覚えていないんですけど。そこから日本に帰ってきて、外協製薬に勤めることになりました」
黒瀬が主体でメモを取っている。如月は質問に徹する。
「彼とは千尋は7つ違いだったかな。けっこうなイケメンというかさわやかな青年といった感じで、千尋の方からアタックしたんです」
「そうですか、千尋さんのほうからですか」
「そうです。4年ぐらいお付き合いして千尋が27歳の時に結婚しました」
「和人さんのご両親はどういった方なんですか?」
「ああ、彼は両親を早くに亡くしたみたいで、それもあって単身アメリカに行ってたみたいです。たしか大学も向こうだったと思いました」
「割と自由に生きてらしたということですかね」黒瀬が話す。
「そうですね。実に飄々としていました。型にはまるのが嫌な性格でしたね」
「夫婦仲はどうだったんですか?」
「良かったですよ。彼はなんでも受け止めてくれる感じで千尋も頼り切っていたかな」
「そうですか、じゃあ事故の時は大変でしたね」
「ああ、そうです。なんて運のないことだったんだろうって、もちろん千尋の前では話は出来ませんけど、今時、飛行機事故なんて宝くじの確立より低いぐらいでしょ」
刑事たちも頷く。
「彼は沖縄の学会に参加する予定で飛行機に乗ったんです。確か朝早くの飛行機だったんで前日に羽田近くのホテルに泊まったのかな」
「それはお一人だったんですか?」
「そうみたいです。学会には何人か参加したようなんですが、彼は実際の発表担当で材料をまとめる必要があったようです。それで一人遅れて行ったんです。当日の発表だったのかな」
「なるほど、それで朝いちばんの飛行機に乗ったということですか、運がなかったですね」
「そうなんです。事故の後、千尋はひどい落ち込みようで、彼の死を信じられなかったようです。実際、遺体を見たわけでもないですしね」
「確か、あの事故で御遺体全部は発見されなかったと聞いています」黒瀬が話す。
「そうです。最終的に和人さんも発見されなかったようです」
少し間を置いて田中が話し始める。
「それで、当時、変な噂があったんです」
如月たちが聞きたかった話が出てきた。二人が身構える。
「和人さんを見たっていう噂です」
「それはどちらからですか?」
「確か、九州のほうだったかな。うちの営業所が博多にあるんですけど、そこの所員がよく似た人を見かけたって」
「福岡ですか、それはいつ頃ですか?」
「事故から半年ぐらいたってからかな。そんなわけないんですよ。搭乗員名簿にも彼の名前があったし、実際、事故の後、彼の荷物は発見されたんです」
「そうなんですか」
「ええ、そうです。ただ、遺体だけは見つからなかったんです」
「なるほど、それだと千尋さんも振っ切れないですね」
「そうです。私も再婚してほしかったんですけど、彼女はずっとそのことが引っかかっていたみたいです」
なるほど、好きだった人の死を受け入れることは難しいのはわかる。ましてや似た人を見たなどという噂があれば、なおさらそんな気になることはわからないでもない。大事な人を失うということはそういうことだ。如月は納得する。
その後も何点か情報を確認する作業を終えて、田中とは別れた。
如月と黒瀬は署に戻ることにする。今日はこの要件だけなので車ではなく、電車を利用している。鎌倉から多摩に戻るとなると2時間近くかかる。電車内でも如月は片足立ちをしている。当然、周囲は不思議がってみるので、少し異様に映るが本人は全く気にしない。むしろ黒瀬が気になっている。
「いつもそんな感じなんですか?」
「この格好?そうです。けっこうバランス感覚を得るのに有効なんですよ。あんまり混んでると迷惑なのでやりませんけど、このぐらいだとやっちゃいます」
それなりに車内は混んでるかもしれないが、如月は気にしない。人にぶつからなければ問題ないし、ましてやそんなへまはしない。
先ほど田中さんから受領した長谷川和人の画像をスマホで見る。そこにはやさしそうな男性がいた。結婚式の写真だろうか、千尋さんとならんでにこやかに笑っている。
「イケメンですね」黒瀬が言う。
和人氏は短髪で精悍な印象だ。研究者といった印象ではなく、どちらかというとスポーツマンのようだ。
「運動でもやってたのかな。そうだ。黒瀬、保険金って遺体がない場合でもお金は出るのかな?」
「ええ、出ますよ。その際は死亡証明書を発行してもらいます。飛行機事故の場合だと航空会社になるのかな。それがないと支給するのは難しいかもしれません」
「じゃあ行方不明のままだと出ないってことなの?」
「どうだったかな、生命保険の契約にもよるんじゃないでしょうか?」
「今回の場合は出たということね」
「そうですね」
「でも生きてるような噂があった場合には保険会社は調べたりしないのかな?」
「どうなんですかね。その辺の経緯も含めて保険会社に当たってみますか?」
「そうだね」
如月は相変わらずフラミンゴのように片足立ちをしている。近くにいた男の子が不思議そうな顔で母親にどうしてどうしてと聞きまくっている。
3
如月が通っている道場はこの地域の子供たちに空手の指導をする目的で設立された個人道場だ。もうかれこれ30年にもなるそうだ。道場主は70歳を超えた岩木俊一という人物で沖縄出身、基本は運送業で生業を立てている。空手はあくまで趣味だそうだ。
如月はこの道場で岩木に指導を仰いだ。孤児であり金銭的な余裕のない如月だったが、とにかく強くなりたい一心だった。岩木もそんな如月をかわいがりその頃から、ずっと面倒見てくれていた。
如月は警察官になってからも、さらに強くなりたいという欲求から様々な武道をかじるようになっていた。ボクシング道場にも通い、マーシャルアーツやムエタイなど、そういった色々な武術を習得しようとした。こういった良いところどりというアプローチがジークンドーと一致していた。
期せずして中田と知り合った如月は彼からジークンドーについての話を聞く。話を聞くにつれ、まさにそれこそが如月が求めていた武道だった。如月はブルースリーについては名前しか知らなかったが、中田から話を聞いて彼の映画も見た。そしてまさにそこには彼女が追い求めた姿があった。それからは中田の指導も受けながら、ブルースも書物も読み、ジークンドーの習得に明け暮れた。
岩木の道場は本来は空手道場なのだが、岩木もそんな如月の強くなりたいという思いに答えるべく、如月には自由に道場を使わせてあげていた。もちろん、如月が道場に来る子供たちの指導も行うという条件付きだが。
今日も道場には数人の練習生がいて稽古に明け暮れている。そんな中、如月と中田が二人で稽古をしている。怪我が治ってからの如月はまさに絶好調ともいえる状態で、中年の中田では相手にならないが、それでも動きの訓練にはなる。
中田はプロテクターを付けてスパーリングをしているが、それ以上に如月の破壊力が勝る。ジークンドーはカウンターの武術であり、如何に相手の動きを利用、最短で反撃するかである。すべてが力技というわけではない。
中田が繰り出すストレートを如月が手で払い、顔面を突く。それだけで中田が吹っ飛んでいく。道場の壁にしこたま頭をぶつける。
「ふー、すごいな」
如月が近寄る。「すいません。つい勢いで」
「本気でやらないでどうする。うん、よくなった。いや、もう十分強くなったよ」
「そうですか、ヒコさんのおかげです」
「うん、でもみゆきの頑張りも大きいよ」
如月が中田の手を引っ張って起こす。そこに道場主の岩木が来る。岩木は70歳とは思えない若々しさで、頭は剥げているが、色つやもよく、50歳代に見えるほどだ。身長も高く、180cm近いのではないか。
「みゆき、なんだか、最近は体形も変わってきたな。怪我の功名ってやつかな。なんか、筋肉量がふえてないか?」
実際、この半年で如月の筋肉量は約50%近くアップしていた。
「ヒコさんの指導がいいんです」
中田が脇で恥ずかしそうにしている。
「そうなんだろうな」
岩木が道場の時計を見て、如月に言う。
「今日、坂本が来ることになっている」
岩木が言う坂本卓はフルコンタクト軽量級の東京都チャンピオンでこの道場出身者である。中学校までここで岩木の指導を受けていた。以降は本格的にフルコンタクトに打ち込み、チャンピオンにまで上り詰めた人間だ。現在は30歳になる。
実は一年前に如月と坂本はここでスパーリングを行い、如月が一方的に押されていたという経緯がある。如月はその悔しさからさらなる格闘技の道を模索したのだ。
岩木が話す。
「また、スパーリングやってみるか?」
「いいんですか?」
如月の目が輝く。実は岩木はこれを企画していたようだった。このところの如月の進化ぶりは半端ではなく、今なら坂本とやってもいい勝負になるだろうと思ったようだ。それで坂本に声をかけてみたら、本人も如月のことを覚えており、スパーリングを了承してくれたらしい。
「いまのみゆきなら、いい勝負になるかもしれないな」
如月は勝負師の目になっている。
ちょうど、そこへ道場の入り口が開いて、その坂本卓が顔を出した。
「こんばんは」
岩木がうれしそうに迎える。さらに道場で稽古をしていた練習生も坂本の登場に感激する。坂本はこの道場の誇りだ。相変わらず、引き締まった体で身長は165㎝の如月とそう変わらないように見えるが、がっしりとしており、身長よりも大きく見える。
坂本は岩木と握手をして、如月を見て少し驚いたような顔をする。如月が挨拶する。
「坂本さん、お久しぶりです」
「おお、みゆきか?なんか印象が変わったな。なんか大きくなってないか?」
「へへ、成長期なんですよ」
「成長期って、お前いくつだっけ」坂本が笑顔を見せる。
岩木が坂本に向かい。
「みゆきとスパーリングやってもらえるかい?」
「大丈夫です。そのために来ましたから」坂本がにやりと笑う。
「よろしくお願いします」みゆきがうれしそうにお辞儀する。
坂本は道義に着替える。道場に残っていた練習生がスパーリングを見守るために周囲に集まっている。みゆきはジャージのままだ。坂本が言う。
「みゆきはその恰好でいいのか?」
「大丈夫です」
岩木が審判として見守る形を取る。二人の真ん中に立ち、合図をかける。
はじめ!
この小さな道場が一瞬にして輝きを放ったように見える。練習生たちもスパーリングながらまさに世紀の一戦のように見守る。
如月がジークンドーの基本スタイルを取る。バイジョンスタイルという半身になる姿勢だ。左足を出して少し体の中に向ける。相手に向かって直線の位置に逆の足のかかとがくるぐらいの姿勢だ。坂本はそれに合わせるように同じく半身になるが両手を猫のように手前に出している。いつでも攻撃が可能となるフルコンタクトの姿勢だ。
坂本はボクサーのように跳ねながら間合いを詰めていく。そして回し蹴りを出した瞬間に、如月がその足を払うようにする。柔道で言う送り足払いのような格好になった。坂本がバランスを崩す、そして如月が素早く間合いを詰めたかと思うと左手を裏拳の要領で顔面にヒットさせた。そしてその速度が半端なかった。周囲には如月が消えたかのように見えた。
なんとチャンピオンが倒されたのだ。
岩木が目を丸くしている。今の如月の動きは何だ。目で捕らえられないほど素早かった。倒された坂本の方がびっくりしている。何か夢でも見ているかのようだ。
そして立ち上がり再び構えに入る。今度は同じ轍を踏まないようにと坂本がより一層、用心する。間合いの詰め方も先ほどよりはさらに慎重になる。そして徐々に間合いを詰め、今度は正拳突きをする。如月はそれを払う形で、逆に間合いを詰めてくる。
坂本にすれば思うつぼで、さらなる攻撃を見舞おうと自分の間合いに入ったと判断し、正拳を突くが、それを強烈に左手で払われ、今度は逆に如月が右手で正拳突きを放つ。カウンター気味にはいった正拳の威力は強力で坂本は再び後ろ向きに倒された。
岩木は恐れ入る。ここまで如月が強くなっていたとは、確かにフルコンタクトでも顔面攻撃は禁止なので、如月の攻撃は反則になるが、それにしてもこの速度は尋常ではない。
坂本は座り込んだまま、動かなくなる。考えているようだ。頭を左右に振ってから再び立ち上がる。チャンピオンとしての意地もあるようだ。
ここで坂本が考えているのは持久力勝負に持ち込むことのようだ。格闘技によっては色々な時間制限があるが、瞬発力が維持できるのは5分か10分で、以降は持久力が必要になる。当然、坂本は持久力については自信がある。男女の差もあるだろう。
そして間合いを詰めながらじっくりと戦ってくる。決して深追いをしなくなった。そういった戦法を取ってきた。持久戦になり、10分程度の小競り合いがあったあと、これで如月の持久力がそがれたと思い、坂本が再び接近戦で勝負をかけてきた。もう如月には余力がないだろうと踏んでの作戦だった。
ところが、あに図らんや如月は全く衰えるところか、さらに速度を増していた。
坂本が足を狙った前突き蹴りを出すが、如月はそれを待っていたかのように左足で払い、強烈な右膝蹴りを出す。それが坂本の股間に入ってしまった。
坂本が悶絶する。
「すいません」如月が駆け寄るが、坂本は落ちていた。
道場内が騒然となる。みんなが坂本に駆け寄り、岩木が坂本を戻す。
如月は急所攻撃だったが、だれの目にも圧勝と言えた。攻撃、守備、持久力、すべてにおいて如月が坂本に勝っていた。
坂本はしばらく回復に努める。道場の端に座り込んでそして如月に話した。
「もう無理だな。みゆき、お前どうしたんだ。いったい何をした?」
如月が少し困ったような顔をする。
「ジークンドーを勉強してました」
「それはなんとなく、わかったよ。しかし、それだけでここまでにはならないだろう。まあ、完敗だ」
坂本はがっくりと首をしなだれ、素直に負けを認めた。
道場での戦いを終えて、如月が中田と帰途についている。
「ヒコさんのおかげです」
「いや、みゆきが努力したからだよ。毎日3時間も俺が言ったトレーニングをしてただろ、その成果だよ」
「去年はまったく歯が立たなかった相手だったのに・・・」
「そうか」
「アナボリックステロイドなんて私は全く知らなかったです」
「ああ、スポーツの世界ではドーピングになるからね。みゆきはスポーツマンではないから関係ないだろう、だったら使うべきだと思った。実験だと50%近く筋力がアップする可能性がある。女性の方がより効果があるんだよ」
「そんな感じです」
「ただ、あまり使いすぎると後遺症もでるかもしれないから、気を付けないと、今のところは問題ないみたいだね」
アナボリックステロイドの歴史は古く、1930年代にはその存在自体は知られていた。1950年代にはスポーツ選手の中で使用が増え、筋肉増強や耐久性の向上が顕著に見込まれることから注目された。1970年代には禁止薬物に認定され、現在はスポーツにおいての使用はできない。ただ、巧妙にドーピング剤として手を変え品を変え、使用されているようだ。現在は一般には販売もされており、選手で無ければ使用することに問題はない。ただ、一部、後遺症が懸念されている。
「ジークンドーはブルースリーが作り出した格闘技で、当然、精神的な禅や仏教などを基本理念に置いている。ただ、ブルースの欲求は強くなることだったと思う。そのために精神的な支柱としてそれらを取り込んだ。彼の書にもあるように、水のように動き、鏡のように静止し、こだまのように感応せよってね。
当時のブルースがステロイドを取り込むかどうかはわからないが、使うことを否定はしないだろうと思う。それは強くなるために必要なことだからね。強くなりたいという思いはみゆきも同じで、それだからこそ、ジークンドーにのめり込んだと思ってる」
如月が頷く。まさにその通りで強さへの渇望しかない。
「だから、ステロイドは望むべくして使用されたと思う。みゆきの熱意もあったからね」
「うん、私からヒコさんにお願いしたからね。強くなる方法は練習だけじゃないと思う。邪道って言われるかもしれないけど、私はスポーツをしているわけじゃないから」
中田が頷く。
「その後、みゆきは襲われるようなことはないの?」
「まったくないよ。あの時だけ、まったく不覚だったな」
「相手に心当たりはないんだよな」
「これでも警察だよ。色々調べたけど、手掛かりがない」
「みゆきが今までに逮捕した関係者じゃないのかな」
「そこも当ったけど、はっきりしない」
「地元の半グレだと思うけどな」
「そうかもしれない。あ、そうだ。捜査情報もあるからはっきりとは言えないけど、今、この地区にいる多摩連合ってグループが派手にやってるんだ。ヒコさんも気を付けた方がいい。あいつら弱いところを突いてくるから」
「弱いって、こう見えても俺はそこそこ強いつもりだよ」
「力の強弱じゃないんだ。社会的に弱いところを突いてくる」
「ああ、そうなのか、それじゃあ狙われるな。社会としては俺は底辺だからな」
そういって笑う。如月はそんな中田が心配だ。この人は生に対する執着が無いように見えてしまう。
「捜査情報だからあまり流せないけど、最近、関西からのブレーンがグループに入ったみたいなんだ」
「ブレーン?」
「そう、頭の切れるやつでさ、どうやって金儲けをするかそればっかり考えてるようなやつだ」
「詐欺だけじゃないんだ」
「オレオレ詐欺なんて、かわいいもんだよ。もっと手を変え、品を変えてやってくる。警察ともいたちごっこだ」
そう言うと如月は珍しく、難しそうな顔をしていた。
4
翌日の捜査会議で事件は劇的に進みだした。
まず、事件当日の長谷川千尋の動きが明確になってきた。立川駅に到着した後に駅前のホテルに実名でチェックインしていた。ただ、ホテルはビジネスホテルで個人の動向がよくわかっていない。ホテル設置の防犯カメラの情報だと、到着した後、すぐに出かけており、8時過ぎにいったん戻ってきて、10時過ぎに再び出かけていたことまでは確認できた。
以降の足取りは周辺の防犯カメラの解析を待つことになった。
もう一点は千尋の携帯の通話記録だが、発信先の特定まではできなかったが、前日の夜と立川に到着後、2回ほど宛先不明の電話がかかっていることまではわかっていた。よって誰かから呼び出されて立川まで来たことは間違いない。
捜査会議の中で、如月たちは千尋の亡くなった主人和人の話をした。その結果、今後も千尋の過去について、より詳細な捜査をおこなうようにとの確認を取った。
そして、外協製薬に退職金および慰労金の名目で千尋にお金が支払われたことを確認した。この支払いに関しては会社側とトラブルは特になかった。むしろ、生命保険の支払いに関して、若干、遅れが生じたことがわかった。それがどういったことだったのかを保険会社に確認に出かけることにした。トータルライフ生命保険の保険金サービス部の担当課長と面談をおこなうこととなった。
如月と黒瀬のコンビが赤坂見附駅から保険会社まで歩いていく。複合高層ビルに会社はあった。
「ここは外資系では上位にランクされている生命保険会社です」
ガラス張りのエレベータに乗って、黒瀬が話す。如月は練習を兼ねて階段で行こうとしたが、受付で止められた。非常階段専用らしい。エレベータ内でも片足で立っている。
保険金サービス部の階に到着する。同じくガラスの扉に英語と日本語でサービス部と記載があった。入口フロアはすりガラス張りで仕切られており、無人で電話機だけが置いてある。これで呼び出すようだ。黒瀬が電話を使って担当の石井課長を呼び出す。
「入り口を入ってすぐの打ち合わせ室だそうです」黒瀬に従って中に入る。
高級そうなふかふかの絨毯が続いていて、左右が打ち合わせ用の個室になっているようだ。番号が表示されていてAという部屋に入る。部屋は同じくすりガラスのパーティションで区切られており、4畳半ぐらいの広さで、中にテーブルがあり、両脇に椅子が対面で2個ずつ置いてある。通常はここで顧客と打ち合わせをするのだろう。
しばらく待つと石井課長が部屋に入ってきた。40歳は過ぎている。小太りの男性だった。
「お待たせしました石井と申します」互いに名刺交換をおこない、如月が話を始める。
「お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。実は以前、こちらの保険に加入されておりました長谷川和人さんの件で2、3お聞きしたいことがあります」
「はい、電話で問い合わせしていただきましたので、当社のほうでも確認をいたしました。たしかに6年前に保険金をお支払いしております」
「そのようです。ただ、こちらで確認したいのは支払いに時間がかかったようなのですが、その辺の経緯を教えていただけないかと思いまして」
石井課長の顔が曇る。若干話しづらい内容のようだ。
「はい、今回は何か事件の疑いがあるとのことで、こちらも協力しないわけにはいきませんのでお話しします」
「はい、ありがとうございます」
「当社では保険金の支払いに関しては死亡証明書が発行されれば、支払いは可能となります。ただ、長谷川様の場合は一部、疑義が生じた経緯があったようでした」
「疑義ですか?」
「ええ、ご本人様が存命ではないかとの話が出てきました」
如月たちが知りたかった話が出た。やはりその件がでたのか。
「それはどういったことでしょうか?」
「ええ、ご本人様を見たといったような情報が出てまいりましたので、その確認をおこなうことになったのです」
「それはどこからの情報でしょうか?」
「一部そういった噂のような話を漏れ聞きました。ご本人様の会社関係の方からです」
外協製薬の田中が話した内容と同じ出どころのようだ。
「そのため当社で調査をいたしました。結果的にはそういった事実はなかったようで、保険金を支払いました」
「すみませんが、もう少し具体的な話を聞かせてもらっていいですか?」
「そうですね。ではこちらにその時の調査結果がございます。非公開資料ですので警察内で留めていただきたいのですが、よろしいですか?」
如月は黒瀬を見る。この辺の可否はよくわからない。黒瀬が答える。
「大丈夫です。ただ、もし事件で有効な証拠になるような場合は別途、正式に依頼する形にはなるかと思います」
「はあ、わかりました」
石井が渋々資料を見せる。
それによると、福岡市内にて長谷川和人によく似た人物が散見された。その事実確認で現地に調査員を派遣し、周辺の聞き込みと目撃者の確認をおこなったとある。
「この調査は御社がおこなったのですか?」黒瀬が聞く。
「いえ、保険会社が自社で調査することではないので、関連先に依頼することになりました」
「スマートリサーチ社とありますね」
「そうです。当社が取引している会社です」
「我々の方でこちらとコンタクトを取っても構いませんか?」
「はい?必要ですか?」
「この資料だと表面的なことはわかるのですが、詳細はどうだったのかを知りたいと思いまして」
たしかに資料には調査範囲と期間はあるが、具体的な内容は乏しい。
「構いません。当社と資本関係はないので、先方が問題なければそうしてもらってけっこうです」
「わかりました。保険金額は5000万円でしたよね」
「そうです」
「金額としては適当でしょうか?」
「一流企業にお勤めでしたから、お若いこともあったし、普通だと思いますよ。確かご自宅のローンもあるとのことで、問題ない金額です」
「わかりました」
保険会社との打ち合わせを終えて、そのままスマートリサーチ社にアポイントを取る。場所は池袋だそうで、来社できるのであれば面会は可能とのことだった。
早速、如月と黒瀬でそこに向かう。ちょうど、丸ノ内線でそのまま池袋に行ける。車中で黒瀬が話をする。
「如月さん、その後、飛行機事故について私の方で少し調べてみました」
「飛行機事故?」
「ええ、日本でも何回か起きています。小さな事故はけっこう起きているんですが、墜落となるとそれほどの数はないです」
「私が知ってるのは日航機の墜落かな」
「そうですね。1985年に御巣鷹山に墜落した事故ですね。あの時は4名が生存していました。それ以前にも1966年に全日空羽田沖墜落事故、1971年に全日空機雫石衝突事故が起きています。飛行機の墜落事故で生存者がいるということはあまりないことです」
「そう思う。落ちたら終わりだと思ってる」
「ところが、世界には1万メートルもの上空で事故が起きたのに生存者がいた例があるんです」
「パラシュートでも持ってたの?」
「いえ、生身です」
「うそでしょ?」
「幸運が重なったようなのですが、1972年のコペンハーゲンからセルビア行の飛行機でテロによる爆発がありました。後部座席に乗っていた女性が飛行機の部品と共に落下し、森に落ちて助かったようです。その部品が空気抵抗を起こしたことと、森の木がクッションになったようですが、生きていました。1万メートルの高さからでも生還した例があるんです」
「すごいね。ああ、じゃあ今回も生存した可能性があるってこと?」
「可能性はゼロではないと思います。それと、もう少し高度が低かった場合には同じように助かった例は世界的には数回、あるようです」
「那覇沖事故は高度は低かったよね。そのまま海中に墜落したんだから」
「そうです。まあ、当時の捜索では遺体しか発見されませんでしたけど」
「ああ、でも、もし生きてたら、名乗り出るでしょ。おかしいよ」
「そうですね。確かにそれはそう思います。でも、如月さんが言ったように千尋さんが立川くんだりまで来た理由を考えると、ご主人がらみではないかと思うんですよ」
「すると誰かに騙されたということね」
「そうです。しかし、そんなに簡単に騙されるでしょうか」
「どういうこと?」
「例えば、如月さんに会いたい人がいて、その方は亡くなっているんですが、生きていると言われてすぐに信じられますか?」
確かに簡単に信じられるようなことでもないかもしれない。ましてやそれほど親しくない相手の場合はなおさらだ。
「じゃあ、本当に生きていたということなのかな・・・」
「生きているといった証拠のようなものがあれば、信用すると思うんですよ。生きているかどうかは何とも言えませんが、そういった可能性はあるのではと思います」
フラミンゴのような恰好で如月が考えこんでいる。
池袋駅南口から歩いて数分でその探偵社に着いた。古びた雑居ビルの2階、ワンフロアーを使用していた。黒瀬によるとこの規模だと探偵社としては大きい方だという。入口に受付らしき女性がいて、面会の話をする。事務所脇にパーティションで区切られた打ち合わせスペースがあり、そこに通される。
少し待つとスマートリサーチ社代表の入江氏が出てきた。名刺交換を済ます。
「急に押しかけてすみません」如月が定型的に言う。
「いえ、警察との関係は大事にしないと、こちらの営業にもかかわりますので」
入江は60歳は超えているだろうか、白髪初老の男性でいかにも探偵業といった印象がある。曲者の雰囲気が漂っている。
「それでトータルライフ生命さんからの依頼案件のことでいくつか質問させてください」
「電話で話された件ですね。こちらに資料も残っていますので、なんでもどうぞ」
入江はそう言うと茶封筒から書類を出してくる。それほど枚数があるわけでもなさそうだ。
「長谷川和人さんの生存確認調査という依頼だったようですが、実際はどういった内容だったのでしょうか?」
「福岡で見たという方、外協製薬の社員さんに聞き込みをして、見かけた場所周辺の聞き込みをしたようです。博多駅から福岡空港周辺のいわゆる繁華街中心に当たりました。調査期間は1週間です」
入江が資料を見ながら話をする。
「まあ、結論から言うと、見つからなかったんです。該当者なしという結果でした」
如月と黒瀬もその資料を覗き込みながら話を聞いている。如月が質問する。
「その調査をされた担当者は今おられますか?」
入江が少し困ったような顔をする。
「6年前ですから、担当は辞めてますね」
「そうですか、話を聞ければと思ったものですから、もうその方と連絡はつかないんでしょうね」
「ええ、退社してますので」
「探偵社ですと人の出入りは多いんですか?」
「そうですね。調査会社は個人情報も扱いますので、なるべく長く勤めてもらいたいとは思いますが、まあ、普通の会社よりは出入りは多いのかな」
「そうですか、あのできればその資料のコピーをいただけませんか?」
「コピーですか?無料というわけにはいきませんけど、よろしいですか?」
如月が黒瀬と顔を見合わせる。
結局、必要経費として降りるかどうかわからないが、2万円でコピーを入手した。お金は二人で折半した。
二人が帰途につく。駅に向かう途中で黒瀬が話す。
「如月さん、そんなに資料が欲しかったんですか?」
「うん、少し気になることがあったんだ」
「何です?」
如月がコピーした資料を出す。
「ここにある調査員の名前に聞き覚えがあるような気がした」
調査員名に『今井健三』とあった。
「誰なんですか?」
「よくある名前だけど、どこかで聞いたような気がした。署に戻って調べてみたかったんだ」
「なるほど、そうですか」
如月達は外協製薬の福岡営業所にいた長谷川和人を見たという営業マンにも確認を取った。しかしながら、6年前のことでもあり、和人と頻繁に接触があったというわけでもなく、真偽については今となってははっきりせず、似たような人を見たといっただけの話だった。
また、那覇空港沖の飛行機事故についても捜査関係者内で事故の詳細報告書を共有した。
当時、国土交通省内に事故調査団が作られ、ブラックボックスも回収されており、すでに全貌は明らかになっていた。
飛行機は沖縄那覇空港の東側、約10㎞の海上に墜落、機体は大破炎上していた。その後、海上保安庁、航空自衛隊が現地で捜索に当たるが、生存者は発見できずに以降は遺体の回収作業を続けることとなった。ただ、沖合での事故でもあり、当日の悪天候の影響や、遺体の損傷が激しかったために全員の遺体収容までは出来ていない。現在では行方不明者の捜索作業は終了している。
事故の原因については、落雷による左エンジンの損傷とバードストライクによる右エンジンの損傷という稀にみる不幸な事故であった。
有識者に生存の可能性について質問をしてみたが、海とはいえ、今回のような高速度で落下した場合、海面はコンクリートに匹敵する硬度となり、衝撃度は陸地と変わらないそうだ。よって生存の可能性は限りなく低いとの見解が出た。
長谷川和人の生存説は棚上げとなった。
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