最強の刑事

春原 恵志

第1話 発見

 今日から7月になる早朝6時、この時期になるとヒートアイランドの影響か、都内はすでに真夏のように暑くなる。

 会社員椛沢真一は日課である朝のランニングに打ち込んでいた。椛沢は今年で60歳、都内の上場企業に勤めており、来年の3月で定年を迎える。現在は管理職だが、名ばかり管理職という部下が一人もいない閑職に甘んじている。そんな彼の楽しみにマラソンがある。

 一般のマラソンランナーで一つのステイタスにフルマラソンで3時間を切ることを「サブスリー」という、椛沢は3時間数分で走ったことはあるが、切ることはできていない。なんとしても60歳前にそれを達成したいというのが目標になっている。早い話が仕事は二の次である。

 出社前の早朝に1時間近くを走ることが日課でもあり、気分転換にもなっている。7月ともなると日中は暑さで走るどころではないが、多摩地区の椛沢宅近くには玉川上水という川沿いの木々に囲まれた緑道がある。

 玉川上水は江戸時代に作られた四谷から羽村まで続く40㎞におよぶ用水路である。特に多摩地方の上流側は都立公園に指定されているように木々も多く、直射日光もさえぎられるので暑さをしのげるのである。遊歩道にもなっており、早朝であれば歩行者にはさほど迷惑にもならないということで椛沢は毎朝走っている。

 いつものコースを走っていると、何かの違和感に気付く。なんだろうと少し考え、思い当たった。カラスの鳴き声が異常に激しいのだ。

 走るのを止めてふと辺りを見渡すと、少し離れた林の中でカラスたちが騒いでいるではないか。ふと気になってそこに近寄ってみる。朝ではあるが日が上がりきっているわけではなく、カラスが集まっている周辺はまだ薄暗かった。よくよくその場所を見ると何かがあった。

 いったい何だろうと、さらに近寄ってみる。あ、と思わず叫びに似た声が漏れる。

 林の中の太い木から紐がぶら下がっており、その先に人が吊るされていた。

 椛沢は生まれて初めて首つり死体を見る。腰が抜けた。周囲にはすでに異様な匂いが充満していた。カラスが死体を突いているようだ。椛沢は我に返り、死体らしきものにさらに近寄り、カラスを追い払った。

 より近くで死体を見て思わず吐き気を催した。やはりこれは見てはいけないものだ。ドラマや映画などで見るそれとは全く違う。およそ人間とは思えない状態だった。

 おそらく服装から女性だとはわかる。それも若いようだ。髪の毛も長く太ってもいない。

 椛沢は死体をそのままにすることしかできず、スマホを取りだし警察に電話を掛けた。


 多摩地区の郊外にある警視庁武蔵大和署。いわゆるこの地域の所轄警察署である。昭和の終わりごろに建てられたという、年季を感じさせる4階建て建物の3階に刑事課強行犯係がある。

 毎日8時半から業務開始で、署員全員の全体朝礼から始まるが、強行班係の佐藤係長は概ね7時半には席についている。車通勤のため混むのがいやだということもあるが、なるべく早めに着いていたいという彼の性格的なものが大きい。その分、溜まった仕事も少しはこなせる。

 さらに郊外の自宅を朝の6時半には出かけるので、当然家族は寝ている。いつものコンビニによって朝飯のパンなどを買ってから職場で食べるのが日課となっている。この辺は普通の勤め人と何ら変わらない。

 強行班係には係長を含め、全員で8名が在籍している。係長の次には8時過ぎに神保警部が出署する。ちなみに佐藤と神保は同い年で、階級も同じ警部である。ただ、佐藤には出世の目があるが、神保は望み薄である。本人も管理側ではない刑事の仕事が自分には性に合っているとも思っているようだ。

 神保は家族持ちで二人の子供がいる。奥さんは出世を希望するが、神保にその気はない。ただ、奥さんの前でそんな話はしないし、出来ない。現在は8時過ぎで、その神保も出署している。

 そしていつもは8時半ぎりぎりに出社するのが今年30歳の二宮警部補である。本人はイケメンだと思っているが、周りの評価はそうでもない。その二宮が今日は早めに職場に入ってきた。そして神保の左隣の自席に座る。

「おはようございます」

「どうした?妙に早いな」

「そうすか?いつもこんなもんすよ」

「8時半ぎりぎりがお前の定時だろ」

「失礼な。神保さんモラハラですよ。それは」

「何がモラハラだ。お前が言うか」

 近年、警察署内もハラスメントに対する啓もうが行われる。世間一般もそうだが、警察という官職のため、特に上から厳しく言われている。講習会の類も頻繁に行われており、神保などはハラスメントという言葉に食傷気味である。

 神保は二宮が早く来た理由に気が付く。

「そうか、二宮、如月は今日から復職だったな」

 図星だったようで口差のない二宮が口ごもる。

 如月みゆきは今年で28歳、強行班係に配属されて3年目だ。それまでは交番勤務の地域課にいたが、本人のたっての希望で刑事になった。強行班係では紅一点となる。

 如月は半年前に不慮の事故で入院し、リハビリを経て、今日から復職の予定だった。

「おはようございます!」

 その如月の声が職場に響く。如月は身長165㎝、短髪で中肉中背、化粧をすれば美人なのだろうが、ほとんど化粧っけがなく、ボーイッシュな雰囲気で宝塚の男役のような印象がある。署内では男性よりも女性からもてているという話をよく聞く。

「この度は皆様に大変ご迷惑をおかけしました。本日より勤務に戻ります」

 如月が刑事課全体に聞こえるような大声を出す。それに佐藤係長が嬉しそうに応対する。

「如月、もう大丈夫なのか?」

「はい、リハビリも完了し、前より元気になりました」

「そんなわけあるか」二宮が茶々を入れる。

「二宮さん試しますか?」

 そう言うと如月は二宮にヘッドロックをかます。二宮は机をたたいて、

「ギブ!ギブ!」と叫ぶ。この二人はいつもこんな感じでじゃれあっている。

 実際、如月は昔から格闘技に精通しており、現在も空手道場に通っているほどの猛者である。力も相当に強い。二宮など手も足も出ない。

「その様子だと大丈夫そうだな」佐藤が嬉しそうに話す。

「はい、大丈夫です」

「足を骨折したんだよな」

 佐藤はそう言うと如月の足を見る。当然ながら制服からはそんな様子は見られない。

「そうです。左の大腿骨をやりました。幸いプレートを入れるだけで済みましたが、あと半年後にはプレートの除去手術をします」

 如月は半年前の勤務時間外に何者かから駅の階段から突き落とされた。深夜でもあり目撃者や防犯カメラ画像もなかったことから、いまだに犯人の特定ができていない。

 如月が神保の右隣の自席に座る。

「神保さんにもご迷惑をおかけしました」

「気にするな。それにしても早い復帰だったな。医者も驚く回復力だな」

「完全に元に戻るまでには1年はかかると言われていたんですけど、リハビリも良かったみたいです」

「そうか、いや、若さと如月の生命力もあるな」

 神保は如月のいつものまぶしい笑顔を見る。


 そろそろ8時半になるので署員は朝礼に備える。以前は全員が会議室に集まって朝礼をやっていたが、それでは非効率ということもあり、現在は全体放送のみとなり、その後それぞれの職場単位で朝礼をおこなうことになっていた。

 8時半のチャイムと共に管内放送が始まった。清水署長の声が聞こえだす。署長のいつもの決まりきった話と最近の発生事例を数件話した後、

「さて、ここで皆さんにお話があります。本日より警視庁から出向者が来られます。黒瀬翔さんで本庁ではサイバー犯罪対策課に所属されています。えー実は武蔵大和署に新しくサイバー対策用システムを導入することになりました。その立ち上げと指導が主な業務になります。それでは黒瀬さんあいさつをお願いします」

 マイクをいじる音がして声が聞こえる。

「はい、ただいま紹介に与りました本庁より参りました黒瀬翔と申します。これから約1か月間、皆様と共に警察業務を行わさせていただきます。よろしくお願いします」

「黒瀬さんには刑事課で勤務していただく予定です。それでは本日も頑張って地域に貢献しましょう」

 管内放送が終了し、続いて各係ごとに朝礼が始まる。強行班係の面々は立ったまま、佐藤係長が話を始める。

「おはようございます。今、署長から話があった本庁の黒瀬さんだが、刑事課でも実際はうちに配属される。黒瀬さんは新しく設置されるサイバーシステムの立ち上げで来ることになっている。それと彼はキャリアではないが本庁では幹部候補生という位置付けだそうだ。そのため同時に強行班の仕事もやることになっている。神保警部のほうで面倒を見てほしい」

「はい、わかりました」神保が答える。この件はすでに佐藤から根回しされていた件だ。

「それとケガで休んでいた如月巡査部長が本日より復職する」佐藤が如月に向かって話す。「如月、あいさつはどうする?」先ほど、如月が大声であいさつをしていたので敢えていいかとも思ったようだ。

「はい、やります。改めまして、如月みゆき巡査部長、本日より復職いたします。入院中は皆様のお力添えに大変感謝しております。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

 一同から拍手が上がる。如月が照れる。これでいつもの強行班係が戻ってきたわけだ。

 そこへ、突然、強行班係の電話が鳴る。素早く如月が受ける。

「はい、強行班係・・・玉川上水ですか、住所は・・・はい、わかりました。すぐに伺います」

 電話を切る。

「係長、事件です。玉川上水にて縊死死体が発見されました」

 如月が書き取ったメモを佐藤に渡す。

「よし、わかった。俺は黒瀬を待ってから出動する。神保たちで先に向かってくれ」

「わかりました」


 武蔵大和署の駐車場。神保と二宮、それと如月が捜査車両に乗りこむ。如月が運転席に乗ろうとするが、二宮が止める。

「俺が運転する」

「え、私がやりますよ」

「まだ、信用できない」二宮がそう言いながら如月の足を見る。

「大丈夫ですって」

「いいの!」

 そう言うと二宮は無理やり運転席に座る。本来は如月が運転担当なのだが、二宮は足のケガが完治したことを信用していないようだ。如月が先ほど聞いた住所を連絡する。車が発車し、神保が如月に確認する。

「如月、遺体はどんな状況だって?」

「玉川上水の林の中で女性が首を吊っていたそうです。細かい鑑識結果はこれからのようですが、昨日には遺体は無かったそうなので、亡くなったのは昨晩か早朝だろうとのことです」

「自殺なのか?」

「それもこれからのようです。検死も必要になるかと思います」

 神保はこれから遺体を見るにあたって如月を気遣う。

「如月は首つりの御遺体って見たことあるのか?」

「ああ、はい、地域課の時に」

「そうか、あんまりいいもんじゃないな」

「ええ」

 如月が地域課にいたころの首つり遺体を思い出したようで、顔がこわばるのがわかる。


 車が現場に到着する。すでに周囲にはロープが張られており、遺体も青いビニールシートに包まれていた。現場周辺の住民が数人、周囲を取り囲んでいた。色々と噂話をしているようだ。

 神保が先頭に立ち、ロープ周辺を警戒中の警官に声をかける。

「強行班神保だ。入るぞ」警官が敬礼する。「どうぞ」

 鑑識が周辺写真を撮っている。鑑識の顔見知りに神保が声をかける。

「どんな感じだ?」

「見ますか?」神保が頷く。

 鑑識がブルーシートを開ける。遺体は髪が長く、女性のようだったが、顔付近がカラスにやられたのか、目がくりぬかれていた。

「やられたな・・・」

「ここら辺はカラスが多いですからね。遺体の状況から昨晩の深夜ですかね。1時から3時の間だと思います」

「歳は?」

「どうですかね。40ぐらいなのかな?若いと思います」

「それで自殺でいいのか?」

「どうですかね。実は吉川線があるんですよ。自殺途中で付けたのかがよくわかりません」

 吉川線とは首を絞められた際に首に抵抗した跡が残ることを言う。表皮などに爪の跡が残る場合がある。

「身元は?」

「所持品にバッグがあったのでわかると思います。携帯やカード類もありました」

「財布は?」

「ありますね」

「物取りじゃないのかな・・・で、遺書はあったのか?」

「周辺を捜しましたが、見当たらないです」

 今時はSNS上にそういったものを残すこともあるので、そこも当る必要がある。

 神保は遺体がかかっていた木を見る。松の木だろうか、幹自体は50㎝ぐらいの太さでそこからロープがかかっている枝もしっかりしており、いかにも首つりに適した木のように見える。そしてロープの下には何かの段ボール箱のようなものも置いてある。これを台にしたのだろうか。ここら辺は道路からも少し奥まっており、車から見ることは難しいだろう。さらにざっと見たところ、防犯カメラも近くにはないようだ。深夜であれば人通りも少ないかもしれない。

 神保が鑑識に話す。

「検死をしたほうがいいな。あと、身元はこっちで調べるから、鑑識の作業が終わったら証拠品は強行班に戻してくれ」

「わかりました」

「第一発見者はどちらにいますか?」

「そちらのランニングウェアの男性です」

 鑑識が指さした先には60歳ぐらいのランニングウェアの男性がいた。すでに長時間、ここで待たされたのか、汗だくの上に少し、グロッキー気味のようだ。神保が近くに寄って話を聞く。

「お疲れ様です。大変でしたね」

「はい、この時間だと、会社も休まないと・・・」

 時計を見ると9時半を過ぎている。

「申し訳ありません。もう少しご協力をお願いします」

 男が仕方なく頷く。

「えーと、お名前と連絡先を伺わせてください」男は椛沢と言う名前と電話番号を言った。

「ご自宅はこの近くですか?」

「近くです。ランニングをしていて出くわしたんです。自宅は玉川上水駅近くです」

 神保が考えるにそれほど、近くでもないと思う。5㎞は離れている。ランナーの感覚では近いのだろうか。

「遺体を発見された時間は通報と同じでよろしいですか?」

「そうです。朝の6時半ごろになります」

「ここはよく走られるんですか?」

「ええ、毎日、走ってます」

「昨日も走られたんですか?」

「はい、でも昨日は遺体は無かったと思います」

「でも現場は遊歩道からは少し奥まっていますよね」

「そうですね。直接は見えないかもしれないかな。でも今朝はカラスが異常に騒いでいましたから」

「なるほど、ここら辺はカラスも多いですからね。ほかに何か気が付いたようなことはありましたか?」

 椛沢は少し考えてから話す。

「いえ、特にはないです」

 神保は如月と二宮に振り返って話す。

「二宮たちは何かあるか?」

「遊歩道を走ってる方は椛沢さん以外にも何人かおられますよね」

「いますよ。大体、いつも同じような方々です」

「いつもとは違うような人もいなかったということですね」

「ええ、特に記憶には無いです」

 神保は如月を見るも、彼女は首を振る。神保が椛沢に振り返ると、

「椛沢さん、ご協力ありがとうございました。また、何かありましたらこちらから連絡させていただきます」

 椛沢はようやくお役御免になったとほっとした表情をする。

「はい、これで帰ってよろしいですか?」

「はい、大丈夫です」

 椛沢はランニングウェアでそのまま走っていく。

「年寄りなのに頑張るな」二宮がぽつりと言う。それに如月が食いつく。

「私も毎朝、走ってますよ」

「お前は特別なの」

 そこに佐藤係長ともう一人スーツ姿の若い男性が来た。二宮が独り言のように言う。

「イケメンだな・・・」

 本庁の黒瀬翔はその名前だけでなく、姿かたちもジャニーズ系イケメン男子だった。切れ長のすっとした目と身長は180㎝はあるだろう、それほどやせ型でもなくそれでいて太目感もない。絵に描いたような男性だった。二宮の敵ではないが彼はそう思っていないようだ。

「お疲れ様、こちらが本庁から来た黒瀬さんだ」

「黒瀬翔です。よろしくお願いします」

 声も凛としてこの暑さの中、涼風が吹くようでもある。強行班係のメンバーが一通り挨拶をする。佐藤が神保に確認する。

「それで自殺なのか?」

「まだ、わかりませんね。遺書はないようですが、吉川線があったようです。所持品もあるようなので鑑識が調べ終わればこっちに来ます」

「そうか、じゃあ、早急に身元を当たることだな」佐藤は黒瀬を見て、「遺体を見ますか?」と話す。

 黒瀬は頷いて佐藤と一緒に遺体を見る。さすがに初めての縊首遺体は厳しいものがある。黒瀬の顔色が蒼くなった。

 戻ってきた黒瀬に神保が話す。

「黒瀬さん、周辺の聞き込みをやります。一緒に来てください」

「わかりました」

 その後、神保と黒瀬、二宮と如月で周辺住民に聞き込みをおこなったが、やはり夜間には人通りも少ないようで、そういった物音を聞いたり、何かを見たような人間はいなかった。


 所持品から死亡した女性の身元はすぐに判明した。神奈川県鎌倉市大船在住の長谷川千尋43歳だった。神奈川県警に問い合わせをしたところ、長谷川千尋は大船のマンションで一人暮らし、ご主人とは死別したそうだ。

 そこからさらに関係者を当たったところ、長野県松本市にご両親が健在とのことだった。

 先方に連絡をすると、ご両親はすぐに上京されるとのことだった。そのため、両親による本人確認後、司法解剖を行う手はずとなった。


 強行班のメンバーが会議室に集合し、今後の進め方について確認を取っている。会議室は8畳程度の広さで中央にテーブルがあり、それを囲む形で椅子が設置されている。

 奥の上座に佐藤係長が座り、議事進行している。

「長谷川さんの死因は司法解剖を待つことになるが、自殺、他殺の両面で捜査をする。現場での聞き込みでは有力な情報はなかったということだな」

 全員から報告を受けてはいるが会議内での情報共有の意味で再確認している。神保が答える。

「そうです。昨晩というか早朝ですか、その時間帯に争うような物音や不審者を見たような情報はありませんでした」続いて二宮が答える。

「基本は皆さん寝ていたといった話でした。一番近い場所にあるコンビニにも当たりましたが、気になる点はありませんでした」

「防犯カメラはどうだ?」それには如月が答える。

「現場直近にはないですが、付近の防犯カメラから画像を入手しています。分析はこれからです」

「あそこは早朝のランナーも多いだろうから、明日朝にでも聞き込みをしてみてくれ」

 一同が頷き、佐藤が続ける。

「それと防犯カメラの分析が先かもな。それから大船の自宅周辺を当たるか。神奈川県警に話は付けとく」神保が話す。

「長谷川さんが大船からここまで来た理由があると思いますね。勤務地は神奈川のようですし、こっちに知り合いでもいたんですかね」

「その点も探るしかないな。それから長谷川さんのご両親は夕方には来るそうだ。俺と如月で相手をする。神保と二宮、黒瀬で大船に行ってもらう」

 その場の全員が了解する。

 

 大船行きを指示された3名が二宮運転の捜査車両で出かけている。

「黒瀬さんも初日から事件で大変ですね」運転しながら二宮が言う。

「いえ、勉強になります。ああ、それと黒瀬と呼び捨てでけっこうです」

「そう、じゃあそう言わせてもらう。所轄はどんな感じ?本庁とは違うでしょ?」

「どうですかね。来たばかりなのでこれからですが、上には所轄での働き方も知りたいという要望を聞いてもらいました」

「準キャリアってことなんでしょ?」

「どうですかね。自分ではわかりません」

「そうか、いや、俺なんかようやく巡査部長だから、すぐに上司になっちゃうかもな」

 助手席の神保はにやりと笑うがあえて話はしない。二宮が質問を続ける。

「黒瀬は大卒なの?」

「ええ、私大ですけど、なのでそれほど出世は出来ないかもしれません」

「そうか、キャリアでも出世できるのは東大だもんな」

「二宮も昇進試験に受かれば、出世できるぞ。今はそういうシステムだ」神保が茶化す。

「受かればですよね。どうも勉強する気が起きなくて」

「そんなことだと如月にもすぐに追い越されるな」

「如月さんは上昇志向なんですか?」黒瀬が聞く。

「まあ、そうだな。昇進もそうだが、あの娘は独特だ」

「そうなんですか、見た感じは普通に見えますが」

 二宮が追加の情報を息巻いて話す。

「ああ見えて、あいつの格闘技にかける執念はすごいぞ」

「格闘技ですか・・・」

「マーシャルアーツっていうのかな。実践的な格闘技をやってるんだ。強くなりたいって欲求がはんぱない。むしろ異常かもな」

「へー、そうは見えないですね」

「うちの管轄に半グレ組織があるんだけど、最近、活動が激しいんだ。一年ぐらい前かな、通報があって、如月と行ったんだが、あいつは素手で3人と渡り合った。それも一瞬で倒していくんだ。あれは人間凶器だな」

「二宮は犯人の介抱に回ってたんだよな」神保が笑いながら言う。

「動けなくて唸ってるんだから、仕方ないでしょ」

「そういえば、如月さんは怪我をされたそうですね」

「それな。深夜に駅の階段を後ろから突き落とされたらしいんだな」

「じゃあ、やられた奴らの復讐なんですか?」

「どうかな。捜査は続けてるんだが、有力な情報がないんだ」

「如月さんにすれば不覚というところですかね」

「黒瀬、それは冗談にならないぞ。あいつは自分の力不足だって怪我よりも対処できなかったことに憤りを感じてたんだから」

「心底、格闘家なんですね」

「まさにそうだな」

「昔からやってたんですか?」

「そうらしいよ。中学校ぐらいからやってたらしい。ああ、そうそう如月は施設出身なんだ。両親を早くに亡くしたらしい」

「そうなんですか」

「詳しくは知らないが、そのころから格闘技に夢中になったみたいだな」

「そういった大会にも出てるんですかね?」

「学生の頃は出てたのかな。最近は実践だけみたいだ。俺もよくはわからないけど、あいつのやってる格闘技は軍隊と同じで急所も付くんだってさ」

「まさにマーシャルアーツですね。それはすごい」

「まあ、そういった話は本人に聞いてくれ」

「わかりました」

「黒瀬は何かスポーツをやってたのか?テニスとか弓道とかか?」

「いえ、ほとんどやってないです。うちの大学にも空手部はあったんですが、私は軽音楽部です」

「軽音楽部?どんなことやるの?」

「バンド活動です。学園祭で演奏したりしました」

「そうなんだ。ロックとか?」

「そうですね。ユーチューブなんかにも上げました」

「かっこいいな。如月とは真逆だな」

 神保は如月のことを考える。3年前に強行班に来た頃からの付き合いだが、彼女の犯罪を憎む気持ちだとか、強くなりたいといった欲求は確かに異常なほどだ。あの年頃の女性であれば、通常は推しメンだとか、アイドルだとかに入れ込むものだが、如月の場合、その対象が格闘技になっている。さらに怪我をしてから知り合ったという年配の男性がいるようで、その男が格闘技に精通していたようだ。その影響からか、前よりもどんどん格闘技にのめりこんでしまっている。

 

 千尋さんの自宅を訪ねる前に、3人は神奈川県警の所轄警察署に来ていた。県警刑事課の蓮見課長が応対してくれていた。蓮見は40歳後半、恰幅の良い男性である。

 打ち合わせ場所でその蓮見が神保達に話す。

「武蔵村山からですか、ずいぶん遠くからご苦労様です」

「そうですね。東京でもはずれの方ですから」神保が答える。

「こちらも神奈川じゃあ外れの方ですからね。まあ、近年はベッドタウンとして人気があるみたいです。マンションなんかの値段もそこそこ高いんですよ」

「人気の場所ですからね。大船って名前にステイタスがありますね。ああ、それで、長谷川千尋さんの件です。こちらでは何か情報をお持ちでしょうか?」

「先ほど地域課にも確認はしましたが、特別、情報らしいものはないですね」

「ご主人と死別されたと聞いています」

「そのようです。7年前に亡くなられてますね。以降は再婚もせずに同じマンションにお一人で住んでおられたようです」

「ご主人は何をされていたんでしょうか?」

 蓮見課長は資料を確認しながら話す。

「えーとね、製薬会社に勤務されていたようです。鎌倉にある研究所に勤務されていたようですね。千尋さんもそちらに勤務しています。職場結婚なのかな」

 神保が渡された資料を見ると大手製薬会社の外協製薬とある。本社は日本橋で鎌倉には研究所があるようだ。

「事件性があるかもしれないとのことですから、とりあえず警視庁主導で動かれて構いません。神奈川県警は協力するという形で進めるようにと上からは聞いています」

「ありがとうございます。助かります。では、周辺の聞き込みもやらせてもらいます」

「どうぞ」

 県警に断りを入れてから進めていけという署長からの指示である。


 自宅を訪れる前に、まずは勤務していた外協製薬に面会のアポを取っておく。夕方ならということで研究所の上司と17時のアポイントを取った。その後、自宅周辺の聞き込みに向かう。

 マンションは大船駅から徒歩10分の15階建てだった。マンション敷地内には十数棟同じような規模のマンションが建っており、大きな公園もある。それなりの価格であることがわかる。二宮がまぶしそうに見上げる。

「すげえな。いったいいくらするんだろうな?」

「8000万は下らないかもしれませんね」黒瀬が言う。

「製薬会社って儲かるんだな。なんかこの景色、日本じゃないみたいだ」

 二宮の言う通り、海外の高級マンションを思わせるかのような作りになっている。広々とした公園もあり、警察官でここに住むのは一生無理かとも思わせる。

 管理事務所に話をして、長谷川宅を見せてもらうことにした。11階の部屋だった。

 高齢の管理人が一緒に立ち会い、長谷川宅の鍵を開ける。

「こちらの間取りは3LDKですね」

 入っていきなり広々としたリビングがある。これがリビングの広さだろうか、ここでバトミントンができそうなぐらい広い。

「これで3LDKか・・・」二宮の感想がすべてである。

「捜査令状もない段階ですから、見るだけにします」神保が言う。

 部屋は一人で住むには明らかに広すぎる。女性一人だと特にそうだろう。子供もいなかったようで必要最低限の家具しかない。そして綺麗に片付いている。

「ここだとすぐに売れるでしょうね?」

「ええ、優良物件ですから、買い手の方が多いです」

 少し見る限りでは、部屋の中に特に怪しい部分はなかった。

「隣人に話を伺ってよろしいですか?」

「ええ、大丈夫です」

 まずは隣に声をかける。ちょうど昼過ぎの3時頃なので住民は在宅していた。40歳ぐらいの主婦が小さい子供と出てきた。

「失礼します。警察のものです」神保が警察手帳を提示する。

 日中の刑事来訪にびっくりしている。

「お隣の長谷川さんについてお聞きしたいのですが、よろしいですか?」

「ええ、何かありましたか?」

 母親が興味津々といった顔をしている。

「申し訳ありませんが、まだ、お話しできる段階ではありません。けっしてご迷惑をおかけするような話ではないです」

 その話で若干、怪訝そうな顔に変わった。

「長谷川さんとは交流はありましたか?」

「いえ、あまりなかったです。普段はお仕事されていたようで、休みの日にお会いするぐらいで、特には」

「そうですか、何か気になるようなことはなかったですか?」

「気になるといいますと?」

「ええ、どなたかと会われていたとか、そういった話です」

「そういう意味ではあまり人が来ていることはなかったように思います。私が知る限りは頻繁に人が来るようなことはなかったです」

「長谷川さんは独身でしたよね。そういう関係の男性がおられたようなこともなかったですか?」

「細かい話は知りませんが、ご主人が亡くなられたと聞いています。男の人がいるようなこともなかったと思いますよ」

「そうですか?失礼ですが貴方はこちらにはいつ頃からお住まいですか?」

「私どもは5年ぐらいですか、長谷川さんはもっと前からおられたようですね」

「なるほど、わかりました。ありがとうございます」

 話を終えて扉を閉める。二宮が感想を言う。

「今時、あまりお隣さんとのお付き合いもないんですかね」

「そうなのかな」神保はそう言って管理人に話をする。

「こちらのマンション全体で催しものとかはやらないんですか?」

「今は無いですね。昔はあったみたいですが、最近はやっても人も集まらないしね。管理組合はありますよ。自治会もありますから、会長さんに会ってみますか?」

「はい、お願いします」

 それから何人かの住民や自治会長にも話を聞くが、目新しい情報はなかった。女性一人でもあることから、逆に地域住民とは距離を置いていた形跡も伺える内容だった。


 次に鎌倉の研究所に向かう。車で数分で着く距離である。これだと通勤は楽だったろうなと神保は思う。

 研究所は高い建物はないが、一棟が広く面積を取る建築物で構成されていた。とにかくその敷地の広さに驚いた。サッカーコートが何個も入りそうな広さで、建物のほかには広々した芝生が一面に敷き詰めてあった。

 受付で話をして入口近くの建物に通された。ここは面会施設のようでブロックで仕切られた部屋ごとに来客者が面談をしているようだった。

 神保らは指定された部屋で待つ。テーブルに対し、椅子が3席づつある広めの部屋だった。部屋を見ながら二宮が言う。

「うちの警察署もこれぐらいの面会室が欲しいですね。本庁はこういうのあるんだよね」

「ええ、あります。本庁のセキュリティはここよりももっと厳しいです」

「そうなんだ。そういう意味じゃ、うちなんかざるだな。誰でも入れそうだ」

「ここは日本でも最先端の研究施設ですからね。機密情報も多いでしょうから、製薬会社は研究が命ですから」

「そうなんだ」二宮が素直に感心している。

 ノックがあり、男性が入ってくる。50歳ぐらいだろうか、白髪交じりでメタルフレームの眼鏡をかけたやせ型の人物だった。出された名刺にはタンパク質科学研究部リーダー松本賢二とあった。

「お時間をいただき、ありがとうございます」神保が話す。

「いえ、電話では話せないといったことでしたが、長谷川がどうかしましたか?」

「はい、実は昨晩、お亡くなりになりました」

 松本が絶句する。

「あ、それは事故でしょうか?」

「まだ、はっきりとはしていません。事故なのかそうでないのかをこれから調べていくところです」

「事件の可能性もあるわけか・・・昨日、休みを取っていたんで、余暇を楽しんでいたとばかり思ったんだが」

 松本の様子を見ると心底、意外な事実だったことが伺える。

「それで2、3質問をさせてください。長谷川さんはこちらではどういった仕事をされていたんですか?」

「事務一般です。彼女は研究者ではないものですから、それでも実験のお手伝いとかは、してもらっていたな」

「こちらで仲の良かった方はおられますか?」

「ええ、何人かは、いると思いますよ」

「後でお話を伺わせてもらってもよろしいですか?」

「はい、わかりました。ああ、もうすぐ帰る時間だから、ここに来てもらうように話をしますね」

「はい、よろしくお願いします」

 松本がいったん離籍する。

「黒瀬、タンパク質研究って何かな?」松本の名刺を見ながら神保が質問する。二宮より黒瀬の方が知っていそうだ。

「おそらく多岐にわたっていると思いますよ。タンパク質って人間の基本ですから、遺伝子だとか、それこそ癌の治療とか、他の難病も扱っているんだと思います」

「俺なんかタンパク質ってなるとプロテインとかそういうものしか浮かばないな」二宮らしい感想を述べる。やっぱりこいつに質問しないでよかったと思う。

 松本が戻ってくる。

「今、仲の良かった人間を呼んでいます」

 神保が話を進める。

「最近の長谷川さんに気になるようなことはなかったですか?」

「最近か・・・いや、気が付かなかったな」

「長谷川さんはこちらに勤務されて長いんですか?」

「そうです。新卒で入社してからになりますから、かれこれ20年になります。そういえば去年、20周年で表彰されたんだった」

「そうですか、じゃあ、結婚されたのもご存じですよね?」

「もちろんです。社内結婚ですから、彼女、旧姓は小松さんだったかな」

「結婚相手もこちらにお勤めだったんですか?」

「ええ、同じ部署の長谷川君です。有能な研究者だった。惜しい人を亡くしました」

 この話だとご主人の亡くなった情報がわかるかもしれない。神保が色めき立つ。

「それはいつ頃のことだったんですか?」

「亡くなったのは7年前です。飛行機事故でした」

「飛行機事故?」

 黒瀬が話に加わる。

「もしかして、沖縄沖での事故ですか?」

「ああ、そうです。あの事故で亡くなりました」

 7年前に羽田発沖縄行の飛行機が墜落事故を起こした。那覇沖墜落事故として有名である。

 それはまさに不運が積み重なった航空機事故で、まず悪天候により落雷が左のエンジンを直撃し、電気系統の故障により動作不良となった。これだけでもレアケースであり、めったに起こるようなものではない。飛行機はエンジン2基のタイプだったが、一基であっても飛ぶことは可能で、実際そういった例は多い。なんとかそのまま那覇空港に到着できる見込みだった。ところが不運が重なり、ちょうど渡り鳥のルートと飛行機の軌道が重なってしまった。なんと残った右側のエンジンに鳥が巻き込まれるバードストライクが起きた。鳥がタービンに巻き込まれてしまったのだ。それにより右のエンジンも停止する。2基のエンジンを失いながらも、パイロットはそれでもなんとか機体を維持し、着陸を試みたが、ついに空港に到着できずに手前で落下、機体は墜落炎上し海中に水没してしまった。

 乗員乗客187名全員が亡くなってしまった。近年、最悪の航空機事故である。

 松本が話す。

「当日、長谷川君は沖縄の学会に出席する予定でその飛行機に乗っていたんですが、運がなかった」

「あの事故で犠牲になったんですね・・・」

 松本が頷く。

「奥さんの千尋さんもかわいそうでした。夫婦仲も決して悪い訳じゃなかったから、落ち込みようは傍から見ても痛々しかった」

 そこへ扉がノックされて女性が顔を出した。

「失礼します」

 事件の話を少し聞いたのだろうか、顔色がよくない。千尋さんと同じ歳ぐらいに見える。

「長谷川さんが事故にあったとか・・・」

「残念ながらお亡くなりになりました」

 女性は顔を手で覆った。松本が話をする。

「彼女は長谷川さんとは同期入社で、一番、仲が良かったからね」

「どうして亡くなったんですか?」女性が気を取り直して神保に聞く。

「今はまだ詳細を話せないんです。事件と事故の両面で捜査をしています。お辛いでしょうがお話を聞かせてください」

 女性が頷いて席に着く。

「お名前は何とおっしゃいますか?」

「田中です。田中翠です」

「田中さん、最近、長谷川さんに変わったことはなかったですか?」

 田中は少し考えてから答える。

「いえ、特には」

「昨日、休暇を取られたようですが、その件について何かお聞きではないですか?」

「いえ、聞いていません。休みを取るといったことも知らなかったです。昨日、私が会社に来てから彼女が休んでると気が付いたぐらいですから」

「松本さん、長谷川さんは休暇を急に取られたんですか?」

「どうだったかな。いや、最近は従業員の休暇については厳しくないんですよ。働き方改革もあって、有給は労働者側の権利ですので、上司の許可は不要ですし、当然、理由も聞きません。有給休暇は個人で勝手にとれる風潮なんです」

 神保は警察とは違うんだと世間とのギャップに驚く。今はそういう時代なんだろうなとも思う。田中に質問してみる。

「なるほど、でも田中さんもご存じなかったんですよね」

「はい、ただ、毎日、会ってるわけでもないので、たまたま話をしなかっただけかもしれません」

「では、今までも田中さんに話もなく休みを取ることはあったんですね」

 ここで田中が考える。

「そうですね。あったと思います」

 少し引っかかるようだ。やはり今回はレアケースということだろうか。続けて質問する。

「先ほど松本リーダーから長谷川さんの御主人の飛行機事故について話を聞かせてもらいました」

「はい、不幸な事故でした」

「奥さんの嘆きも深かったと聞いています」

「そうです。最近になっても色々引きずっているようでした」

「再婚もなさらずにいたということですね」

「はい、その気にならなかったようです。私もまだ若いのだから新しい生き方を進めたんですが・・・」

「ということだと、特定のお付き合いをされているような方はいなかったということですか」

「そう思います。私はそういった話を聞いていません」

 神保は少し躊躇するが、聞かないわけにはいかない話をする。

「長谷川さんはお一人ということで、金銭面では何かご苦労をされていたようなことはないですか?」

 田中が困ったような顔をする。個人情報だからだろうか、これには松本が答える。

「それはないです。手前みそになりますが当社に関しては、給与面でも一般と比べましても少ない方ではないですし、長谷川さんは潤沢に貯金もあったと思いますよ」

 神保が聞きたかった部分が出てきた。

「そうですか、ご主人の飛行機事故がありましたが、それなりに補償もあったということですね」

「そうですね。あったと思いますよ。とにかく彼女の生活が苦しかったような話は聞いていません。ご自宅もすでにローンはなかったと聞いていますよ」

 あの高級マンションのローンも完済している。金銭面では問題がなかったということだ。

「そうですか、わかりました」

 その後、何点か話をして刑事たちは帰途についた。


 帰りの車中、帰りは黒瀬が運転している。二宮が話す。

「神保さん、金について気になりますか?」

「そうだな。マンションも借金が残ってないらしいし、慰謝料ももらってることだとすると、それなりに資産があったということだ。そこは抑えとかないとまずい」

 ここで黒瀬が話す。

「それと飛行機事故の慰謝料はけっこうな金額が出たと思います。モントリオール条約というものがあって、最低でも1800万円は出ているはずです。確かではないですが那覇沖の事故は国内の航空会社ですからもっと出たはずです」

「個人の生命保険もあったかもしれないな」

 もし、殺人事件であった場合は金銭目当てである可能性が高いことになる。


 同時刻、強行班係では如月が佐藤係長と待機していた。予定では17時ごろに長谷川さんのご両親が来署されるはずだ。強行班は基本、男が多いのでこういう時には当たりの柔らかい如月が重宝する。実際はとんでもなく当たりが強い女性ではあるが。

 職場の電話が鳴り、如月が出る。

「はい、強行班です。はい、わかりました。こちらにお通しください」

 受付からの電話でご両親が来た模様だ。如月が真剣な顔で佐藤に話す。

「お見えになりました」

 佐藤が頷く。


 しばらくして、刑事課フロアーの端にご両親の姿が見える。80歳近いのだろうか高齢の二人である。心配そうな顔でおろおろしている。如月が飛ぶように近寄っていく。

「小松様ですか?」

「はい、小松です」父親が言い、それに合わせるように母親が言う。

「本当に千尋なんでしょうか?」

 如月は一呼吸置いて話す。

「はい、それを確認していただきます」

 佐藤係長もそばに来て話をする。

「強行班係の佐藤と申します。それと彼女は如月です。それでは、あちらに行きましょう」

 佐藤係長を先頭にして、地下にある安置所に向かう。如月が両親を支えるように横についている。如月は165㎝だが、ご両親はそれよりも低い。特に母親は背中も曲がっているせいもあるが、より小さく見える。エレベータに乗る。如月がご両親に話しかける。

「こちらに来るのに困らなかったですか?」

「ああ、新宿駅から少し迷いましたけど、なんとか来れました」父親が絞り出すように話す。それどころではない雰囲気である。

 エレベータが地下について、明かりが少ないのか、暗めの廊下を佐藤を先頭に歩いていく。

 安置所のスライド式の金属扉を開けて中に入る。夏だが室内はさらにひんやりとしていて薄暗い。消毒臭もしている。室内の真ん中に大きなステンレス製のテーブルが置いてあり、その上に白いシートをかぶせた遺体がある。あらかじめ言っておかないとまずい話を佐藤が話す。

「確認していただく前にお話があります。遺体が鳥の被害を受けています。申し訳ありませんが、その点をご容赦ください」

 そういうとそっとシーツを開ける。

 「ああー」母親が崩れ落ちた。如月が抱える。父親は必死に遺体を確認しようとするが、すぐに目をつぶってしまう。何とか目を開けてそしてつぶやく。

「千尋です」

 それだけ言うとそこに座り込んでしまった。母親は如月にすがるようにして泣いている。

 佐藤がふと見ると如月もぐしょぐしょになって泣いているではないか。鼻水を垂らさんばかり、いやすでに垂らしている。佐藤がハンカチを如月に渡す。如月は人目もはばからずハンカチで顔をぬぐう。

 母親がその様子を見て、少し我に返ったようだ。なんでこの娘はこんなに泣いているんだろうといった顔だ。父親も少し気を取り直したようで話をする。

「なんでこんなことになったんですか?」

 佐藤がおもむろに話す。

「この近くに玉川上水という用水路があります。周辺に遊歩道などあるんですが、そこの林の中で亡くなっているのが発見されました。縊首のようです」

「いしゅ?」母親が怪訝そうな顔をする。

「はい、ロープで・・・首を吊っておられました」

「そんなこと・・・」母親が絶句する。

「何か思い当たることはないですか?」佐藤の質問に父親が答える。

「思い当たるも何も、そんなことはないですよ。お盆には帰省するはずだったですから、いったい、どういうことなのか」

 やはり、自殺という線は薄そうだ。

「それでこの後、司法解剖を行わせていただきます」

「解剖するんですか?」母親がすがるような顔を見せる。

「そうです。申し訳ありませんが、事実関係を明確にするためには必要になります。その後は尊厳をもってきちんとお返しいたします」

 娘を亡くした両親にはつらい話が続いていく。警察官としてもつらい場面だ。


 その後、会議室に席を用意し、両親と話をする。ローテーブルが真ん中にあり、両側にソファがある。涙が収まった如月がお茶を用意する。佐藤がおもむろに話をする。

「お辛い中、申し訳ありませんが、もう少しお話を聞かせてください」

 両親は半ば放心状態だが軽くうなずく。

「千尋さんとは連絡は取っていたということですね」

 父親が答える。母親は相変わらず涙ぐんでいる。

「はあ、千尋から電話することはあんまりなかったですけど、こっちからは週に一回ぐらいは連絡してたかな」

「そんな中でも特に変わった様子はなかったんですね」

「気が付くようなことはなかったです」

「そうですか。千尋さんから玉川上水のほうに行くような話も聞いてないということですね」

「全く聞いていません。なんでまたこんなところまで来たのか」

 佐藤もそこが気になる点だった。自殺としてもなぜ、なぜここまで来たのかが不明だ。

「今までも多摩のほうに行くような話はなかったということですね」

「そうです」

 佐藤がお茶を進めるが、両親は茶碗に触るだけで飲もうとはしない。ここで如月から話が出る。

「最近は千尋さんとはどういった話をされていたんですか?」

「変わりはないかとか、そういった他愛のない話です」母親が言う。

「長野県ですよね。田舎に戻って来ないかの話はしなかったですか?」

 母親が如月の顔をじっと見る。

「お嬢さんも母親から言われるかね?」

 如月は両親がいないが、話を合わせる。「ええ、まあ」

「言ってもきかないんだよ。よっぽどこっちがいいんだろうね。旦那が死んでからずっと帰って来いとは言ってたんだけどね」

「そうですか」佐藤がその話を受けて言う。

「ご主人が亡くなられたのはいつ頃ですか?」

「たしか7年前だったかな。あの頃はずいぶん、つらそうだったけど」

「大船のマンションには行かれたことがあるんですか?」

「ええ、何度か行きました。立派なマンションでね。一人で住むには広すぎる」

 佐藤は自宅の話はこの後、神保達から聞かないとならないと思う。

「ご主人が亡くなられた後の交友関係ですが、何かお聞きになったことはないですか?」

「交友関係?」

「ああ、7年前に死別されたということですから、再婚とかそういった話はなかったですか?」

「そうだね。あの娘はよっぽど、前の旦那が好きだったんじゃろうね。そういった話もないし、こっちが話をしてもその気がないって言うばかりで」

「そうですか」

 母親が何かを思い出したように話し始める。

「旦那が死んでから、しばらくして見かけたような話を聞いたもんじゃから、余計にそんな気になったんじゃね」

「え、亡くなられたんですよね」

「そう、事故でね。もう帰って来ないのにそんなたわいのない話をする人がいるもんだから」

 佐藤も何の話かと気になる。

「すみません。事故で亡くなられたのに生きてるのを見たというのはどういうことなんでしょうか?」

 父親が埒が明かないと思ったのか、話を止めようとする。

「そういうことを話す人がいたということですよ。忘れてください。事故で死んだんですから生きてるわけないです」

 佐藤は合点がいかないが、これ以上、話を突っ込むわけにもいかないのでここでやめる。

 その後も何点か話をしてみるが、これといった情報を得ることは出来なかった。夜も遅くなったので、ご両親をタクシーでホテルまで送って終了となった。


 自分のデスクに戻った如月に佐藤が自席から話をする。

「ご主人が事故で亡くなったと言ってたが、どういった事故だったのかな。あまり話ができなかったが」

「そうですね。心痛の御様子でしたから、さらに鞭打つようなことはできませんでしたね」

「ああ、そうだな」

 ここで佐藤は自分の席の周りに溜まっている書類を見てうんざりする。これを処理しないとならないし、神保から今日の話もきかないとならない。今晩も遅くなりそうだ。如月に向けて話をする。

「如月はもういいぞ。今日は復帰初日だし、7時過ぎだ。帰りなさい」

「大丈夫です。道場にも休むと言ってますから」

 如月は地元の空手道場に通っている。ほぼ毎晩のようで佐藤にしてみると、何が楽しいのかがよくわからない。部屋にある時計に目をやり、

「神保達、遅いな。そろそろ帰ってくるはずだが」

「そうですね。道が混んでるんですかね」

 佐藤は今まで聞いたことがなかった如月自身の話を振ってみる。

「如月はお母さまを亡くされたんだよね」

「そうです」

「いくつの時だった?」

「12歳です。中一の時でした」

「12歳か、そうか、それはかわいそうなことをしたな」

 如月がそれまでとは打って変わったきつい表情になる。

「母は殺されたんです」

 佐藤はぎょっとする。そんな話だったのか。

「当時、母は夜の仕事もしていて、近所のスナックで働いていたんですが、店の客同士のけんかを仲裁して、そのあおりを食って殺されました」

「そうなのか・・・」

「殴られたようなんですが、反動で頭を打ったようで、犯人の罪としては非常に軽いものでした。たしか2年の刑期だったと思います」

 佐藤は唖然とする。

「故意ではない、不慮の事故だったということでした。でも私の人生はそれで大きく変わりました」

「施設に入ったんだよな」

「そうです。それからです。私が格闘技をやるようになったのは、強くなりたいと思いました。同時期にいじめもあったんです。私は元々、シングルマザーでクラスの中でも浮いてる存在でした。施設に入ってからいじめがさらにひどくなった。母が死んだのも弱かったせいで私の中にそういったスイッチが入ったんです。実際、今もそのスイッチは切れません」

 スイッチがはいったのか・・・

「そうか、それで格闘技を続けているのか」

「自分でも馬鹿みたいだとは思うんですが、強くなりたいという欲求が自分を支えている気もします」

「もう十分、強いとは思うがね」

 如月が少しだけ笑顔を見せる。

「いえ、まだまだです。階段から突き落とされるようでは、自分が歯がゆいです」

「そういえば、リハビリはもういいのか?」

「大丈夫です。実際、リハビリも必要がない状態だったようです。理学療法士の方もすぐに必要ないっておっしゃってました」

「でもリハビリしてたんだよな」

 ここでいつもの如月の笑顔に戻る。

「実はトレーニングに近いものでした。リハビリメニューも少しやってたんですが、むしろそれ以外の基礎体力をつけるトレーニングをしていました。一応、休暇をもらえたんで」

「なるほど、ああ、これセクハラじゃないぞ。なんか如月の体形が変わったと思ったんだ」

「そうですね。それはセクハラに近いですが、実際、3割から4割筋力が増えてます」

 如月が笑顔で答える。

「それはすごいな」

 強行班に来た頃から、普通ではない体力だったが、確かに今日如月を見たときは言い方は悪いがプロレスラーみたいだと思った。それはほんとにセクハラなので言わない。

 ちょうど、そこに神保達が返ってきた。二宮が今の会話を聞いたのか話す。

「なんすか、係長、セクハラしたんすか?」

「馬鹿、そんなことするか、で、どうだった?」

「断定はできませんが、十中八九、コロシだと思います」神保が答える。

「そうか、先ほどまでご両親と話をしたんだが、思い当たる節がないとのことだった」

「そうですか、自宅も豪華なマンションでした。勤め先にも行ったんですが、外協製薬で高給取りですよ。それからご主人が亡くなったのは飛行機事故だそうです」

「飛行機事故?」

「7年前の那覇空港沖での飛行機事故です」

「ああ、あれか」

 佐藤はようやく事故の真実を知る。

「その慰謝料もあるし、調べる必要はありますが保険金も出たと思います」

「なるほど、そういう意味では資産家だったということか」

「あの事故で助かった人間はいたんですか?」先ほどの話が気になったのか、如月が質問する。それに黒瀬が答える。

「いや、いない。187名全員死亡となっています」

「そうですか」

 情報共有の意味合いで、佐藤が付け加える。

「ご両親との会話の中で、旦那さんが生きていたという噂話を聞いたんだが、そんな話もあったのかな」

「どうですかね。生存者がいたような話は噂にしても私は聞いたことないです」黒瀬が答える。

「そうだよな。飛行機事故の死亡率は高いものな。海に墜落となると絶望的だしな」

「遺体は発見されたんだっけか?」佐藤が質問する。それに黒瀬が答える。

「確かではないですが、全員ではなかったと思います。?NA鑑定もやったと思いますが、結局、わかったのは7割かそのぐらいだったかもしれません」

「そうか」

 その後、しばらくは強行班係内で情報共有をした。


 如月は警察署から帰途についた。制服からトレーニングウェアに着替えて、自宅までは歩いて帰る。ちなみに如月の普段着はジャージなどのトレーニングウェアである。

 いつもは道場でトレーニングをする時間だが、もうこの時間だと店じまいだろう。時刻はすでに9時半になっている。警察署と自宅アパートのほぼ中間点に道場がある。

 如月が通っている道場は地元の子供たちに空手の指導をする目的で設立された個人道場である。道場主は70歳を超えた岩木俊一という人物で、早い話がほとんど道楽でやっている。なのでレッスン料もただみたいに安い。空手と言っても正式なものではなく、昔の琉球唐手の流れを組むものらしい。

 如月は施設出身なので、中学生の頃、お金もなかったが強くなりたい一心で岩木に懇願し、そのころから、ここで指導を受けていた。道場もバトミントンコートほどの広さしかない小さなものだったが、それでも如月はここで強くなった。もちろん体力的な強さもあるが精神的にも鍛えられた。道場はフルコンタクトという直接打撃をおこなう空手指導になるが、現在、如月がやっているのは空手ではなくマーシャルアーツ系のジークンドーというものだ。


 夜道を歩きながら、如月は、ふと、ひょっとすると待っているのではと思った。

 現在、如月が指導を受けているのは岩木ではなく、中田清彦という初老の男性だ。確か50歳ぐらいだと思った。とにかく自分のことを語らない男で、知り合ったのもひょんなことからだった。

 実は如月が階段事故でけがをしたときに知り合ったのが中田だった。如月が階段から落下したときにちょうど下に中田がいて、その後、救急車などの手配や以降の看病までしてくれた人物だった。

 あの日は外回りの仕事で深夜になり、駅から自宅に戻る際に階段、これが幅が狭く、1mもないぐらいだが、高さは10mぐらいある、そこを降りようとした際に突然、後ろから誰かに押された。ただ、如月の反射神経であれば受け身は出来たはずだが、下から上がって来ようとしていた男性がいた。それを避けようとして手すりで左足を強打したため、大腿骨骨折となったのだ。そしてその男性が中田だった。

 中田は自分のせいだと言わんばかりにそれからも如月を看病し続けた。入院中も時間を取ってはお見舞いに来てくれた。そんな中、如月が格闘技に興味があるという話をしたところ、中田も昔かじっていたことを知り、ジークンドーなる武術を指導してくれるまでの仲になった。

 まさかと思いながら、道場の前に来る。やはりすでに店じまいだったが、薄暗い街灯の下に中田はいた。中田は長髪で白髪も交じっている。髭は無精ひげに近いもので度の強い黒縁眼鏡をかけている。その中田がこちらに気が付き、笑顔を見せる。

 如月はかけよって「ヒコさん、待ってたの?」と言った。如月は中田のことをヒコさんと呼んでいる。晴彦の彦をとってヒコさんだ。

「うん、今日は来ないと思ったけど、こっちも暇だから」

「だから、携帯持ちなっていってるじゃん」

「お金がないよ」そう言ってうつむきながら笑う。

 実際、中田はお金がないようで近くの廃品回収工場に住み込みで働いている。50歳を過ぎて大変だとは思うが、仕事がないそうだ。

「どうだ。体調は?」

「うん、平気だよ」

「あんまり無理するなよ」

「大丈夫。ヒコさん、家まで送ってくれるの?」

「ああ、女性の一人歩きは危ないからな」

「私を襲おうなんてやつはいないと思うけど」如月が笑う。

「そんなことないぞ。だって階段から落とされるぐらいだから、また、襲われるかもしれないだろ」

「もう大丈夫だよ。あの時とは違うし」

「まあ、そうか」

 そういいながら如月は中田と歩いて帰る。中田と知り合って半年ぐらいだが、すでに彼に自分の父親像を重ね合わせている。自分に父親がいればこんな感じなのかと思っている。天涯孤独な如月にとって今の中田の存在は大きい。そして多分、中田も自分のことを娘のように思ってくれていると考えていた。

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