肆
早瀬
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「行ってらっしゃい」
三和土に下りてスニーカーに足を入れた時、キッチンの方から小さな声が聞こえた。
手を振ると塵のように粉々になって消えてしまいそうな声だった。
その粉々になった声の欠片を全部吸い込んでから、キッチンへ送り返すように「はい」と答え、玄関の戸を開けて外に出た。
ドアを閉じて長い廊下を歩き出す。エレベーターの前に辿り着くまでいくつの部屋の前を通るのだったか思い出せない。
609、608、607、606……。
ゆっくり歩きながら、通り過ぎる部屋のドアの右上にあるプレートに書かれた部屋番号を数えながら進む。
ゆっくり歩くつもりはなくても、ゆっくりとしか歩けない。
エレベーターの扉はもうすぐそこに見えて来ているのに、永遠に辿り着けないような気がしてくる。もうすぐだと思った瞬間に、廊下が伸びてまた歩き続けなければならなくなるかもしれない。だから、通り過ぎる部屋の番号を数える。
605、604、603、602……。
数字はきちんと順番通りに並んでいて、確かに私は廊下を歩いて進んでいる。
601号室の部屋の前まで来た時、その部屋のドアが少しだけ空いているのに気付いた。
さっき食べたばかりのミカン一個分くらいのサイズの隙間。その奥は真っ暗で何も見えない。そこから微かに風が吹いてきた。微かではあるけれどとても冷たい風だった。
――どうして上着を着て来なかったのだろう。
少し身震いがして一瞬だけ目を離した隙に、601号室のドアは音もなく閉じていた。
引き返して上着を取りに行こうかと思ったけれど、目の前にはもうエレベーターの扉があった。私はこのエレベーターのドアが嫌いだ。クリーム色の塗装の左上の部分が小さく剥がれていて、その剥がれた跡の形が下に向かって這いずっている蛇の姿に見える。
なるべく蛇を視界に入れないよう注意しながらボタンを押す。下向きの矢印が描かれたプラスチックの半透明なボタンは、ベタついた感触を指先に伝えて来てだいぶ気持ちが悪い。
上の階から先に誰かが乗って降りてきている途中だったようで、あと数秒ボタンを押すのが遅れていたら、たぶん一階まで降りた箱が私のいる六階に戻って来るまで待たされるところだった。その間にきっと私はあの蛇に襲われていただろう。
ドアが開くと、箱の中にはサチが乗っていた。
上の階に住んでいる私と同世代の女の子で、特別親しいというわけではないけれど偶然顔を合わせたら少し会話を交わす程度の間柄だ。
「おそよう」
と彼女は言った。お昼に近い時間に出会うといつも口にする挨拶。考えてみたらこの他の時間帯で顔を合わせたことがない。だからサチの挨拶は百パーセント「おそよう」だった。
くいっと少しだけ顔を横に向けてエレベーターの中のパネルに目を向けた時に、サチのネイビーブラックのショートボブが小さく揺れる。私は彼女の小さく揺れる髪が好きだった。大きく揺れる髪はコウモリの翼のように広がってそのまま私を包み込んでどこか遠くへ連れ去ってしまうような気がして嫌いだ。
そう思ったけれど、よく考えたら私の髪は腰に掛かるくらい長くて頭を振るとコウモリの翼のように広がって私自身を包み込む。
私自身も私をどこかに連れ去るんだろうか……?
サチはエレベーター内のパネルに手を伸ばしたまま――たぶん『開く』のボタンを押している――じっと私を見つめていた。それに気付いて慌てて中に入ると、ボタンから指を離して少し後ろに下がった。その動きに合わせて揺れる髪を見つめながら私はエレベーターの中に入った。
二人並んで壁に背を預けると、サキはどこへ行くのかと訊いてきた。
このマンションを出て五分くらい歩いた所に小さな薬局がある。チェーンのドラッグストアみたいに大きな所じゃなく、小さいおじさんが一人でやっているこじんまりした古い薬局だ。確か四十年くらいずっとそこで薬局をやっていると聞いたことがある。
その薬局に行くのだと答えると、サチはあのおじさんほんと小さいよねと言って笑った。どのくらい小さいかと言うと、手の親指と人差し指を目いっぱい広げて伸ばしたくらいのサイズだ。
「小さいおじさんってさ、大宮八幡宮って所が住処だって噂だよ」
「じゃああそこの薬局は?」
「あそこは仕事場でしょ。たぶん営業時間が終わったらその神社に帰って行くんだよ」
二階に差し掛かったところでエレベーターが止まった、
ドアが開くと、人が一人乗ってきた。マスクをしてニット帽を目深に被っているという以外は、他には特徴らしい特徴がない知らない人だった。このマンションの住人かもしれないし、外部の人かもしれない。どっちにしても私はサキ以外にこのマンションで知っている人はいない。
その人はこちらには目もくれず、乗り終えるとすぐ横に移動して顔がくっ付くほどの近さで壁に向かって立った。大人数で乗る時でもない限り、大抵はドアに向かって立つか、そうでなければ私とサキのように壁に背を向けて立つ人が多いと思う。箱の中は十分なスペースもあるのに、なぜ壁に向かって立つのか不思議だった。そもそも入ってきた時の様子を見た限り足腰が悪いわけでもなさそうだし、二階から乗るなら階段で降りた方が早いのにどうしてわざわざエレベーターを使うのだろう。
何となく気味が悪いなと思って隣のサキに目を向けると、彼女は無表情でその人の背中をじっと見ていた。
一階に着いてドアが開くと、その人は先に出て行った。
隣のサキはパネルの前に歩み寄って「開く」のボタンに指を伸ばした。
「あいつだよ、朽葉の部屋のポストに柿を入れたの」
ボタンを押したまま、サキは少し顔をこちらに向けて言った。
「え、嘘?」
一階のエントランスに各部屋のポストが並んでいる。一週間くらい前に、私の部屋のポストの投入口から潰れた柿が入れられていた。熟れ切って力を入れなくても簡単に握り潰せるくらいの状態になった柿が、ポストの中にグチャグチャになって広がっていた。幸い郵便物は届いていなかったけれど、掃除をするのが大変だった。
あの柿を入れた犯人が今出て行った人だとサキは言う。見たことがない人だったし、このマンションの住人なのか部外者なのかも分からない。
「あいつだけじゃないよ、他にも何人かいた」
「誰なの? ここのマンションに住んでる人?」
「あいつはここに住んでる。他の奴らはたぶん他所から来た奴らだと思う」
「やだ……怖いんだけど……」
「怖くないよ、キモいだけ。あいつどうせ弱男のザコだから」
「どういうこと?」
「そろそろ閉めないと迷惑が掛かっちゃう。ほら、もう行った方がいいよ」
私の質問には答えず、サキはエレベーターから降りるよう促す。
言われるままに出ようとすると、目の前にさっとサキの手が伸びてきた。
あげる、と言ってサチは私の手を取り、広げた手のひらの上に丸めた紙クズを落とした。
私がエレベーターを降りると、サチは「それじゃ」とだけ言ってボタンから指を離す。
ドアが閉まると、彼女を乗せたままのエレベーターは上がっていった。
自動ドアを潜りエントランスから外に出ると、もう冬だと言うのに焼け付くような日差しが降り注いで眩暈がしそうになる。
少しよろけながらマンションの入口の横にある青い自販機に寄りかかって、サキから渡された紙クズを広げてみる。それは七夕の短冊のような長方形の白い紙だった。かなりギュッと丸められていたせいで細かな皴まみれになっていたが、それでもはっきりと読める黒い色で横書きに文字が書いてあった。
“彼ら秋の葉のごとく群がり落ち、狂乱した混沌は吼えたけり”
□
どうしてスマホを持ってこなかったのだろう。
サチに言われたり渡された物に書いてあることは、いつもその後ですぐにスマホで検索する。でも今はそれが出来ない。
マンションの敷地を取り囲むベニカナメモチの生垣に沿って歩きながら、私はサキから貰った紙切れに目を落としながらゆっくりと歩を進める。その間にも、ポストに柿を潰して入れたというさっきの人の姿がチラチラと頭の中に浮かぶ。
あの人が誰なのかは知らないし、サキの話が全て本当なら他にも共犯者がいたそうだけどそいつらのこともたぶん知らないだろう。どうせ赤の他人であることには変わりないから、誰であっても構わない。――それは繰り返されることで、ずっと続くものだから。
どこか近くから虎落笛が聞こえてくる。そんなもの珍しくも何ともないし、何ならつい昨日も家の中で耳にしたと思うのに、なぜかとても懐かしい音に思えた。
何日振りか、それとも何週間振りかで感じる外の乾いた空気と冷たい風が私の歩みを遅らせる。次の角を曲がって真っ直ぐ進めばすぐに軒先に置いてある立て看板が見えてくるくらい薬局は近場にあるのに、何だか意味が分からないくらい遠くにあるような錯覚に陥ってくる。
空を見上げると、気怠げな青空が広がっている。活き活きとした青空ならまだ昼時くらいだけど、この元気を失くした気怠さはほとんど夕方の空だ。ついさっきサキと挨拶を交わしたばかりで本当はまだ昼前なのに。
サキと挨拶した昼前、マンションを出た時の焼け付くような日差し、夕方のような青空……本当は今は何時なんだろうか?
ポストの柿、サキの紙切れ、ポストの柿、サキの紙切れ、ポストの柿、サキの紙切れ、ポストの柿、サキの紙切れ、ポストの柿、サキの紙切れ……。
頭の中に色んなものが渦巻いてグラグラする。
立ち止まって、目を閉じて少し落ち着きを取り戻す。再び目を開けてゆっくり顔を上げると、握ったままの右手の拳の中にはまだサキの紙切れがあった。それを仕舞おうと服のポケットに手を入れると、硬い感触に触れた。部屋に置いて来たと思っていたスマホ。いつ入れたのか全く覚えていなかったけれど、少し安心した。
調べなきゃと思い、紙切れの文章を検索しようと画面をタッチすると、ロック画面に通知のメッセージが表示されていた。タップして表示すると、最近SNSでちょくちょくやり取りしている人からのDM(ダイレクトメッセージ)だった。
≪恋愛小説を書こうと思っていたんだけど長い話になりそうだから、やっぱり何か別の物をと考えたらこんなのが出来ちゃったよ≫
Ayesha(アイシャと読むらしい)と名乗っている人で、メッセージの最初に表示されているアカウントのアイコンは西洋らしき外国人のお爺さんの写真だった。白髪で豊かな口髭を生やした優しそうな顔つきで、柔和な笑みを浮かべている。知り合ったばかりの頃にこれはあなたのお爺さんの写真かと訊いたら、全然違うけれど自分にとって特別な存在なのだと教えてくれた。
SNSでいつの間にかやり取りするようになっただけでリアルの友達ではないけれど、たまにDMで雑談をする関係。私には全然分からないような小難しい話をするかと思えば、突然砕けた口調でふざけた冗談話をしてきたりする変な奴だけど、それはそれで私も結構楽しんでいる。別に実際に外で会ってみたいとは思わない。向こうもその気は全然なさそうなので気軽な付き合いだし、本当にただのトーク友達みたいな人だ。
≪こんなのって?≫
歩きながらそうメッセージを返すと、少し間を置いてから返事が来た。
≪いやまあ、出来たら読ませるよ≫
≪何それ笑 出来ちゃったって言うからもう完成してるんじゃないの?≫
≪まだ途中なんだけど、最初に考えてたのとは全く別物になってきたなあと思ってね≫
≪最初のちょっとだけでいいから読ませて≫
≪それもなあ……どうなんだろうなあ……≫
何がどうなのか全然分からないけれど、読ませてくれたら私の顔写真を送ると冗談で言った。すぐに≪そんなもんいらんw≫と返ってきたけれど、その後に続けてDMが届いた。
≪じゃあ最初の一行の前半だけ送るわ≫
≪期待してる≫
≪ハードル上げんなw≫
と返って来てから、少し間を置いてから短い文章が届いた。
≪彼ら秋の葉のごとく群がり落ち、狂乱した混沌は吼えたけり≫
――それだけが書いてあった。
それを見てハッとした私は、ポケットに突っ込んだサキから貰った紙切れを取り出した。
途中までだけど、全く同じ文章だ。なぜこの二人は同じ文章を書いているんだろう。
アイシャに返事を送る前に、その文章を検索した。
検索結果には同じ文章が大量に出てきた。有名な文章らしい。
私の知らない外国の人が書いた作品の中に出てくる文章ということは分かった。
≪有名な作品の文章みたいだけどこれ丸パクリじゃない?≫
とアイシャにメッセージを送った。すぐに返事は来ない。
このやり取りをしている間に立ち止まったり歩いたりを繰り返していたけど、ふと顔を上げると三四十メートルくらい向こうに薬局の立て看板が見えてきた。大した距離ではない筈なのに遠く感じると思っていたけれど、やっぱり大した距離ではなかったのだ。
このメッセージのやり取りを終えてから薬局に入ろうと思い、ゆっくりと歩を進める。それでも返事はなかなか届かず、遂には店の前に辿り付いてしまった。真上を見上げると、何十年も掛けて雨風や埃に晒されて汚れた、青と白の縞模様の庇の裏側に蜘蛛の巣が張られているのが見えた。その端の方では、一仕事を終えて休んでいる小さな蜘蛛の姿があった。
ぼんやりとその蜘蛛を眺めていたら、スリープ状態で真っ暗になっていたスマホの画面に通知が表示された。
≪スマホ、持って来てるのに気付いて良かったね≫
届いたメッセージはそれだけだった。
私のメッセージに対する返事はスルーされたけれど、何だかどうでも良くなった。ただ、嫌な日差しや寒さやポストの柿や……色んなことで滅入ってしまい、ずっと薬局に辿り着くことが出来ないような気がしていた暗い気持ちがこれまでのDMのやり取りで安らいだのは事実だ。
スマホをポケットにしまい、薬局のガラスドアを開けて中に入ると、独特の匂いが鼻をくすぐる。入口近くの棚に置いてある中年のおじさん向けらしいコロンのテスターから漏れてくる匂いだ。こういうのはもっと店の奥にある棚にでも置けばいいのに、入ってきた人全員にこのコロンの匂いを嗅がせて買わせようとしているのだろうか。私は中年でもおじさんでもないから全然興味がないし、そもそも正直好きな匂いじゃない。もっと正直に言うと不快だ。
匂いから逃げるように、私は少し早足で右側にある目薬のコーナーに向かった。
この薬局には幼稚園の頃にお母さんに連れられて何度も来たことがあるけれど、絆創膏とか歯ブラシとか風邪薬とかシャンプーとかを買うついでにいつもお母さんは必ずレジでおじさんと世間話をするので、その話が終わるまで待つのが苦痛だった。
小さいおじさんはいつものように入口のすぐ左側にあるレジカウンターの上に立ってよく分からない何かの紙の束を一枚ずつチェックしては横にあるケースに入れて整理する作業をしていた。サキの言う通りなら薬局での仕事が終わると、おじさんは神社に帰るのだろうか。本当にそうなら店が閉まった後に後を尾けてみたい気がする。でもこの小ささだと徒歩で帰るにはかなり時間が掛かってしまうんじゃないだろうか?
そんなことを思いながら、棚に並んでいる沢山の目薬の中から、いつも買っている物を手に取ってレジに向かう。私が近付いて来るのに気付いて、おじさんは持っていた書類を横に置いた。私が目薬をカウンターの上に置くと、おじさんは「いらっしゃい」と言ってから小首を傾げた。
「あれ、一昨日もこの目薬買って行かなかった?」
小さいわりに渋くて低い声が私のお父さんに似ている。そのせいか、お母さんに連れられてここへ来ていた頃は二人の雑談が弾んでいると、いつかこのおじさんは私とお父さんからお母さんを取るんじゃないかと思ったことがある。……まあその方が良かったけど。
「えと、それは……」
ここで選択肢が浮かぶ。
A 予備の買い置きです
B そうですけど何か?
C 別に意味はないです
D 黙っている
Cではある。でもAを選んだ。
なるほどと言っておじさんはそれ以上何も訊いて来なかった。値段を告げられ、財布からお金を出して支払い、お釣りを受け取る。一昨日と同じ。
目薬を小さな紙袋に入れて私に渡すと、おじさんはありがとうと言ってまた隣に置いた書類を手に取った。両面に文字が印刷されていて、おじさんが手に取ってこちら側に向けたページの文字が見えた。一部分しか読めなかったけれど、そこには『何もするな。何も言うな。何人にもなるな』と書いてあった。
私がまじまじと見ていてもおじさんは気にした風もなく、じっと自分が見ている側のページを食い入るように読み続けていた。
ポケットの外側に触れている腕に、スマホの振動が伝わってきた。中に手を入れてスマホを取り出しながら薬局の外に出た。
画面にはアイシャから届いたDMの通知が表示されていた。
≪元々書こうと思っていた小説が違う方向に変わったのは朽葉とDMでやり取りするようになってからなんだ。だから完成したら最初に読んでもらおうと思ってる≫
風の強さは変わらないけれど、外の空気はさっきよりも冷たい。蜘蛛が休んでいる庇の下から出て空を見上げると、口に含んだガムを引っ張ったような細長い雲が恐ろしい勢いで流れていた。ちょうど時間は真昼頃の筈なのに、さっきよりももっとずっと夕暮れ時を感じる物寂しさが漂っていた。
≪小説を書いてるって言うけど、私は小説を書くための材料? 何か上から見られてるような気がして気分悪い≫
それだけ返すと、スマホをポケットに突っ込んで早足で歩き出した。
ついさっきまでのやり取りとは正反対だ。この人とDMをやり取りしていると今は気分が悪くなってくる。
早足でも耐えきれず、元来た道を走って急いでマンションへ戻る。
馬鹿みたいだ。行きはあんなに薬局までが遠いような気がしていたのに、少し走っただけですぐに曲がり角に差し掛かり、ベニカナメモチの生垣の横を通ってマンションの前に着く。散歩にもならないくらいの近所。これが本当の距離感だった。
エントランスに入って正面のエレベーターを見ると、ドアが開いていた。タイミングが良いと思い急ぎ足で近付こうとすると、突然横から何かがぶつかってきた。私の肩に当たって落ちたそれは、柿だった。熟してぐちゃぐちゃになっている。私の右の肩から腕、脇腹、腰、足、スニーカーに至るまで、爆発した柿の汁や焦げ茶色の実がこびり付いた。
柿が飛んできた方を見ても誰もいなかった。誰もいないのになぜ柿が飛んでくるのか。
「朽葉、早く乗って」
エレベーターの中から声が聞こえてきた。中のパネルがある側から、サキが顔を出してこちらに呼び掛けていた。落ち着いた声だけど、少し緊迫感のある言い方だった。
このまま立っているとまた何かが飛んでくる気がして、急いでエレベーターに飛び乗った。
ドアが閉じると同時にサキは六階のボタンを押すと、すぐにハンカチを取り出して私の体を拭いてくれた。表面に付いた分は拭き取れたけれど、あちこちに付いた大小の染みはクリーニングに出しても落ちるかどうか分からないくらいだった。
「さっきエレベーターで乗り合わせて来た人……?」
サキが言ったようにあの人がポストに柿を入れたのだとしたら、いま柿を投げ付けてきたのも同じ人だと考えるのが自然だと思う。
「あんな奴はそこらじゅうにいるよ」
吐き捨てるように呟くと、サキは体ごとこちらを向いて、私の目を正面から見て言った。
「――それを分かってて外に出たんでしょ?」
無感情で機械のように抑揚のない口調、吸い込まれるような薄茶色の瞳。ネイビーブラックの髪が微かに揺れている。
「姿を晒しては絶対に出来ないようなことを四六時中脳内麻薬とヨダレを出しながら憑りつかれたように粘着して繰り返しやってくる奴らも、それを面白がってよく知りもしないのにお祭り気分で便乗する奴らもみんな餓鬼なんだよ」
「ガキ?」
「たぶん朽葉がイメージしてるのは子供のガキ。そのガキじゃなくて、餓えた鬼の餓鬼」
ポストに柿を入れた人、その周りに集まっていた人達。
アイシャもそうなんだろうか? 薬局のおじさんは?
――サキは?
「さっき貰った紙に書いてあるのって、あれどういう意味?」
「彼ら秋の葉のごとく群がり落ち、狂乱した混沌は吼えたけり。批判を避けるには一つの方法しかない。何もするな。何も言うな。何人にもなるな。明識がなければ、よい意志も悪意と同じほどの多くの被害を与えることもあり得る。冬枯れの森の朽葉の霜の上に落ちたる月の影の寒けさ」
支離滅裂に喋り続けるロボットのように言ってから、サキは小さく溜息を付いた。
「私はいつか誰かが言った言葉をそっくりそのまま吐き出すだけ。……怪物と戦う時は自らも怪物にならぬよう心せよ、とか」
初めて出会った時からずっとそうだったのだろうか。
サキとはエレベーターの中でしか会ったことがない。エレベーターに乗り降りしているところを見たことがない。
――初めて会ったのはいつだっただろうか?
「……私は怪物になりそう?」
色々と訊きたいことはあるのに、いつも面と向かって話すとそんなことはどうでもいいように思えて来て別の話をする。その場で出た話のことしかいつも訊かない。
すっと、サキが私の顔に手を伸ばしてきた。そのまま人差し指を横に向けて、瞼の下の辺りを優しく撫でる。少し遠ざかったサキの人差し指は濡れていた。
「朽葉は大丈夫だよ」
エレベーターが止まり、ドアが開く。
「ありがとう」
外に出る私をサキは何も言わずに見送る。そしてドアが閉じると、彼女を乗せた箱はゆっくりと上がって行った。
小さく息を吐いて、見慣れた廊下を歩き出す。
すぐ目の前にある601号室のドアを見ると少しだけ開いていた。行きと違ってこちら側からでは空いている隙間が見えない。その隙間から流れてきた微かな冷たい風が今も出ているのかは分からない。ドアの目の前まで来ると、パタンと静かな音を立てて閉じた。
602、603、604……。
出かける時と逆の順番で部屋番号のプレートを見ながらゆっくりと歩く。
605、606、607……。
610号室の前で止まり、ドアを開ける。
靴を脱いで暗いフローリングの廊下を進み、キッチンに入るガラス戸を開ける。
一歩中に入ると、すぐ横にある調理台の所から声がした。
「買買っってて来来たた??」
録音した音声を何重にも重ねるオーバー・ダビングのような声。何十回どころか、何百回も重ねたような声は鮮明さが薄れてはっきりとは聞き取れない。
声だけじゃない。目の前に立っているその姿はたった一人の筈なのに、何重にも重なってブレた映像のように見える。
目を細めて、その中心にある沢山にブレた目のうち、なるべく真ん中にあるたぶん本物の両目をじっと見つめる。次第にブレは収まって来て、ひとつにまとまった。
はっきりと形を成してまとまった映像に合わせて、同じようにひとつにまとまった声が言う。
「行ってらっしゃい」
――あなたは、誰?
肆 早瀬 @mogetan
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