21.甘やかされています、どうしよう


「ただいまー」


 買い物から帰ってきて、両手に袋を抱えた状態で俺は玄関をくぐる。


「ハルくん、おかえりなさい」


 パタパタと足音を立てて、ユキナから今からやってきた。


 彼女は俺を迎えるとふんわりと笑みを浮かべる。


「買い物ありがとうございました。お荷物重かったでしょ?」


「大丈夫だよ。こう見えて鍛えてるからな」


 力こぶを作るような真似をしながらそう告げる俺を見て、ユキナはクスリと笑う。


「それでもありがとうございました。はい──」


 言ってユキナが腕を広げる。それを見て、俺は怪訝に眉をひそめた。


「??? えっと、どうしたんだ、ユキナ?」


「なにって、抱擁ですよ?」


 ユキナは、さも当然のことのように言う。


 小首をかしげる彼女の真ん丸な瞳に、俺は本気で意味が分からず目を瞬かせた。


 明らかに、俺とユキナで何かのすれ違いが生じていたが、それにユキナは気づいた様子はなく、代わりに不思議そうに俺を見やりながら目をぱちくりとさせて、


「それとも、口付けの方がよかったですか?」


 と、告げてユキナは自分の唇を指で撫でる。


「い、いや。それはさすがにだな……⁉」


 思わずせき込んでしまいながら、俺はユキナへ振り返る。そんな俺を見て、ユキナはやはり不思議そうな表情を浮かべていた。


「私達は婚約者なんですから、口付けぐらいは良いと思いますよ? まあ、ハルくんが嫌だったら口付けも抱擁もしませんけど……」


 ユキナはそう告げつつも、シュンッと肩を落とす。


 そんな姿を見せられて、断れるほど俺は冷血漢ではないのだ。


「……まあ、抱擁ぐらいなら……」


「───!」


 渋々、ではあるが、俺が認める発言をしたら途端に嬉しそうな表情をしだすユキナ。


 仕方ないので、俺は一度買い物袋を床に置き、両手を広げた。


 そこへユキナが飛び込んでくる。


「はい、ぎゅー、です」


「お、おおう」


 全身に感じる少女特有の柔らかな感触。


 男の本能としてそれにドギマギしながらも、俺はユキナの体をゆるく抱きしめる。


「えへへ」


 ユキナはユキナで、俺に抱き着いた姿勢のまま、顔をこちらの胸元に押し付けてきた。


 頬を緩めるその姿に、俺は苦笑するしかない。





     ☆





 俺とユキナの関係は、あの夜から大きく変わった。


 全体的には、ユキナの俺に対する態度が……こう、非常に甘ったるくなったのだ。


 これまではソファガベルに座るときも、拳一つ二つ分は距離が開いていたのに、最近はそれすらも消失して、ほとんど密着しているかのような距離で座ってくることも多い。


 とはいえ、距離感が変わったこと以外で、俺達の日常に何か変化があったかと言うとそうでもなく──まあ、日常はおしなべて平穏にすぎている、といったところか。


「ハルくん。隣で勉強してもよろしいですか?」


 夕食後。


 居間のソファガベルに座っている俺の横へユキナがそんな問いかけをしながら近づいてきた。


「ん? ああ、構わないよ」


「では、失礼させていただきますね」


 言いながらユキナが机の上に教科書や参考書、帳面に文房具といった勉強に必要な道具を広げていく。どうやら第二魔導高専の授業で必要なことを勉強しようとしているらしい。


「……許可しといてあれだけど、俺が隣にいて勉強ってやりにくくないか?」


 まじまじとユキナを見やりながら、俺はそう疑問を口にする。


 一方のユキナは、そんな俺の言葉を聞いてもキョトンと不思議そうな表情をして、


「いえ、別にそう感じませんが……隣に人がいてくれた方がなんか安心します」


 言って微笑むユキナ。


 その柔らかな表情がこれまた俺の心臓に悪いので、俺は思わず視線をそらしてしまった。


「そ、そっか。ならいいんだけど……」


 ごほん、と咳払いして自分の反応を誤魔化しつつ、俺はユキナの方を見やる。


 彼女がしている勉強は基本的に魔法関連のものが中心だ。


 それへ真剣に取り組む彼女を見やって俺は思わず感心してしまった。


「……本当にユキナって勉強頑張っていて偉いよなあ」


「そうでしょうか?」


 俺としては、半ば独り言のつもりで自然とこぼれ落ちた言葉だったのだが、ほとんど密着状態だったユキナには聞こえたらしい。


 一度書き物の手を止めてこちらを見やってくるユキナがそう疑問してきたので、俺は「邪魔してごめん」と謝るが、ユキナは微笑を浮かべて「お気になさらず、と答えた。


「そこまですごいことではありませんよ。学生だったら当然のことをしているだけです」


「だとしても、すごいだろ……っていうか、それを言われると、婚約者が隣で勉学に励んでいる中、ぼけーっとしている俺なんて情けないを通り越して、侮蔑の対象だろう」


 自虐気味に、そう告げる俺へ、ユキナは慌てて「そ、そういうことではなくっ!」と言い、


「わ、私はただ、努力するのは日々の日課だから当然と言いたいわけでして……! その決してハルくんを貶めたいとかそういうことでは……!」


 慌てふためくユキナに、俺は「冗談だ」と告げる。


 その上で俺は心底からの感心を込めた眼差しを彼女へ向ける。


「まあ、でもユキナって本当にすごいと思っているよ。なんだかんだと毎日勉強している姿を見ているし……そういう風に努力するのは何か目標でもあるのか?」


 人間、簡単には努力なんてできない。そういうのができるのは、たいてい何かしら強い目標がある奴だけだ。だから聞いた俺に、ユキナはそのあごに指をあてて考え込む仕草をして、


「そう、ですね。目標というと大袈裟になりますけど……目指している人はいます」


「目指している人?」


 疑問に首を傾げながら俺は、ユキナを見た。


 ユキナはそんな俺の視線を受けて、はい、とあごを上下させる。


「以前、ハルくんにも言ったと思いますけど、私は憧れている人がいるんです」


「ああ、そういえば言ってたな前にそんなこと」


 この家に引っ越してきたばかりの時、俺が好きな人がいるんだったら言ってくれ、と聞いた時に、ユキナがそのようなことを言っていたような気がする。


「私が、こうやって勉強などをするのは、もしまたその方にお会いできた時に、その人に恥ずかしくない自分でありたいためなんです」


「へえ、なるほどなあ……ちなみにその人の誰かなのかとか聞いてもいい? ああ、もちろん答えにくいのだったら、答えなくていいけど」


 俺としては完全に興味本位で聞いたその問いかけに、微笑して首を横に振るユキナ。


「構いませんよ。それぐらいならば──」


 その上で、ユキナは一度手に握っていた文房具を机の上に置き、体ごと俺に振り返る。


 真剣な眼差しを浮かべて、彼女が告げたのは、次のような名前だった。


「私が憧れている方の名は──猟兵レルゲン〝雷霆〟のさんです」


 ……そこで、思いっきりせき込んでしまった俺は、決して悪くない。










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