第2章 大和守(やまとのかみ) その1

場所は変わって、清原邸での兄妹のやり取りである。


「それが二藍の狩衣と何の関係がありますの」


「それは良く分からぬのだが、大和守からこの服装で救援を待っていろ、というお達しなのだ」


「ということは、襲撃は今日と言うことですか?」


「そうだ、だからこそ早馬での伝令があったのだ。

淡路守(頼親)のやり方は少々荒っぽいということだから、お前もそれなりに覚悟して置いてくれよ」


「荒っぽいも何も、頼親様は何が上手いかって、殺しですからね。後で荒っぽかった、と文句も言えませんわ」


そんな受け答えに清原致信は少し安心した。


いくら気が強いとは言え女のことだから、殺し屋集団が向かってきていると伝えたら取り乱すのではないかと心配していたのだ。


「私は私で自分のことは何とかしますから、兄上の方こそ殺されないようにしませんと。いっそ、屋敷から逃げ出してしまったら?」


清少納言の忠告を清原致信は言下に否定する。


「それは良い方法ではないな。

逃げられたと知れば、淡路守は追っ手を放つであろうし、こちらはこちらでいつまでも身の安全を気にしながら過ごしていかなくてはならなくなる。

だからと言って淡路守を返り討ちにでもしようものなら、源氏の一族から復讐に狙われてしまい、却って身の危険が増すだけだ」


「それで二藍の狩衣と言うわけですのね」


「はて?」


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そもそもの発端は保昌が大和守に就任するよりも以前、先立つこと七年前の寛弘3年(1006年)に源頼親自身が大和守に着任したことであっただろうか。


多田守とまで呼ばれた父・源満仲が遺した領地に関しては、長男の頼光が本拠の摂津多田の所領を相続することになり、次男・頼親には大和、三男・頼信には河内が遺された。


多田の所領は広大かつ盤石であったし、領地拡大の余地も十二分にあった。

例え競合する相手がいても、頼光とその嫡男・頼国で十分に対処できるはずである。

それに対して河内の領地は少なかったが、英傑と名高い頼信やその息子・頼家は既に坂東や東北といった新天地にその野心を向けていた。

坂東や蝦夷地(えぞち=まだ朝廷に服属しきっていない東北の地を称した)で武力衝突でも起ころうものならば、頼信にはむしろありがたいくらいの話だろう。

ところが大和の場合はまた勝手が違っていた。


長く奈良の都があった地であり、寺社勢力が根強い土地柄である。領地を拡げようとすれば、すぐに寺社や古豪と競合することになる。

寺社との武力紛争ともなれば、寺社の抱える僧兵が出張ってくる。

僧兵は言わば職業軍人であるから腕自慢や手練れも多く、つまりは強兵なのである。


まともに衝突すれば被害が大きくなりかねず、そのせいで傭兵には僧兵と戦うのを嫌がる者が多いし、頼親の郎党でも敬遠する者がいる。


頼親にすれば「兄弟の中で自分ばかりが貧乏くじを」という不平不満はあったが、手をこまねいているわけにもいかない。

寛弘3年の大和守就任は、頼親からすればいよいよ本腰を入れて権益を拡大し、広大な領地を獲得する機会到来と捉えたいものであった。


中でも頼親の就任前から葛城の豪族・当麻為頼(とうまのためより)と興福寺の土地争いが表面化しており、そこに頼親の好機が転がっていそうなものだった。


頼親は大和守に就任早々に当麻為頼と密かに面談の機会を設ける。


隠密での訪問であったが当麻為頼の家はなかなか立派な屋敷であり、小作人も多く抱えているようだった。


「なかなか羽振りが良い。どこかの寺と縁が深いのか」と頼親が問うと、当麻為頼が残念そうに答えるには「先祖は当麻寺と誼があったとも伝えられていますが、現在の拙家はまったく関係ございません。まして私自身は分家筋に当たりますから、荒れ地を開墾しましても何のかんのと理由を付けられて本家にかっさらわれたことも一度や二度ではございません。それどころか関係ないはずの寺や神社までが難癖を付けてくることまで度々で、この度の争いもその一例でございます。

この地を豊かな農地に変えようとしても、いろいろなしがらみが多すぎて思うように進まないのです」


分家の悲哀と寺社勢力の業突く張りさ加減は頼親にもよく理解できるところであった。

まさに当麻為頼が開墾したと主張する土地と、興福寺が領有を主張する農地とで係争中だったが、当麻為頼は裁定なんか待っておれぬと、開墾地の灌漑を始めてしまい、それによって抗争が激化していた。


この時の頼親と当麻為頼の話し合いの内容は詳らかではないが、過激な手段に対するお墨付きを与えたようなものであった。


当麻為頼は自分の家屋敷の中から家財道具を運び出すと、先祖伝来の家に火を放った。

それを「興福寺側から火付けをされた」と喧伝したのである。


六月には大和守(源頼親)が興福寺側の乱行を朝廷に報告し、朝廷の藤原道長がこれを追認した。

以後、朝廷の命令で内裏から興福寺人脈が追放され、その上で犯人の差し出しまでが命じられ、長く争いが続くことになる。


守勢に立たされた興福寺などの寺社勢力に対して、源氏という後ろ盾を得た当麻為頼は攻勢を続けていく。

境界争いや水源争いでも積極的に武力介入を繰り返す。

それまでの我慢の反動なのか、為頼は荒っぽい手段を辞さない。

寺社の施設への火付けや襲撃を果敢に繰り返し、獲得し損なった土地も取り返していく。


頼親からすれば、為頼のおかげで大和でも所領獲得と勢力拡大が進捗していくのだから、上機嫌にならない訳がない。


寛弘六年三月で大和守の任期が終わるが、既に大和の中に大きな影響力と勢力を有するようになっていた。

寺社勢力との争いでも一目置かれ、俄然有利な立場となったのだ。


そこへ悪い知らせが届けられる。


叔父・平井保昌の大和守就任である。


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長和2年(1013年)、平井保昌が大和守になってから日数が経った頃、源頼親は大和の国府に呼び出された。


一室に通された頼親が待っていると、前触れもなく保昌が一人で飄々と入ってくる。


「よぉ、達者そうじゃないの」と保昌は軽い調子で声をかけた。


この時の平井保昌が五十六歳、甥の頼親は四十八歳である。

叔父と甥にしては年が近く、従兄弟と言った方が感覚的には近い。


それでも殊勝に頼親は頭を下げて「叔父上様に置かれましては大和守就任おめでとうございます」と慇懃なくらいに丁寧に口上を述べた。


「そんな堅苦しい挨拶はいいよ」と保昌は面倒くさそうに答える。

「おれが呼び出した理由は賢いお前のことだ、見当が付いているんだろ?」


保昌は頼親・頼信の兄弟とは同じ摂津の屋敷で暮らした仲だが、ウマが合ったのは弟の頼信の方だった。


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