第8話
その図書館は生涯学習プラザという建物の中にあり、いわゆる図書館という全般的に堅苦しい場所ではなく、まるでブックカフェのような造りをしていた。
本当のカフェのようなオシャレなテーブルと椅子がいくつも置いてあり、カフェでくつろぐようにゆっくりと本が読めた。
丸い柱の周りも書架になっていて、図書館員のおススメの本がぐるりと並べられていた。
そこには子供用の本から精神医学の本まで様々なおススメ本が、本屋さんの棚のように表紙が目立つように並べられていた。
僕と美笛が初めてここに来たのは、夏休みの読書感想文を書くための本を借りるためだった。とても暑い日で、図書館の中の冷房で汗が引っ込んだ。
しーんという深海のような沈黙の音が聞こえる図書館で、2人で本を探していると、互いの鼓動が聞こえるようだった。僕らはまるで探検家のように本の海を同じ小舟に乗って漂っていた。
「その上の棚の本、取ってくれない?」
美笛が言った。その本は小柄な美笛の手の届かない所にあった。
「なんて本?」
「僕はイエローでホワイトでちょっとブルーってやつ」
僕はその本を棚から取って、美笛に渡した。
美笛はその本のページを開いてパラパラと中身を見た。
「これにする」と美笛は言った。即決だった。
僕は何にしようか迷っていた。いろんなジャンルの本があり、迷宮の中の扉をいろいろと開くように、本を開いては少し読み、それを棚に戻した。
ひとつだけ決めていたのは、こんな機会がなければ読まない本にしようということだった。
僕はサリンジャーのライ麦畑でつかまえて、か、ダニエル•キイスのアルジャーノンに花束を、にしようと思った。どちらも古典的名作だ。
もう探検を終えた美笛と、どちらの宝がいいかで迷ってる僕はテーブル席に座り、美笛に両方の本を見せて「どっちがいいかな」と聞いた。
美笛は少し考えた後、「アルジャーノンかな。感動出来る話みたいだし」と言った。
僕はその言葉で即探検を終えた。アルジャーノンに花束を、だ。
そしてその夏、実際にその本を読んでかなりの感動を受けた。
発達障害の主人公が脳の手術を受けて、段々と天才的な頭脳になっていき、頂点に達するとそれから徐々に元に戻っていってしまう。
最初はひらがなばかりの文章が、途中で難しい漢字の混じる文体になり、それがまた段々とひらがなばかりに戻っていく。
その描き方がとても心に響いた。最後の方は僕にしては珍しく泣いてしまったほどだ。
あの夏の日に美笛が本を即決してくれたテーブル席に座って、僕は彼女が来るのを待っていた。
扉を開けて美笛が歩いて来るのが見えた。僕はどんな表情をしてればいいか。見えない鏡に顔を映してみる。
怒ってる顔、とまどってる顔、それとも笑顔。僕は鏡の中に写った笑顔を選んだ。だって美笛は何も悪いことはしていないのだから。
「ごめん、待った?」
「ううん、そんなことないよ。でもどうしたの急に」
「昨日のインスタライブ観たよね」
「うん」
「どう思った?」
「どうって?」
「私と莉緒ちゃんが一緒にいたこと」
僕は笑顔からとまどった顔にシフトしてしまったのが自分でもわかった。
「莉緒から聞いたよ。インスタのフォローしてくれてて、コメントくれたからフォロー返しして、それからDMで盛り上がって友達になったって」
「うん。でも亜土くんのインスタから、勝手にたどって莉緒ちゃんと友達になったから、怒ってるかなと思って」
「怒ってはないよ、でもとまどってる」
「どうして、とまどうの?」
美笛はまっすぐ僕の目を見つめて言った。僕はその視線を受け止めきれずにそらしてしまった。引け目を感じてるのは、美笛のことをみんなに隠してる自分だった。
「だ、だって、なんか急展開だから」
「亜土くんは莉緒ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「ただの幼なじみだよ」それは本当だった。
「違うよ、全然違うよ、すごく大事に思ってるよ、絶対」
「なんでそう思うの?」
「私のこと隠してない?」
「えっ」美笛にはわかっていたのだ。
「亜土くんは私のこと、周りの人に隠してる。莉緒ちゃんも私のこと知らなかったし。
亜土くんの周りの友達も、誰も私のこと知らないんじゃない?
亜土くんが言わないでいるからでしょ。どうして私と付き合ってること隠すの? その理由は何?」
「別に隠してるわけじゃなくて、仲間に言う機会がなかったから」
「絶対に嘘。莉緒ちゃんが大事だからでしょ。莉緒ちゃんの病気のことも、莉緒ちゃんのお父さんから聞いた。心臓の手術をしたことや、病院に定期検診に行ってることも。
だから亜土くんも、周りの仲間も莉緒ちゃんのこと気にかけてる。とても。
それなのに、亜土くんが別に彼女を作ったら、今の莉緒ちゃんを取り巻く世界が保てなくなる。
みんな亜土くんに反感持つと思う。病気の莉緒ちゃんの気持ちを知ってて、私と付き合ってることを。
だから亜土くんは誰にも私のことを話してない。違う?」
反論のしようがなかった。さすがお互いの思ってることがすぐわかる僕らだ。なんだかんだ言い訳しようが、今、美笛が言ったことすべてなのだ。
そして美笛は言った。
「亜土くん、私のことをどう思ってる?」
「えっ」
「ちゃんと彼女だと思ってくれてる?」
美笛の端正な顔立ちで、睨まれるようにそう言われてしまうと、僕は「うん」としか言えなかった。
「付き合ってるのに、正式な彼女なのに、誰にも言わずに、こそこそ隠れるように会ってるっておかしくない?」
「そんなことないよ、隠れるようになんて会ってない」
「嘘、なんかいつも周りを気にしてる。知ってる人に会わないように、神経を遣ってる。自分でわからない?」
美笛はそんな風に感じていたんだ。確かに同じ中学の奴が来なさそうな所を選んで、会っていたのは確かだ。
「もう、そういうのが嫌なの。今すぐじゃなくていい。でも私のことを彼女だとみんなに紹介して。
付き合ってる彼女だとちゃんと言って。このままだと私、つらいよ。つらすぎるよ」
僕は今にも泣き出しそうな美笛の顔を見ていた。
「私のことを好きだと、みんなの前で言って」
今までこらえていた涙がこぼれ出した。
その涙は頬を伝い、テーブルの上に落ちた。
「うん、わかった。美笛は自分の彼女だとみんなに言う。約束するから」
美笛はしゃくりあげながら、
「今じゃなくていい。莉緒ちゃんの病気のこともあるから。ショックを受けたら私もつらいし。
でもいつか、必ず言って。
私のことを彼女だって、亜土くんの彼女だって」
「うん、約束する」
「だからそれまで、亜土くんたちの仲間でいさせて。莉緒ちゃんの友達でいることを許して。お願い」
「うん、わかった」
僕は美笛にキスをした。もう誰が見ていても構わなかった。
堂々と顔を上げて、美笛の唇にキスをした。美笛の涙が僕の頬を伝って落ちた。小さな妖精が葉についた水滴をこぼしたように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます