6. 眠り

 若い頃の男は多くの戦場を駆け抜けていた。小銃を手に、騒音と粉塵ふんじんに塗れた前線を。視界の端では瓦礫がれきが飛び散り、人がつんのめったり吹き飛んだりしては、動かなくなっていく。間近で口を開ける死の気配が、男をり減らしていく。


 ――じゃ、また後で会おう。


 途切れたいつも通りの会話が、二度と再開しなくなる。それもいつも通りになっていった。

 実践を経て生き残った男の胸には、勲章が増えた。同期同僚といった横並びの人間が減った代わりに、後続や部下が増えていく。その数もやがては減っていく。男は変わらず取り残され、命が露と消えていくのを、目の当たりにするばかり。


 ――ご一緒できて光栄でした、隊長。

 ――隊長、どうかご無事で。

 ――貴方は、こんなところで死んでいい人ではないのです、貴方を失うわけにはいきません。


 笑った花は次々散っていく。


 ――お前が生きてくれれば、後続の将来も安心して見守れるってもんだ。


 ずっと隣にいたはずの木も枯れ、倒れていく。


 男の眼前には荒野が広がり、いつしか冬に閉ざされて凍原となった。残された男は、冷え切った体を引きずって、ただ足跡を刻み続けるばかりだった。






「自分が死んだら、散った人々の記憶も失われてしまいます。それがどうしても……どうしても、受け入れられなかった」


 麗らかな温室の中に、男の声が降り積もっていく。とうの昔に色も失った声だが、重みだけは変わらず残っている。


「死ぬべきではなかった人など数多いた中で生き残り、生き延びた以上、忘れずにいることが私の使命と信じていました。彼らが見た夢を実現するために動くべきだとも思っていました。それだけが生き甲斐でしたので、戦争が終わった後は何をすればいいか、分からくなったんです」

「何も思いつかなかったの?」


 相槌代わりの問いかけに無邪気さはない。魔女は答えなど分かり切っている。男も察しながら、「ええ、本当に何も」とせた声で返した。


「功績を評価されて、昇進の話もありましたが、仕事が手に付かなくなっていまして。辞めようにも引き留められ続けて、結局黙って……」


 それ以上、男が口にすることはなかった。言わずともその先は明白。魔女も口にしない。


「……私は長らく、眠りに就きたかったんです。戦地にて瞑目めいもくした仲間たちと、同じように」


 沈黙の後、懺悔ざんげのような言葉が零れ落ちていく。吐露した男の横顔は、苦痛に耐えるように目を閉じ、歪んでいた。朗らかな温室の中で、晴れない陰翳を抱いてたたずむ首はしかし、言いようのない美しさも湛えている。


「終わりたかったのね、あなた」


 りん、と。魔女の声が男の耳を掠めて落ちていく。晩春に先駆けて落ちる、花のような声だった。


「はい。魔女殿のお話を聞いた限り、しっかり終わってしまえたようですので、不満はないのですが」


 渋面に笑みを浮かべつつも、男の歯切れは悪い。その理由もまた、魔女には明白だった。何せ男自身が語ったばかりだ。


「あなたは終戦を見届けたし、生き延びた分、成果を出しもしたのでしょう。非難する人なんていないと思うわ。あなたを慕う人なら、なおさら。その美点があったからこそ、あなたに生きてほしかったのでしょうし」


 よどみない答えに、男は横目で魔女を見、表情に残り続ける渋みを薄めた。心側うらがわに残り続ける凍原は簡単に解けないものの、垂れ込めていた鈍重な灰色も、薄まったようにも思える。

 けれど、温もりと彩りに満ちた死に際の夢は、男と交わることはない。どんなに風光明媚な景色があろうと、地獄であったことに変わりない戦場で眠った兵士たちは、こんな夢を見る間もなかったかもしれないのに。またも生き延びさせられた男は、心地よく微睡まどろみさえ覚えそうになっている。それを不公平と思う罪悪感が、男にはある。

 終わりを迎えても、男は安らかな眠りに就けなかった。冬の荒野で一人、立ち尽くしているだけ。


「でも、それがあなたを縛ってもいたのでしょうね」


 冬の中へ戻りつつあった男の意識を、急に引き戻す音がした。

 再び、横目に魔女を見ると、橄欖かんらんの双眸と視線がぶつかる。清澄を宿した魔女の目は、力を秘めているようにも見えるが、春陽の中では柔らかい。


「あなたも、喪った人たちを大切に思っていたし、今も変わらずそうなのでしょう。だから裏切れなかったのね」


 ――ここは私を閉じ込める鳥籠だったけれど、心から大嫌いじゃなかった。


 城から抜け出して逃げないのかという男の問いに対する、魔女の答えが蘇る。幽閉と戦争に際した心情はまるで異なっているはずなのに、わずかでも、男は共鳴を感じずにいられない。

 自分の置かれている場所が、地獄だったとしても。大切な人に、大切な人の想いに背を向けることだけは、どうしてもできなかった。


「だけど、それで身動きが取れなくなったら、思いは呪いになってしまう。呪いになったら、解かなければなりません」

「……自分はもう、命を絶った後ですが」

「死んだ後に呪いを解くことだってあります。解かなければ残ったままなのですから。呪われた人が命を終えたというのなら、呪いも終わらせてあげないと。あなたの大切な人たちが、憂いなく眠り続けられるように」


 微睡むように長閑のどかな温室に、またもどこからか、春風が吹き込んだ。その通り道で草花が揺れ、ささやくような音を立てる。


 ――なあ、思い詰めるなよ。


 密やかな音に触発されてか、すっかりほこりを被っていた記憶が、色褪せたまま動き出した。ランプの灯り、琥珀こはく色の火影が佇む部屋の中、呆れた笑顔で言う同僚の姿が。


 ――俺たちだってお前が大事なんだ……はあぁ、男にこんなこと言うの気持ちわりぃな。二度と言わせんなよこの野郎!


 真冬の真夜中に投げられたその言葉が、暗闇を照らす焚き火となってくれたことを、男は十数年ぶりに思い出した。

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