5. 旅

「ああ、そういえば。逃がして差し上げましょうかと言ってくださった方がいたわね」


 首だけになったまま、北の魔女は懐かしむように呟いた。朱色のドレスを纏った体は、上品な姿勢を微動なく保って、前方の花園に向き合っている。


「いつか世界を旅してみたいと言って、そのためにお金を集めていた若い人。大抵の言葉が軽薄に聞こえてしまうような人だったけれど、その夢は本心だったからかしら、本気だと察せられる声をしていたわ」

「その旅に、貴女を招待したいと思っていた、といったところでしょうか」

「ええ。逃げるなら私、首だけになっているかもしれませんよと忠告しましたが、それなら旅先で逐一ちくいち驚かれそうですね、反応が色々見られて面白そうですと返されてしまいました。私も、申し訳なさはありますけれど、人が驚く顔は見てみたかったなと」

「驚かれすぎて、逆に追い払われるような事態になったら、どうするおつもりだったのです」

「あら。私が魔女なのを忘れてしまいまして? 何でもはできませんが、それなりのことには対処できます」


 軍人の男が予測したリスクを、魔女はからから笑い飛ばす。事実、魔女は困難が立ち塞がっても、簡単に解決できてしまうのだろう。そういう能力があったからこそ、この城に閉じ込められていたのだから。とはいえ、自らおてんばを自称するあたり、魔法が使えなくても解決できてしまえそうな姿も目に浮かぶ。


 実力の有無に関わらず、危機を前にしても余裕や冷静を失わない肝の太さ。それは男が憧れるものの一つだった。同じ戦場、同じ任務を共にした仲間にも肝が太い者はいて、内面の強さを羨ましく思っていた。

 だが、そういう者ほど、本当は心が傷だらけだった。まだ若かった頃、経験も浅かった頃の男は、全く気付けなかったけれど。


「でも。仮に首だけの旅ができたとしても、国が私を追いかけ続けたでしょう。だから、あの子からの旅の誘い……逃亡の誘いは、お断りしました」


 結末を告げる魔女の顔に湿り気はない。当然と分かり切っているからか、昔話だと割り切れているからか。どちらにせよ、どちらでもあったにせよ、大切な思い出として仕舞われていることは、魔女の表情や声色が明らかにしていた。


「軍人さん。あなたは旅をしたことがおありかしら?」

「情勢が不安定になる前は、別の国へ旅行をしたこともあります。……美しい場所にも、それなりに行ったのですが、今はもうあまり思い出せませんね」


 男は空中へ視線を投げた。彩り鮮やかな温室の中、男の抱える凍原は無彩色のまま。長らく戦場を見続けてきた目にも、暗雲が居座り続けている。

 美しいものは跡形もなく、あっけなく壊されていく。残骸は踏み荒らさられ、しかばねの下敷きになって、土壌には血と死臭が染みつく。記憶とはまるで違う場所に成り果てる。いつしか、男は美しいものを思い出せなくなった。美しいものに触れても、感慨が湧いてこなくなった。


「思い出せなくなってから、頭と体が別々になったような、そんな気がしていました。体は間違いなく戦場にいるのに、頭は遠くで呆けているような。生き延びてくれと願われて、多くの人に助けてもらいましたが、その人たちに顔向けできない有り様でした」


 生き延びてほしいと願われた時点で、戦場から去るべきだったのだろうと男は思い返す。けれど、逃げることはできなかった。逃げたい、逃げたくないという葛藤も無視されて、男はただ進むしかなかった。


「ああ……ですが、戦場で見た花のことは憶えていますね。野に咲く花も、亡き人へ捧げられる献花も。花だけは、いつでも美しかったんです」


 言葉を連ねるうちに、男の脳裏に花が満ちた。天気も季節も、花の色も抜け落ちているが、花の咲く場所で敵と戦った時の記憶が再生される。

 場を制圧し、敵方の沈黙を確認した後、男は道を振り返った。自分が花を踏み潰したことで現れた道を。そうして、未だ進路を向いたままの、軍靴の爪先へ目を落とした。兵士の蹂躙じゅうりんが及ばなかった花が、男を見上げて佇んでいる。

 今、死から逃げられても、花の死に場所はここだけ。男も軍人である以上、今は死を逃れていても、戦場で死ぬことは変わらない。


「花も旅をするものね」


 ふと、灰色の記憶と独白に色が差した。か細くも華やかな色だった。

 どこにも向けられていなかった男の目が、金と橄欖かんらんの首へ吸い寄せられる。魔女は体と同じ方向、前方の花園を眺めていた。


「種の時と、盛りの時。花も色んな場所へ行けるし、様々な人の手に渡る。だからこそ、根差した場所には意義が生まれる」


 言いながら、魔女の首は自ら動いて男の首と向き合う。面に悲哀の笑みを咲かせて。


「あなたが逃げなかったのは、良くも悪くも、戦場に根差したからなのかしら。どんなにむごいことがあっても、逃げられない理由のほかに、逃げたくない理由があったのかしら」


 橄欖の双眸に、何もかも見透かす俯瞰の神秘を湛えて。

 声にならない「どうして」を、男の口がかたどる。「勘です」と、魔女の口は弧を象った。


「嫌な気分にさせてしまったら、ごめんなさい。戦争と関わったあなたの事情が、軽々しく話せないものだとは察しているけれど……あなたから何かが失われていくようで、それが悲しいことに思えてしまって、声を出せずにはいられなかったの」


 悲哀の笑みを浮かべたまま、魔女は緩やかに語り終える。同じ机上にいながら、通りすがりに声を掛けただけのような距離が、二つの首の間に横たわっていた。そう思わせる魔女の空気が、男には気楽で心地よい。


「……逃げたくなかったのは、失うことが恐ろしかったからです」


 心地よさに任せて、男は口を開いた。目線の位置を同じくした、近くて遠い魔女になら、話してもいいと思えていた。

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