3. だんまり

 食堂での談笑を経ると、北の魔女はより砕けた雰囲気をまとい、少女らしく笑うようになった。軍人の男もつられるように笑むことが増えたものの、彼の場合は破顔とまでいかない不器用な笑い方のせいで、ぎこちなさが拭えずにいる。


 魔女の古城案内は続き、当初に予定されていた範囲を広げることにもなった。掃除は行き届いていないが、いる分には支障のない所まで。さすがに首では床のほこりを吸い込んで大変なことになると、急遽案内されることになった廊下に差し掛かった頃合いで、魔女は男の首を抱え上げた。

 女性に頭部を抱えられるというのは、果たして恥ずべきことなのか……生憎、初めて首だけとなった男には分からない。特定の女性と仲を進展させたこともなければ、買うこともなかった男なので、なおさら。とりあえず魔女が楽しそうなので、それでいいかと考えていた。


 男の首を抱えた魔女は、階段を上がっていく。絨毯が音を吸うため、足音は些細ささい衣擦きぬずれの音と変わらない。あちこちくすんで古ぼけた古城の中で、不釣り合いなほどの鮮明を身に纏っているのに、生前を引きずる亡霊のようだ。まるで、肖像画を抜け出して、さ迷い歩いているかのような。

 階段を上り切った先には、天井から床までを繋ぐような大窓がそびえている。魔女が歩み寄ると、窓は門扉を彷彿とさせる重々しさで開いた。窓枠の影に切り取られた四角い光の中で、今までの廊下には見当たらなかった埃が舞っている。その中を突っ切って、魔女はバルコニーへと進んだ。


 中天に差し掛かった陽の光が、廃墟と化した古城に降り注いでいる。花を交えた山の木々を背に、長らく風雨に晒されたのだろう城の一部がくずおれている。

 男の首が、バルコニーの手すりに置かれた。好きに見てくれということなのだろうか、男は魔女を見上げたが、橄欖かんらんの目は過去の残骸に注がれている。古城がこちらへ語り掛けることなどないだろうが、この城に住み続けてきた彼女にとっては違うだろう。皆がだんまりを決め込む中で、部外者な男の沈黙だけが仲間外れだった。


 だが、独りというのは心地が良い。


 男は自力でずりずり視界を移動させ、萌ゆる木々の緑と朽ちた古城のコントラストを眺めた。古い建造物と鮮やかな草花の取り合わせは、絵画でも見たことがある。額縁に収められた虚構を見ても、男は特に感じ入ることはなったが、こうして実物を見ると、のどの奥で息が詰まる。今はどこにあるかも分からず、繋がってもいないのに、胸の奥を締め付けられるような錯覚がする。


 時おり、遠くから鳥の声が聞こえてきたが、押し黙られると何も聞こえなくなった。吹いてくる微風もしとやかで、音を立てない。過去に置いていかれて廃墟と化した古城は静かだった。

 沈黙は手持ち無沙汰を生み、漫然とした謎の焦燥も生むが、この場所は落ち着いている。首だけを手すりに乗せられている、という奇妙な絵面をしていることも忘れて、男はただ、崩落した古城を眺めていた。


「――立ち続けていると、疲れてしまいますね」


 長閑のどかな停滞に、魔女の声がもやを広げた。透明な水中に、色のついた水が流れ込むように、穏やかな声は静穏を彩る。男が再び見上げた先で、魔女は空を見ていた。


「立ち尽くしてから、そんなに時間が経ってしまいましたか」

「さあ。時間なんて意識しなければ無いのと同じ。気にするようなことじゃありません。ここにはもう、時を告げる鐘の音も鳴り響かない」


 日の下に出たことで、金髪も橄欖の目も、朱色のドレスも華美を増していたが、顔に浮かぶ表情は憂いに翳っている。そのまま、魔女はしばし黙っていた。かつて聞いた鐘の音を、思い出しているのかもしれなかった。

 男にも、鐘の音は馴染みがある。しかし、思い出せなくなって久しい。男の耳に蘇ってくるのは、砲声、銃声、叫び声に泣き声。夢の中でさえ追いかけてきた轟音ばかり。染みついていたはずのそれらは、乾いた血のように黒ずんでいる。


 ――貴方は、こんなところで死んでいい人ではないのです。


 鮮血が、脳裏に過った。塞がらない古傷から、滴り落ちた赤色だった。


「どうかなさった?」


 僅かに俯いた男の顔を、橄欖の目が覗き込む。「いえ」と簡単な声を出すこともできず、男はただ、口を引き結んだ。心配そうだった魔女の顔も、憂いに翳る笑みへ戻っていく。


「誰にでも、言いたくないことはありますものね。……もう少し、ここをご覧になられる? それとも、次の場所へ案内してもよろしいかしら」

「疲れは大丈夫なのですか」

「ああ、平気よ、このくらい。私は深窓のお姫様ではなくて、野を駆け回るおてんば娘でしたもの。立ち尽くして疲れ果てる、なんて情けないことにはなりません」

「では……案内の再開をお願いできますか。役目を終えた古城の美しさは、目に焼き付けましたので」


 別段、意を込めたわけでもない頼みの言葉に、魔女が目をきらりと輝かせる。どことなく誇らしげに見える表情は、嬉しがっているのだろうか。男は考察を巡らせたが、先に抱えられてしまった。


「次で案内は最後になるのだけれど、そこも綺麗なところよ。楽しみにしていらして」


 男が相槌を打たなくても、魔女は上機嫌で歩き出す。娘のいる同僚も、こういう風に手を引かれていたと、男はぼんやり思い出した。

 死ぬ前、同僚に挨拶をすることはなかった。彼に限らず、男は誰にも挨拶をしなかったし、遺書も書かなかった。無音のまま消え去りたかった。望みこそ叶えたものの、首だけ残され生き返るなんてことが起こるとは思わなかったが。


 城内へ戻った魔女の足音は、響くことなく吸い込まれていく。目覚めるような色合いも、薄暗い世界に馴染んでいく。首が跳ねても埃の舞わない廊下へ出るまで、男はしばし目を閉じた。灰色を覆う眼裏まなうらでは、春昼に横たわる古城の残骸へもやがかかり、輪郭を柔らかくほどけさせていた。

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