第5話・小さな訪問者
エルとは大聖堂で別れ、カーネリアはジークとともにゆっくりと帰路についていた。巨大なモルモットはやはり人目を引き、来たときと同じく奇異の視線を集めることになるがカーネリアはもう慣れているし、ジークも特に気にしていない模様である。
「それにしても。いつもは夜食まで食べていくエルが先に帰るとは。あまりに珍しい事態だぞ?」
「おれさまに怯んだんだろ」
得意げにジークが言う。怯んだには怯んだのだがそれは、モルモットを巨大化させ、人語を理解できるようにしたキノコに対してである。カーネリアの料理は絶品であるが、知らないうちに料理に混ぜて食べさせられるかもしれないと、さすがに危機を覚えたのだ。そしてそれはあながち間違いでもない。
まあ、焦ることはない、とカーネリアはほくそ笑み、かたわらのモルモットに声をかける。
「ところで、体調はどうだ? どこも変わりないか?」
「ん。絶好調」
「そうか。お前がこうなったのは、一時的なものなのか、それとも一生このままなのかまだ分からないからな。身体に異変を感じたら隠さずに言うんだぞ」
「りょーかい!」
器用に前足を持ち上げて、敬礼のようなポーズを取る。どこでそんなの覚えたんだと苦笑を浮かべ、カーネリアは堂々と視線の波を越えていった。
一人と一匹の夕食も過ぎ。
カーネリアは塔の屋上で空を見上げていた。正確には、星を眺めていた。晴れてはいるが、月明りは乏しい。星を見るには絶好のシチュエーションだ。しかし彼女は別に、星の観察が趣味なわけではない。
地上に置かれたステンドグラス。付随する魔女と聖女の物語。誰でも知ってる、物語だ。
相反するように、地下に隠された一枚の壁画。知らない文字で書かれた、物語。限られたものしか知ることのできない物語。
あの壁画。
空から降ってくる、黒いなにか。それ以上は分からないが、空から降ってくるとなるとまずは星だろう。流星や、彗星。時々地上まで届くものもある、隕石。
地上まで届くといっても、大体は空で燃え尽き落ちてくるのは小さな石ころ程度のものだ。壁画にあったような、大きなものなどなかったはずだとカーネリアの知識が告げている。
だとすれば。
あれは――予言であるのかもしれない。
ステンドグラスが過去であり、誰でも知る物語ならば。誰も知らぬ壁画の物語は――。
瞬間、そんな考えが脳内をかすめた。バカバカしい、と一笑に付して首を横に振る。思考がクリアになったところで、人の声が耳に届いたような気がした。
ん? とカーネリアは耳を澄ませる。
囁き声は、地上から聞こえてくるようだ。それも、こんな夜更けに似合わない、子供の声。
王都の外れにあるこの塔は、よく肝試しに使われる。カーネリアが趣味の実験をやらかして、おかしな色の煙が出ていたとか、変な鳴き声が聞こえただとか噂が噂を呼び、魔女が住んでいるのではないかと言われているからだ。彼女本人がわざわざ訂正する気もないため、ほぼ暗黙の了解的にあの家、と言ったらここを示すぐらいには噂は一人歩きしている。ときたま、王都の悪ガキどもが度胸試しに敷地内にはいってくることがあるのだ。
だから。
今回もその類いだろうと、カーネリアは思ったのだが。
耳に届いた小さな声に、思わず下を覗き込む。
「……お兄ちゃん。ここって、あの……魔」
「魔女って一杯魔法使えるんだろ? だったら、一生懸命頼めばお前の怪我を治してくれるかも」
「でも……。やっぱり」
「じゃあ、見つからないようにおれが忍び込む。怪我に効く薬ぐらい、たくさんあるよ」
言って、少年が小さな手を扉にかけた。
「そこまでにしておくんだな。それ以上は、不法侵入になるぞ」
突然響いたハスキーな声に、二人は盛大に驚いて扉から離れた。妹のほうは、泣き出しそうに顔を歪めている。
「あー、泣かれるのは困る。どうすればいいか分からない」
戸惑ったようなせりふに、妹はびくっとしてしゃくり上げたが恐怖で涙も止まったらしい。兄であろう少年は少女を背中にかばい、きょろきょろと辺りを見回して声の主を探している。
「と、塔の魔女だな! 姿を見せろ!」
声高に、しかし震えを隠せないうわずったトーンで少年が叫ぶ。カーネリアは、やれやれとため息をつくと、上だよ、と短く答えた。彼女の声に引っ張られ、子供たちの視線が塔の上に集まる。
カーネリアは屋上に足を組んで座っていた。組んだ足の上に肘を乗せ、頬杖をついておもしろそうに二人を見下ろしている。彼女の弧をえがいた視線と少年の視線が交わり、子供はびくん、と緊張で身体を跳ねさせた。
「まずは誤解を解いておこう。確かにこの塔は私の家だが、私は魔女ではない。まあ、そう呼ばれても仕方がない程の魔力と実力はあるがね」
微笑んで立ち上がり、カーネリアは前に歩き出す。とはいえ、前にはもう床がない。少女は小さな悲鳴をあげて手で顔を覆ったが、少年は目を見開いてカーネリアを見上げていた。否、目が離せなかった、と言ったほうが正しい。
一瞬、自由落下を始めたように見えたカーネリアの身体は、下から巻き起こる風によってふわりと浮き上がり、ゆっくりと降りてくる。長い黒髪を風に遊ばせ、何事もなかったかのように着地すると、しゃがみ込んで少年の瞳を真っ向から見据えた。
「それで? この私の家に忍び込んでまで、助けてほしいことがあるようだが?」
少年の視線が泳ぎ、ほんの少し悔しそうに唇を噛む。口を開くのにしばしの時間がかかったのは、言うかどうか考えていたのだろう。
「……お使いの帰り、妹が魔物に襲われて足を怪我したんだ。なんとか魔物から逃げきってここまできたけど、暗いしもう歩けないし、おれも限界で」
悔しそうな顔が、泣き出しそうに歪む。だが、小さな拳はぐっと握りしめられていた。
「なるほど。それで、忍び込もうとしたのか。馬鹿だな、最初から扉を叩けば良かったものを」
「だって……。ここは、魔女の家だって大人たちが言ってるから」
「その大人たちは、魔女を見たことがあるのか? お前たちだってどうだ? 本物を、見たことがあるか?」
ちなみに、私はない、と付け加えたカーネリアを見て、少年は覚悟を決めたようだった。妹の手を握りしめて頷くと、ぴょこんと勢いよく頭を下げる。
「ごめんなさい! 全部おれが勝手に言い出したことだから、妹はなにも悪くないんです! 家に忍び込もうとしたのもおれです! おれはなんでもするから、妹は、妹の怪我を治してやってください! お願いします!!」
「お兄ちゃん、やめてよ! わたし、頑張って歩くから……」
カーネリアはおもしろそうに瞳を細めて、幼い兄妹のやり取りを眺めていたが、ふいにぱんっと手を叩いた。弾けるような音に二人はびくっと肩を震わせ、口論をやめる。
「いいぞ。怪我を治してやろう。その代わり、なんでもすると言ったな? 男に二言はないな?」
紫の瞳に貫かれ、少年は瞬間、逃げ腰になる。しかし、ぐっと思いとどまると、その瞳を真っ直ぐに見返して力強く頷いた。それを見て、カーネリアの笑みは一層深くなる。
「よし。契約成立だ。お前が勝手に忍び込もうとした事実はなかった。まず、それでいいな?」
ごくりとつばを飲み込んで、少年はもう一度頷く。しっかりと両の足で地面を踏みしめてはいるけれど、実際声を出すのも難しいほど緊張していたし、逃げ出したかった。それでも立ち止まっているのは、妹の前ではカッコいいお兄ちゃんでありたいという、幼いながらの思い、それだけである。
「では、中へはいるといい。傷を診よう」
楽し気に声をあげて、カーネリアは扉を開いた。
「おい! 外でなに騒いでんだよ! おれさまも仲間にいれろ!」
扉の内から飛び出したのは、そんな怒鳴り声で。
幼い客人はそろってぽかんと口を開けた。言葉を発したのが間違いなく目の前のもふもふだと理解して、唖然としていた顔にみるみる笑顔が広がっていく。
「そうそう。交換条件がまだだったな。君にはときおり、ここでこいつの遊び相手をしてもらいたい。妹と二人でもいいぞ」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべながら、カーネリアは高らかに条件を口にしたのだった。
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