第240話 断末魔
空中に展開した
膝関節の屈曲により治りかけの太腿が膨らみ、しかし甚大な内圧に耐え切れず、皮膚下で弾けるように断裂する。間髪入れず再生促進。シルティは笑った。これで大腿筋がまた少し強靭になる。
愛刀〈永雪〉を右肩に背負い、地面を這うような軌跡で疾走を開始。進路は当然のように前だ。巨木のような
ゆえに、前へ。
相手の刃を躱せる、自らの刃が届く、至近の間合いを目指して愚直に滑り込む。
ファーヴが動いた。
棒立ちの体勢から
橙金色の死を目前にしてシルティの思考速度はさらに加速され、その瞳孔は昂りの度合いを示すように限界まで拡大される。
(めちゃくちゃ下手くそだっ!!)
ファーヴが太刀を上手く使えないのは至極当然の話だ。おそらくこの
産まれた時から身体能力が生物の上限値にあるような世界最強種と言えど、さすがに技に関しては下限値から積み重ねが始まるらしい。少しでも剣術を
にも拘わらず、その速度だけは
表情を変えることすらできない静止した世界の中で、シルティは歓喜に震える。
直撃すればシルティの身体など、血液の一滴すら残らず消滅するに違いない。
この身体は
一瞬遅れて、〈素質殺し〉が砂浜へと墜落する。
大質量を高速で衝突させるという単純明快な破壊行為。竜の身体能力から繰り出された稚拙な斬撃は砂浜をまさしく爆散させ、冗談のような量の土砂を巻き上げる。あまりの衝撃に、発生した砂の奔流は微かに赤熱していた。渦中のシルティはそれどころではないが、孤島に生息する生物たちは強い地震を感じ取っていただろう。
とても
だが、ファーヴの太刀筋からこれを完璧に予測していたシルティは、飛鱗たちを予め身体の側方に滑り込ませていた。
微かに跳躍。直線上に並び擬似的な直剣と化した飛鱗たちが息を合わせて高速で旋回する。
形相切断。
水撃式移動法の前準備と同様の、旋刃による継続的な物性是正だ。主観が流体であるならば、シルティの愛する飛鱗たちは対象が海水だろうと流砂だろうと等しく斬り裂く。
自らが穿った活路に畳んだ身体を滑り込ませ、肌を焼かれながらも、シルティは致死性の土砂を貫通した。
赤熱した砂の幕を抜け、眼前に広がったのは見慣れぬ景色。
足が届かない。つい先ほどまでは平和だった砂浜が深々と抉れ、楕円形のクレーターが形成されていた。
「んふっ」
絶望的な現実に笑みが溢れる。かつて
半瞬遅れて、自分の笑い声が聞こえなかったことに気付いた。身体中が痛いので気付くのが遅れたが、せっかく再生した鼓膜がまた破裂したようだ。
体捌きと飛鱗たちの尽力で直撃を避けたとしても、その攻撃が生み出す
この戦いにおいて聴覚を保持し続けることは不可能だ。そう判断したシルティは潔く鼓膜を切り捨て、再生促進の比重を他の部位に傾けた。
眼前で旋回する擬似直剣をびたりと急停止。そのまま足場に転用し、反跳。地面を離れ、膝を畳みつつ空中へ身を躍らせる。
竜が太刀を持つという願ってもない状況。せっかくなので地に足を付けた状態での斬り合いを楽しみたかったが、唐竹割りで天災を引き起こされるのはさすがに剣術の範疇外だ。躱す度に溶砂を切開していたら攻勢には出られない。厄介にもほどがある。
回避しても地面を斬られない角度。
切先が地面を擦ったとしても土砂が届かない高さ。
そんな位置関係を保つ必要があるだろう。
「んふふふっ!」
笑いが止まらない。
射出していた十二の飛鱗たちに帰還を依頼。
二枚ずつ、平行に並べ、高速で旋回。
「ふッ!」
雄々しい呼気と共に折り畳んでいた両膝を勢いよく伸ばし、シルティは思い切り飛鱗を踏み付けた。
湿り気を帯びた音と共に飛鱗が靴底を貫通する。〈
激痛及び流血と引き換えに、両足の裏に飛鱗を二枚ずつ固定する。
港湾都市アルベニセに帰還したら、革職人ジョエル・ハインドマンに飛鱗を半長靴の靴底に納められるような追加工を依頼するつもりだったのだが……残念ながら、そんな猶予は存在しないようだ。
ならば、こうして直接骨肉に固定するしかないだろう。
ぶっつけ本番になってしまったが、まあ、上手くいかなくても死ぬだけだ。いつものことである。
(おッ)
ファーヴの中肢翼が微かに動いた。
右肩周りの筋肉が隆起し、右後肢に体重が乗る。
致死の気配。わかりやすい。練達の剣士シルティには手に取るように読める。
右手を頭頂部に。左手を
飛鱗を介して宙を両足で踏み締め、腰を落とす。
停止した世界で唯一動く、雄大な橙金色の太刀を見つめる。
まだ早い。まだ。まだ。さあ来い――
今。
互いに超音速の領域にありながらも
あの時は
接触した障害物を完全に無視して直進する
停止した世界に鈴の音のような擦過音を響かせ、刃の交点が切先から鍔元へと流れる。斜めに構える〈永雪〉を介し、シルティの身体が頭上方向へ押し退けられた。
このままならば、良くても超音速で弾き飛ばされ、悪ければ〈永雪〉ごと両断されるだろう。
当然、シルティは愛刀にそんな末路を迎えさせるつもりなど毛頭ない。
身体を引き
雷光よりも短い刹那、〈永雪〉と〈素質殺し〉が成す角度は連続的に減少し、
瞬間、シルティは全力で宙を蹴った。
シルティ自身の回転に伴い、逢瀬の接点が〈素質殺し〉の
鍔元まで押し込まれていた刃の交点が再び切先へと流れ、相応の反作用を得たシルティは刃圏の内側へと弾かれるように侵入した。
「あはあっ!」
シルティの脳内で歓喜が爆発する。
相手の斬撃に迎え入れるような斬撃を被せて
竜を相手にこれを決めたのはおそらく人類種史上でシルティが初めてだろう。彼我の質量差のおかげで接近動作も両立できた。間違いなく、これまでの生涯で最高の
直後、轟音と共にその皮膚が引き裂かれ、鮮血が噴き出した。眼球に激痛が走り、視界が真っ赤に染まる。物質的な攻撃は回避できてもこの衝撃波だけはどうにもならない。視認さえできれば斬ってみせるのだが。
まあいい。来るとわかっていればシルティの動きに遅滞は生じない。
こんな楽しい時間を見逃したら勿体ないだろ早く治れ。
自らを責め立てるような心持で眼球の再生を瞬時に終える。ますます絶好調だ。
〝ぅっ?〟
思わずといった様子で、ファーヴが驚愕の意を漏らした。
彼の視点ではシルティが斬撃を
竜の度肝を抜くことができた。最高に嬉しい。
歓喜が体内を駆け巡り、臓腑がさらなる生命力を生産する。
我ながら峰を弾く角度が完璧だった。〈
海底では斬れなかったが、ここは陸上。慣れ親しんだ空間だ。
両足で空気を掴む。
上半身の飛鱗たちに身体の支持を任せて全身の筋肉を酷使。この瞬間に生み出せる全ての力を乗せ、シルティは渾身の右袈裟を放った。
銀煌の刃が
(ぬああ
斬り開けた。
だが、斬り抜けなかった。
鱗の硬さも凄まじいが、その内側に詰まった筋肉の密度が超常的すぎる。さすがは竜の筋肉だ。
というか、まずい。抜けない。
シルティは両足で頸部を踏み付け、渾身の力で〈永雪〉を持ち上げた。
ずず、と微かに動く。抜けそうな気配。
直後、ファーヴの左前肢が振るわれる。
襲い来る鉤爪。
咄嗟に、シルティは回避行動を取った。
その手に、〈永雪〉を握ったまま。
絶海の孤島に、
(あッ)
突如として抵抗を失った右手にバランスを崩しつつ、シルティは一瞬、喪心した。
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