第239話 出し惜しみはしない



 私は生きた刃物。

 速くて鋭い刃物。

 でも、足りない。

 竜を斬るならもっと速くもっと鋭くならなくては。


 差し当たっては速度だ。

 天雷かみなりを目視するほどの時間分解能に対し、肉体速度があまりに鈍い。

 私ならもっと速く動ける。

 これまでの生涯の最高速度を、今ここで、ぶっちぎりに塗り替えよう。

 私ならできる。

 集中しろ。

 この身体の素晴らしさを竜に見せつけてやれ。


「すぅー……」


 肺、心臓、動脈、筋肉。身体の隅々まで、柔らかな空気を導いていく。

 呼吸のタイミング、特に息を吸うタイミングを読まれると、動き出しを読まれ易くなる。

 胸を膨らませず。腹を膨らませず。肩を上げず。音を出さず。獲物に襲い掛かる直前の呼吸は石のように静謐かつ不動でなければならない。

 だが、今のシルティはその原則を完全に放り捨てていた。

 どうせ竜の不意を突くことなど不可能なのだ。ならば、動物としての自然体で、可能な限り空気を取り込もう。


 ゆっくりと肺腑を膨らませながら、シルティは今は亡き〈玄耀げんよう〉に想いを馳せた。

 あの愛しい鎌形ナイフを振るう時、私の腕の先端は高純度の宵天鎂ドゥーメネルだった。

 ならば、もうちょっと手前が宵天鎂ドゥーメネルになってもいいだろう。

 いっそのこと、身体そのものが宵天鎂ドゥーメネルになってもいいだろう。

 私の身体はかつて〈玄耀〉だったのだ。いや。今も変わらずに。


 引き続き胸郭を膨らませながら、シルティは視線をファーヴの足元へ向けた。

 砂浜に突き立つ輝黒鉄ガルヴォルンの太刀、〈虹石火〉。

 あの美しい家宝を振るう時、私の腕からは純輝黒鉄ガルヴォルンの刃が伸びていた。

 ならば、もうちょっと手前が輝黒鉄ガルヴォルンになってもいいだろう。

 いっそのこと、身体そのものが輝黒鉄ガルヴォルンになってもいいだろう。

 私の身体はかつて〈虹石火〉だったのだ。いや。今も変わらずに。


「……っ」


 吸気の限界が来た。

 もうこれ以上、呼吸筋では肺腑を膨らませることはできない。

 だが、まだだ。

 何十回と潜水漁を行ない、棘海亀とげウミガメ巨鯱おおシャチと殺し合って、真竜エウロスちのめされたことで、シルティは戦闘における空気の重要さを改めて思い知った。

 動くためにはとにかく空気が必要だ。

 もっと欲しい。

 本能に突き動かされるように、シルティは口腔内の空気を飲み込んだ。


「ンクッ」


 喉を締め、唇を開いて、閉じる。

 口腔内の空気を飲み込む。

 喉を締め、唇を開いて、閉じる。

 口腔内の空気を飲み込む。

 喉を締め、唇を開いて、閉じる……。

 陸上に打ち上げられた魚類のようにパクパクを口を開閉し、シルティは断続的に空気を飲み込んでいった。吸うのではなく、押し込む。一回ごとに拳半個分ほどの空気が肺腑へと詰め込まれ、胸郭が呼吸筋の限界を遥かに超えて膨らんでいく。採寸発注から一年三か月強が経ち、残念なことに最近きつくなっていた革鎧の胸当てが内側から拡張され、軋むような音を立てた。


 心臓へ加えられる甚大な負荷。

 鎚尾竜アンキロや琥珀豹との戦闘で見せた強制不整脈、あれを引き起こした圧力などうに超えている。

 もっとだ。もっと欲しい。

 私の心臓は蛮族の心臓。逆境であればあるほど燃え上がる。そういう風にできている。できていなければならない。


 両足の裏で地面を丁寧に踏みにじる。

 乾いた砂から、きゅ、と微かな摩擦音が鳴った。

 鳴き声を上げる白い砂浜。シルティは知っている。こういった白砂はガラスの原料となる。

 ガラス。ガラス。ガラス。

 思うに、細かいガラスというのは、もう刃物と言えるのではないだろうか?

 刃物ならば、私の身体だ。

 自分でも少し強引だと思う理屈で、稚拙な自己延長感覚を無理やり確立した。


 視線を〈虹石火〉から外し、渇愛を込めてファーヴに向ける。

 あまりの圧力に血管が拡張しているのか、シルティの両目はこの上なく血走っていた。

 今、行きます。

 血眼ちまなこで伝える。


〝うん〟


 一撃で本当に斬り素敵殺すな竜

 勝負は初太刀だ。

 出し惜しみはしない。


 主観を引き延ばす。

 体重操作。肉体を輝黒鉄ガルヴォルン化し、金塊きんかいの如き重さを獲得する。

 それを膝をことで宙に完全に浮かせ、己の重心に莫大な慣性を付与した。

 筋肉の操作は丁寧に。世界を停止させた猶予を思う存分に貪る。

 落下する輝黒鉄ガルヴォルンの足が地面を踏み締めた瞬間、内肋間筋ないろっかんきんのひとつひとつを個別に認識し、全てを収縮。腹筋と横隔膜を酷使し、既に馬鹿げた量の空気を孕んでいた胸郭を強引に握り潰す。

 胸腔内で火薬を爆発させたような圧力が生まれ、断熱圧縮により生まれた熱量が肺腑を焼き、そして、蛮族の心臓を完全に止めた。


「ふッ」


 排気、減圧。

 自由を取り戻した心臓がけたたましく叫び、雷速の領域にある時間分解能にも追い縋るような狂気的拍動を見せる。人類種の生理的な限界を遥かに超えた心拍数に合わせて左足を前へ滑らせ、右足で強化した地面を蹴り壊しながら、再びの体重操作。肉体を宵天鎂ドゥーメネル化し、羽毛の如き軽さを獲得する。

 重さに担保された強烈な踏鳴ふみなり、その反作用を、風のような肉体で受け取った。

 音の速度など遥か後方に置き去りにする、会心の踏み込み。

 凶器の域に達した空気抵抗が強化した肌を引き裂き、空間に鮮血の飛沫を撒き散らす。そんなことは今、どうでもいい。一歩。貫かれた空気が渦を巻くより先に、シルティは真竜エウロスへの肉薄を終えた。


 左足で砂浜を踏み締め、嘘のように静止。

 この身が孕む全ての暴力を右肩に担ぐように構えた〈永雪〉に託す。

 空間の超越、そうとしか表現のしようのない、超常的な加速。

 間違いなくシルティの生涯で最高のキレ、最高の速度だった。

 あのヴィンダヴルにも追いつけるのではないかと思えるほどの、極限の足運びだった。

 それでもなお、ファーヴの反射を置き去りにすることは叶わなかった。


 濁った破裂音と共に、蛮族の身体が宙を舞った。

 シルティは自分が完全に死んだと思った。

 つまり、死んだと思えた。


(……あ、生きてる!)


 死んだと思える。自由落下の清々しさを感じられる。それだけで奇跡だ。

 なにをされたのかはわかっている。ちゃんと。シルティが生み出した静止する世界、それを当然のように突き破る、神速の打ち払いだ。

 構えられた真銀ミスリルの刃が切断に移行するよりほんの僅かに速く、ファーヴは右前肢の手根関節をくるんと回した。

 たったそれだけの動きで、竜は落雷を思わせる蛮族の踏み込みに追い付き、

 至金アダマンタイト巨太刀おおたち。冗談のようなその刀身は〈永雪〉の八倍ほど。それだけでシルティの身長の五倍はある。

 そんなものが竜の筋力で回されたのだ。

 速度に生涯を費やしてきた蛮族シルティの全力は、確かに音よりも速い。

 だが、〈素質殺し〉の切先速度を表現するために使うには、音の速度はあまりにも遅すぎる。


 極限に引き延ばされた主観が辛うじて致死感覚を捉え、右袈裟を回避行動へと流用した。おかげで、直撃は紙一重で避けることができた。だが、余波だけでこの有様である。至近距離で浴びた衝撃波が全身をズタボロに引き裂いた。聴覚と嗅覚は完全に死んでおり、視界は真っ赤で暗い。


「クひっ」


 シルティは小さく歓喜の嬌声を漏らした。

 己の最高の会心をこうも容易く上回るなんて。

 想像すらできない超高速。

 竜は本当に最高だ。

 血に染まった目をとろけさせる。

 もっと竜の暴力を見てから死にたい。いつまでも放物運動しているわけにはいかない。体勢を整え、また肉薄しなければ――と、そこで気付いた。

 身体が動かない。

 ああ、またか。

 脊椎を損傷したわけではなさそうだ。問題は、筋肉か。断裂どころではない。皮の内側が挽肉になっている。

 思考が焦燥と渇望に塗り潰された。


 せっかく竜と殺し合っているのに身体が動かないなんて、勿体ない。

 不意に、鼈甲色の虹彩が脳裏に浮かんだ。

 琥珀豹との殺し合い。シルティは戦闘の最中さなか、数か所の骨折をほとんど瞬時に完治させた。

 あの時、私は、どう思っていたんだったか。

 確か。

 ああ。

 そうだ。

 

 死と生の狭間に揺蕩たゆたう意識が、唐突に確信へと至る。


 平均を大きく下回る上背に、鎧がきつくなるほど成長している無意味な乳房。

 やはり、あまり好きにはなれない。

 でも別に、そんなこと、殺し合いの場ではどうでもいい。

 だって、私が身体の再生を促進するのは、理想的な身体に戻りたいからではない。

 殺し合いに必要だからだ。

 肉体が壊れたままでは戦いが楽しめなくてからだ。


「ひゅっ、は」


 息を吸い、息を吐く。

 ただそれだけの時間でシルティの視聴覚は完全に復活した。のみならず、皮下で筋繊維がうぞうぞと蠢き、自発的にり合って結合する。

 愛刀〈永雪〉のつかを握る両手。右手の指を開閉。左手の指を開閉。両足に軽く力を込める。

 よし。完治には程遠いが、斬れる、殺せる。

 意識を体表へ。

 衝撃波を幾分削いでくれた飛鱗たちに愛と感謝を告げ、全鱗射出。

 両脇腹に位置する〈貅狛きゅうはく〉と〈獅獬しかい〉を背後へ回し、そこに着地した。

 視線を主観的な頭上へ。

 ちょうど、ファーヴの頭があるくらいの高さだった。


「うふっ、あはははッ」


 気分も体調も最高潮だ。

 堪え切れず、笑い声が漏れる。

 最高です。大好きです。斬りに行きます。

 そんな真意を読み取ったのか、全身が虹色の揺らぎで満ちた馬鹿を見つめ、ファーヴは眩しそうに目を細めた。


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