第241話 百年分愛している



 愛刀の折損。

 一瞬の喪心。

 体幹の傾斜。

 微かに遅れて、シルティの意識を激痛が貫く。


 ファーヴの鉤爪はしっかりと躱していた。今回は速度が控えめだったせいか衝撃波も発生しておらず、新たな負傷はない。だが、武具強化とは対象を自らの身体の延長と見做し、生命力で満たす技法。得物が折損したとなれば当然、その衝撃は生命の根源をおかす痛みとなって返ってくる。

 つらい。

 精霊の耳の構築の苦痛にも迫るほどに、めちゃくちゃ辛い。


 揺らぐ視界を踏み倒し、シルティは十二枚の飛鱗をかした。身体を引っこ抜くように運搬し、振るわれた左前肢の陰、ファーヴの脇の下へ滑り込む。視認範囲から逃れたところで竜の感覚から逃れられるとは思わないが、ここならば少なくとも〈素質殺し〉は届きにくい。太刀に不慣れなファーヴならば尚更だ。もちろん、海底でやられた肘打ちには警戒しておく。

 無理やり作り出した猶予を貪り、随分と軽くなってしまった愛刀の検分を瞬時に終える。


 刀身半ばほどで折損。刃渡りがシルティの前腕より少し長い程度になってしまった。脇差あるいは腰鉈こしなたのような外見である。しかし幸いにも刀身に曲がりはない。

 よし。

 これなら斬れる。

 まだ殺し合える。


(待っててね、〈永雪〉)


 愛刀を折られたことに対する悲しみなどない。

 なぜなら今、死ぬほどつらいからだ。

 銀煌ぎんこうの刀身を圧し折られた。生命力の導通を断ち切られた。その反動が、これほどまでに辛い。

 その事実が、堪らなく嬉しいからだ。


 鉱人ドワーフがご自慢の髭を灼き鍛えることで生産する超常金属、真銀ミスリル

 その特性は大きく分けて三つ。一つ、甘えてくると表現されるほどの使い心地の良さをもたらすこと。二つ、自己延長感覚の確立が驚異的なまでに容易いこと。そして最も超常的な三つ目、導通させた生命力が年月を経るごとに徐々に定着し、最終的には完全に同化すること。

 数十年と使い込んだ真銀ミスリル製の物品は、身体の延長という域を超越して正真正銘肉体の一部と化し、刃毀はこぼれのような微小な傷はもちろん、本来は致命傷となる完全な損壊ですら元通りに再生できるようになるのである。


 もっとも、いかに真銀ミスリルと言えど同化が終わる前に折れてしまえば再生はできない。

 シルティが〈永雪〉を手にしてまだ一年と少し。常識的に考えれば生命力の定着は微量であり、同化の完了には程遠い状態だろう。

 だが。

 シルティは自らの刃物親和性には自信を持っていた。

 私ほど刃物を愛し愛されるヒトはそうは居ない。

 私の注ぐ愛が常人の数十分の一程度のはずがない。

 私は既に〈永雪〉を百年分愛していると思う。

 だって、こんなに辛いのだから。

 父ヤレックとの模擬戦で両手首を掴まれ、そのまま腕を肩関節けんかんせつからブチンと引っこ抜かれた時より、よっぽど痛くて辛いのだから。


「くふっ」


 この鮮烈な苦痛はシルティが抱く愛のたけを表すもの。愛刀〈永雪〉がシルティにとって肉体以上のものと化した明確なあかしだ。ちょっと真っ二つに折れたぐらいで〈永雪〉は死なない。勿体無い式再生促進でもさすがに欠損を即座に完治させることは難しいだろうが、安静にしていればすぐ治る。勿体無い式の再生促進ならば三日もかからない。ファーヴを殺してその血肉を貪れるならば、たぶん、半日でいける。

 折られたことを恥じる気持ちはあるが、これを愛刀との死別として悲しむ必要はない。

 事実はどうであれ、シルティはこの瞬間、心底からそう盲信した。


 シルティは左手を右腰に走らせ、不銹ふしゅうのナイフ〈銀露ぎんろ〉を音もなく抜き放つ。今の〈永雪〉を両手で握るよりはそれぞれに刃物を持った方がいいだろうとの判断である。

 二刀を使うのは久々だが、アルベニセでは双剣使いのお姉さんマルリル度々たびたびボコボコにして貰った。

 あの敗北もまたシルティの糧。今ここで血肉に昇華する。


 瞬間的に視線を巡らせ、ファーヴの体勢を確認。

 棒立ちの唐竹割りから強引に繋いだ左逆袈裟で、〈素質殺し〉を握る右前肢みぎうでは空高く伸び切っていた。喉元に斬り込んだシルティを引っ掻くように振るわれた左前肢ひだりうではファーヴの右脇腹に位置している。

 率直に言ってたいだが、残念ながら殺せない。

 峰落みねおとしによる回避と加速の初見殺しで肉薄し、喉元へ放った渾身の右袈裟。ファーヴの左首筋の鱗を突破し、刀身を血肉へ埋めることには成功したが、振り抜くことは叶わなかった。

 次はもっと深く斬る。いずれは両断してみせる。

 とは思うものの、現実的に、刀身を破損した現在の〈永雪〉ではファーヴの首を刎ねることは不可能だ。単純に刃渡りが足りない。


 では、次に狙うべきは。

 頸椎。脳。もしくは心臓。

 左手の〈銀露〉の刃渡りは拳二つ分。

 折れた〈永雪〉の刃渡りは前腕程度。

 真竜エウロスの頸部を輪切りにするには全く足りないが、背後から狙えば頸椎だけを分断できる可能性がある。あるいは後頭部や胸部に真っ直ぐ突き刺すことができれば、切先が致命的な臓器に届くかもしれない。


「はあっ、ひゅうっ」


 大きく吐き、瞬時に吸う。

 肺腑に新鮮な空気を取り込み、シルティははしった。

 飛鱗たちの力を借りて宙を踏み締め、左脇の下をくぐり抜けて背面へ。後頭部を目指す。

 ファーヴの体表に纏わりつくように、しかし、暗橙色の鱗を直接踏むことはしない。シルティの足裏には飛鱗が二枚ずつ食い込んでいる。不慣れな二枚歯下駄を履いているような状況なので、むしろ地に足を付ける方が走り難いだろう。


 シルティの蠢動を受け、ファーヴが動いた。

 前肢にほど近い位置から広がる巨大な中肢翼、その右側がぐわりと持ち上がり、陽光をさえぎる。


(おあっ)


 シルティはほんの一瞬、呆気に取られた。

 鳥にせよ蝙蝠にせよ虫にせよ、飛行のために存在する翅翼しよくという器官は羽ばたく動作に特化するため、可動域が限定的になるものだ。しかし、六肢動物はその原則に当て嵌まらないらしい。翼全体が半回転しており、鉤爪の突き出た翼角部よくかくぶが完全に尾の方向を向いている。

 外見から真竜エウロスの翼は蝙蝠コウモリのそれに類似の器官だと思っていたが、仮に蝙蝠が今のファーヴと同様の姿勢を取れば間違いなく肩関節けんかんせつを脱臼ないし骨折するだろう。見れば生理的な違和感を抱かずにはいられない、そんな挙動である。


 中肢基部の筋肉が隆起し、翼の先端がぴくりと動いたところで、シルティは我に返った。

 呆気に取られている場合ではない。あの飛膜のしわは。翼を回転させるつもりだ。

 遠隔強化と魔術『操鱗聞香』を振り絞り、死に物狂いで全力跳躍。ファーヴが自身の背中を撫でるように薙ぎ払った中肢翼を辛うじて回避し、比較的弱い衝撃波と暴力的な空気の渦を飛鱗たちの尽力により乗り切った。

 回避してもなお肌で理解できる。この巨体を飛行させるために存在するのだから当然だが、いやはや、凄まじい筋力だ。シルティなどかするだけでも粉々になるに違いない。

 感動を噛み締めながらも体勢を整え、空中を跳ねるように疾走。翼の軌跡を追いかけつつ両腕を胸の前で交差させ、二刀を肩に添えた。

 狙いは屈強な中肢の基部。なんとか筋肉を断ち切り、右翼の動きを止めたい。ほんの僅か、一瞬の間でいい。


「ふッ!!」


 鋭い呼気と共に両腕を薙ぎ払う。右手で放つ水平、左手で放つ逆水平。肘より先を気持ち先行させる。

 一つの直線上を逆行する二刀は比喩抜きの紙一重でれ違った。

 あちらが超音速ならばこちらも超音速だ。狂気的な精度と速度を兼ね揃え、事実上同一空間に同時に存在することとなった対向剣閃。世界すら騙せるような絶技は単なる往復斬りとは隔絶した切断力を発揮し、暗橙色の鱗をざっくりと斬り裂いた。


「ぅひヒッ!」


 歓喜が脳内で爆発する。


〝うお〟


 驚愕の真意を発しつつ、ファーヴが左翼を羽ばたかせた。翼力を利用して体勢を整え、身体を反転させる。同時に翼が孕んだ空気が地表で炸裂し、悍ましいほどの暴風と化した。砂浜沿いに生育していた木々が大きくたわみ、数本は根本から薙ぎ倒される。

 ただの一度の羽ばたきでなんという有様だろうか。まさしく生きる天災である。

 だが、右翼は動いていない。シルティの鋏斬きょうざんが中肢上腕筋を断裂させたのだ。いかに竜といえど、筋肉自体が斬れたままでは動けない。

 竜の再生は一瞬だ。つまり、猶予も一瞬だ。

 シルティは舌舐めずりをするような心境で踏み込んだ。

 右足裏に食い込んだ〈怜烏れいう〉と〈獅獬しかい〉に膨大な生命力を注ぐ。自然の土壌と違い、この足場の強化はお手の物。


 爆発的な加速力を見せるシルティに対し、ファーヴは〈素質殺し〉を振るう。しかし、やはり稚拙。剣速こそ素晴らしいが太刀筋はだ。

 刀身の短さは本数で補う。回避と加速を両立する峰落みねおとしを左右で繋ぐ。甘く触れれば即座に死ぬであろう〈素質殺し〉と優しく擦れ違い、シルティは再び獲物を間合いに取り込んだ。

 現在地はファーヴの右首筋。

 少し回れば後頸部に届くだろう。

 右翼の動きは殺した。〈素質殺し〉を振るったばかりの右前肢は間に合わない。

 中肢翼の根本と同じぐらい深く斬れば、きっと頸椎を分断できるはずだ。


「きひッ!」


 竜の命にこのが届くという実感がシルティの思考をとろけさせる。

 初対面のときは碌に斬り裂けなかったファーヴの鱗が、今は斬れるのだ。海水の重さと粘さから解放されたということもあるが、それ以上に、シルティは自らの斬術の飛躍を確信していた。

 深海で真竜エウロスの脇の下を斬った。咥えられながらも硬口蓋を斬った。陸に上がり、喉元も斬った。先ほどは翼の根本の太い筋肉すら斬った。

 世界最強種の中でも特に強大と知られる真竜エウロスの身体を、私は四度も斬っている。

 真竜エウロスとて動物であることに違いはない。斬られるたびに生命力の作用は防御に傾き、どんどんと硬くなっているはずだ。

 それでもなお、一度目より二度目の傷は深く、二度目より三度目の傷は深く、そして三度目より四度目の傷の方が深かった。

 ならば五度目は。

 ファーヴは凄いが私の方が凄い。

 総合的な強さはともかく、私は誰よりも斬るのが上手い。


 己が成した所業の正否を問わず無限に肯定を重ねる蛮族の精神が宿るのは、自我すら希薄な時分から刃物を愛していた人類種の特異点、シルティ・フェリス。

 昨日の夜の私より今の私の方がずっと鋭い。

 今の私よりほんの一瞬未来の私の方が鋭い。

 積み重なる実績はシルティの鋭さをシルティ自身に過大評価させ、世界はそれを喜んで容認した。


「あはァッ!!」


 凶器的な嬌笑きょうしょうと共に順手に握る二刀を閃かせ、真銀ミスリル不銹ふしゅうはさみで暗橙色の鱗を、

 斬れなかった。


「あっ?」


 唖然とするシルティ。


〝ははっ〟


 対するファーヴは笑みと共に頭を振るう。

 後頭部から伸びる一対二本の捩じれた角がシルティの右脇腹をとらえ、音もなく、致命的にえぐった。


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