第236話 陸の上でちゃんと



 とある小さな絶海の孤島、その波打ち際に、一人の嚼人グラトンがうつ伏せに倒れていた。

 両手両足は力なく砂浜に投げ出されているが、その右手には質実剛健な真銀ミスリルの太刀がしかと握られている。溺死した鼠といった姿だが、胴は規則的に上下しており、呼吸はあるようだ。

 海の底で世界最強種にボコボコにされた者が、どういうわけか陸地に漂着した、といった様相である。


「……ぅ、……ん……」


 それが、呻き声と共に身じろぎをした。

 薄っすらと目を開け、そのままぼんやりと視線を彷徨わせる。


(!)


 次の瞬間、意識がはっきりしたのか、彼女は凄まじい勢いで跳び起きようとした。

 が。


「うっ、ぁ」


 下肢が言うことを聞かず、そのまま、くずおれた。

 受け身を取ることもできずに突っ伏し、左頬で砂浜を強打して鈍い音を立てる。


(うぐ? んっ……あれ、脚……あ?)


 意識の混濁。

 記憶の錯乱。

 随所の激痛。

 絶不調な肉体とは裏腹に、気分だけは素晴らしく良かった。なにか、気をりそうなほど気持ちの良い時間を過ごしたあとのような、そんな夢見心地である。

 しかしそれはそれとして、今にも死にそうだ。

 蛮族の娘シルティ・フェリスはほぼ無意識のうちに唇を開き、口元の砂をかじり取るように貪った。

 魔法『完全摂食』は嚼人グラトンという種の最大の強み。身体の内から噴出する生命力を全身の隅々まで行き渡らせ、脳と身体にかつを入れる。


(私、は……ああ、そうだ。真竜エウロス、と……)


 祝福してくれるような美しい朝日の中で、シルティは己の過去を思い出した。

 深海。静寂と暗闇。魔道具がもたらす白く冷たい光。愛する〈虹石火〉と真竜エウロス。殺し合い。そして、惨敗。

 手も足も出なかった。

 左前肢の脇の下。右前肢の第五指。右後肢。口蓋。シルティがの竜を斬ったのはたったの四回で、そのうち傷と呼べるのは最初と最後、脇の下と口蓋だけだ。最も深手だった口蓋の傷も、竜ならば一呼吸の間に全快してしまう程度のささやかなものである。


(死に際の夢を見てる……んじゃ、ないよね)


 あの時、シルティは呼吸用魔道具〈兎の襟巻〉を自ら破壊した。水撃式移動法を絶え間なく繰り返したとしても絶対に間に合わない深さだった。シルティ単独ではどんな奇跡が起きても死ぬしかない状況だった。

 にも拘らず、今、陸上で安穏と呼吸をしている。

 理由はともかく、方法はひとつしかないだろう。真竜エウロスがシルティを深海から運び出してくれたのだ。

 六肢竜ともなれば、あの深さからシルティが窒息するより先に海上へ脱出することも容易い……だろうか?


(なんで、食べてくれなかったんだろ……私、不味かった、かな……)


 ふうー、と深い吐息をひとつ零す。潰された鼻の奥にとした感触があった。噴き出した鼻血が完全に乾いている。空気中で結構な時間が経っているようだ。

 喘ぐようなか細い呼吸を繰り返しつつ、シルティは目を閉じ、皮膚感覚で刃物の所在を認識した。

 愛刀〈永雪〉はこの手にある。鞘も左腰で健在。右腰には〈銀露〉もいる。十二枚の飛鱗のうち、十枚は革鎧の所定の位置に。真竜エウロスに敗北する直前に切り離していた〈瑞麒みずき〉と〈嘉麟かりん〉は……ああ。よかった。シルティのハーネスべルトに挟まれている。

 自分の身体よりよっぽど価値のある刃物たちの無事を確認したシルティは、改めて左手を動かし、砂を掻き集めるようにして口元へ運んだ。ジャリジャリという不快な歯応えなど気にしている余裕はない。ひたすらに生命力を補給し、腹部と腰部に穿たれた穴の列の再生を促進する。足の麻痺はひとまず後回しだ。まずは出血を止めなければ。


(……というか、脚、残ってたのか)


 竜の咬合力の前に嚼人グラトンの身体など薄絹のようなもの。当然、シルティは自らの身体がへそ辺りで上下に分断されたものと認識していたが、事実として今もこうして下半身は繋がっている。つまり、真竜エウロスはシルティを噛み千切らぬよう、意識して優しく咥えていたということだ。

 脊髄を損傷して無様に転がったシルティに鮮やかな口腔を見せてくれたあの時点で、既に真竜エウロスはシルティを殺す気がなかったのだろう。

 遊ばれているなとは思っていたが、どうやら、シルティが思っていた以上に手加減されていたらしい。


「ふ。ふふ……」


 狂おしいほどの熱を孕んだ笑みが漏れる。

 故郷で父や先達の戦士たちに訓練を付けて貰っていた頃を思い出す。彼我の隔絶した実力差。ここ最近ではなかなか味わうことのなかった懐かしい悔しさだ。

 弱さへの悔恨と強者への羨望をすする。一滴たりとも無駄にはしない。

 どういう意図があったのかはわからないが、こうして命が残ったのだ。次の機会にはもう少し本気を出させてみせる。いや。殺してみせる。


〝いつ治る?〟

「んぁっ!?」


 突如として脳内に叩き込まれた背筋せすじを跳ねさせ、シルティは慌てて視線を巡らせようとした。


「うおっ」


 探すまでもなかった。

 暗橙色あんとうしょくの鱗を持つ六肢竜、真竜エウロスが、シルティの真正面に陣取っていた。

 むしろなぜ今まで気付かなかったのか、といった位置関係である。

 世界最強種となれば隠密能力も当然のように超常の域なのはわかっているが、今回は単純に、寝起きのシルティが鈍過にぶすぎただけだろう。よくよく見れば、その前肢の間には愛する家宝が緩く突き刺さっていた。当竜が言っていたように、彼は〈虹石火〉に対し結構な執着心を持っているらしい。


 ともかく。

 今は、問われたことに答えよう。

 肉体の負傷箇所を改めて認識する。潰れたあとに強引に整復しただけの鼻。よくわからないうちにただれていた肌。ぼっきりと折れてしまった鎖骨と尺骨、亀裂の入った橈骨。全身の筋肉が至る所で断裂している。そして最も深刻なのが両足の麻痺だ。腕は動くので、腰椎のどこかがやられて脊髄が損傷したのだろう。

 鼻と肌は比較的どうでもいいが、筋繊維断裂と骨折、そして麻痺は、戦闘能力に大いに影響する。しかし、欠損したわけではない。鎖骨と腕はそう時間をかけずに治るだろう。足は……全力で促進させて、明日の昼ぐらいか。


「……明日の昼、までには、なんとか」

〝ふうん。嚼人グラトンにしては遅いね〟

「ぐッ……」


 期待外れ。そんな意志の込められた『真意真言』を受け取り、シルティは羞恥に頬を染めた。再生促進が苦手なのは事実であるし、自らの未熟を過不足なく自覚するのもまた強くなるための道だが……世界最強種にそう認識されてしまうのはこの上なく情けない。


〝動きはなのにね〟

「え、へぁ。ふへっへ」


 と思えば、いきなり褒めてくれた。シルティの情緒は乱高下らんこうげである。

 にまにまとだらしのない笑みを浮かべる嚼人グラトンとは対照的に、真竜エウロスは退屈そうに顎門あぎとを大きく開き、吐息の塊を吐き出しながら閉じた。

 おお。真竜エウロスも欠伸とかするんだ。

 奇妙な感動を覚えるシルティなど意に介さず、真竜エウロスは四肢を折り畳み、中肢翼を身体に纏って、見るからに安らいだ体勢へと移行する。


〝まあ、いいよ。それくらいなら待つから、早く治してよ〟

「え? 待つ?」

〝海はお前の場所じゃなかった。でも、まあまあだった〟


 魔法『真意真言』を介したコミュニケーションに誤解は生じない。

 どうやら、海の底でのシルティの動きは竜のお眼鏡にかなうものだったようだ。


〝陸の上でちゃんとやろうよ〟


 魔法『真意真言』を介したコミュニケーションに誤解は生じない。

 陸の上でちゃんとやろう、とは、陸の上でちゃんとろう、と言う意味だ。


「是非ッッッ!!」


 シルティは絶叫するように了承した。

 真竜エウロスに共通する性質なのかは定かではないが、少なくとも眼前のこの個体は、蛮族とかなり共通した価値観の持ち主らしい。





【ローゼ! すみません、今すぐ来てください!】


 懐から取り出した契約錨に呼びかける。

 ほどなくして水珠が崩れ、青虹色の球体が出現した。


【生きていッ! だェッ!?】


 言葉の途中でらしからぬ驚声を上げ、ぎゅっと縮こまるローゼレステ。見かけの体積が普段の十分の一程度になっており、しかも、ぶるぶると細かく振るえていた。

 その慄きと怯えが向けられる先は当然、シルティの付近でとぐろを巻いている真竜エウロスである。


【……お前。生きていたのは、まあ、喜ばしいがっ。なんというところに呼び付けるんだっ。六肢がいることくらい先に伝えろッ】

【あ。え。へ。すみません。気が回らず】


 ひそひそと囁くような音量で訴えるローゼレステ。

 契約錨インシグネや『冷湿掌握』ではシルティの生死を直接的に感知することはできないが、ローゼレステはその魔法により、海底での殺し合いの様子を精彩に認識できたはずだ。戦いの結末として嚼人グラトンがばくんと咥えられ、その後、六肢竜が海底から泳ぎ去ったこともわかっていただろう。ローゼレステの主観的にはシルティは完全に死んでいる。

 レヴィンを慰めつつシルティの死を伝えようと試行錯誤していたところに、シルティごと六肢竜の胃袋に収まったと思っていた契約錨インシグネからシルティの声が聞こえ、どうやら奇跡的に命を拾ったらしいと急いで来てみれば、そこにはなぜか、精霊種すら容易く食い殺せる六肢竜が待ち受けていたのだ。

 にまにま笑っている阿呆シルティに文句を言いたくなるのも無理はない。


【いろいろあって、陸上で竜と殺し合えることになりました!】

【……お前、シルティ、お前……】

【レヴィンはどうしてます? 元気ですか】

【……生肉を焼いていた】


 肺などないはずなのに、シルティにはローゼレステが溜め息を吐いたように感じた。


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