第235話 斬ってから死ね



 視界が急激に明るくなった。

 無限と思えるように広がる深海でなく、手を伸ばせば届くような狭い空間に取り込まれたからだ。〈情愛の名残〉の放つ白光が真竜エウロスの口腔内を照らしている。反射する光が目が痛いほどに眩しい。


「ぎッぅ!」


 直後に、腹部に鈍い衝撃。竜の歯の前にはどんな装甲も無意味だ。飛鱗を容易く貫かれた。武具強化を介した根源的な痛みが脳を貫く。皮膚と筋肉を貫かれる痛みなどよりよっぽど痛い。

 愛する〈貅狛きゅうはく〉と〈獅獬しかい〉の悲鳴がシルティを陶酔から現実に引き戻した。

 竜に殺されることに文句などあろうはずもない。蛮族として最高の死である。

 だが、シルティが真竜エウロスに与えた痛みは、引っ掻き傷にも満たない初撃あれだけだ。


 不意に、シルティの脳裏にローゼレステの姿が浮かんだ。

 二度も真っ二つにぶった斬ったあの日。

 ローゼレステはそう言っていた。私はまだ死ねない。

 そうだ。私もまだ、死ねない。

 せめてもう少し。

 明確な傷を与えてから、死にたい。


 愛刀〈永雪〉を両手で握る。

 鍔元を右首筋に当て、〈兎の襟巻〉を切断した。

 魔術的回路を完全に断たれたことで機能を喪失。シルティの口元を覆っていた空気は超常の粘性から解き放たれる。

 頭を振るう。空気を散らす。

 この期に及んで呼吸など要らない。必要なのは食い物だ。


 木製ストローを噛み砕く。海水と一緒に嚥下。もっとだ。深呼吸のような勢いで海水を捕食する。

 再生の促進などもはや不要だ。どうせ死ぬ。辛うじて残った消えかけの命。これは眼前の景色を斬るために残存している。

 獲得した膨大な生命力を全て〈永雪うで〉へ。

 下肢は動かない。もはや感覚もない。多分、へそより下は千切れているだろうな、とシルティは思った。六肢竜の咬合力の前にシルティの肉体強度など紙切れ未満なのだ。革鎧の防御力など焼け石に水滴である。

 斬術の肝要たる脚を失った分の踏ん張りは、愛する飛鱗たちに補って貰おう。〈貅狛きゅうはく〉と〈獅獬しかい〉だって、瀕死の有様ではあるが、まだ死んではいない。

 死んでいないなら動けるはずだ。刃物たちは私の子供。蛮族の一員なのだから。

 今この瞬間がこの命の最期にして最大の見せ場。

 蛮族私たちたぎらずにいられるわけがない。


「ご、ぷぇっ」


 喉から妙な音が漏れ出た。

 せたのか、笑ったのか、自分でもよくわからない。

 仰向けに寝転んだような体勢で大上段に構える。

 眼前にはうねのような口蓋襞こうがいひだが無数に並んでいた。咽頭の方までしっかりと続く分厚く固い口蓋。体表をよろう鱗の存在や同歯性の歯牙などから蜥蜴トカゲなどの爬虫類に近い印象を受けたが、真竜エウロスの口蓋はむしろ哺乳類けもののそれに近い構造のようだ。


 口蓋襞に対し垂直に引かれた口蓋縫線こうがいほうせんはシルティの正中線と平行。ゆえに、シルティは己が奥歯ではなく門歯まえばで咥えられていることを理解した。

 真竜エウロスの口蓋を内側から見上げた経験のある嚼人グラトンは人類種の歴史の中でもそう多くはないはずだ。今際いまわきわの光景としては最上さいじょうのものである。

 口先で咥えられているこの状況。真竜エウロスは吻がすらりと長かった。鍔元まで〈永雪〉を刺したとしても脳には届かないだろう。

 殺せない。

 それでもいい。

 シルティの表情筋が無意識に動き、涎を垂らさんばかりの笑みを形作った。


 私は生きる刃物。

 刃物を持つ刃物。

 悉くを斬る存在。


 集中。

 生涯最高の時間分解。

 脳の全ての機能が切断への情愛に塗り潰された。

 斬るためにある身体を斬るために動かすのだ。綺麗に動かないはずがない。刃筋を立てられないはずがない。

 私は蛮族のシルティ・フェリス。

 死ぬならこれ斬ってから死ね。


 産まれながらに刃物を愛する人類種の特異点が、自我を失うほどの渇望を込めて放つ、極限の唐竹割り。

 銀煌の刃は竜の硬口蓋に弾かれることなくザクリと滑り込むと、正中線に沿って斬り進み。

 すぐに、止まった。

 残せたのは、僅か腕一本分の長さの裂傷。

 斬り込んだ反作用でシルティの肉体は真竜エウロスの喉奥方向へ引っ張られ、腹部と腰部に突き刺さった杭の列が筋肉を無残に引き裂く。


 ああ。くそう。

 さすがは竜だ。

 及ばなかった。

 斬れなかった。


「ふふっ」


 直後、頸椎から轢音が響き、視界が直角に横転。

 竜の舌先で側頭部を殴られたのだ、と理解する暇もなく、シルティの意識はぷつりと途切れた。





 ちょうどその頃、海上のレヴィンは待機用の部屋を作り終えたところだった。

 そして、レヴィンに寄り添うローゼレステは、シルティの戦闘の余波を人知れず感じ取り、戦慄を覚えていた。

 シルティが深海の水圧に耐えられるよう、ローゼレステは契約錨の座標を常に認識し、魔法『冷湿掌握』を使い続けている。水精霊ウンディーネの魔法に生命力を感知するような作用は備わっていないが、掌握した冷湿への物理的な干渉を感知することはできるため、シルティの周囲に馬鹿げた衝撃が何度も加わったことは手に取るようにわかるのだ。

 掌握した海水を千切り飛ばされ、磨り潰され、沸騰させられ、その都度、可能な限り圧を相殺する。

 そんな作業を繰り返しながら、ローゼレステは、シルティが死ぬであろうことを察した。

 やはり六肢は、尋常な魔物が歯向かえるような存在ではないのだ。


 人類種と比較すれば希薄ではあるが、水精霊ウンディーネにも家族間の愛情というものはある。

 あれだけ仲のよい姉妹家族。一人取り残されることになるであろうレヴィンが、不憫に思えた。

 毛の生えた顔面に近付き、湿り気を帯びた無毛の黒い部位に触れる。

 ふすーっ、と長い鼻息で押し返された。遊びだと思っているのか。

 違う。そうじゃない。


 意思疎通ができないのは面倒だな。

 レヴィンが水霊言語を覚えてくれるのは、何巡先のことだろうか。


 シルティが死んだあともレヴィンとの付き合いを継続させようと思っていることを、ローゼレステは自覚していなかった。





 魔道具による光源が消え、暗闇を取り戻した深い海の底。

 人類種から真竜エウロスと呼ばれるその六肢動物は、翼に変じた中肢を折り畳みながら足踏みをして体勢を整え、くびをにゅうっと伸ばしながら視線を真上に向けた。

 既に時刻は夜。海の上では太陽も完全に沈み、下弦の月が昇っている頃合い。世界最強種の眼球がいかに優れているとしても、さすがにここから月光を目視することは不可能だろう。物理的に完全に減衰されてしまうはずだ。

 だというのに、真上を向いた真竜エウロスは眩しそうに目を細めている。

 光とは別のなにかを認識しているのだろうか。

 緩く閉じられた口唇部からは嚼人グラトンの足が力なくはみ出ており、大量の血液が赤いもやとなって漏出している。


 しばらくその体勢のまま静止していた真竜エウロスだったが、やがてぱかりと顎を開け、嚼人グラトンの身体を完全に口腔に収めた。

 そして、唐突に項垂れ、大量の呼気を口から吐き出し始める。

 ゴボゴボという濁った轟音と共に噴出した膨大な気泡の群れは浮力に従って漏斗状に広がり、真竜エウロスの頭上の空間を塗り潰していく。

 長々とした溜め息、なのだろうか。

 その身に宿す魔法のおかげで、真竜エウロスは六肢竜の中でも特に人類種に対する理解が深いはずだ。先ほどまでじゃれ合っていた稀有な性質の嚼人サルに、なにか思うところがあったのかもしれない。


 続いて、真竜エウロスは頸部をゆっくりと屈曲させて頭部を垂らすと、自らが懐の内に隠していた森人エルフの産物を右前肢の鉤爪で器用に摘まみ上げた。

 再び視線を頭上へ。

 ただし、今度は真上ではなく、斜め上だ。

 折り畳んでいた中肢翼ちゅうしよくを広げ、ゆったりとした動きで跳躍。

 翼を大きく羽ばたかせながら尾をくねらせ、空を飛ぶような挙動で遊泳を開始する。


 あっという間に恐ろしいほどの速度に到達し、深海を泳ぎ去って行った。


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