第234話 壊さぬように



 明滅する視神経。潰れる肺腑。背後へ流れる身体。無数の気泡。強烈な耳鳴りと眩暈。灼熱感を訴える顔面。

 氾濫した暴れ川のような凶悪な乱渦に呑み込まれる。海底から巻き上げられた濃密な粉塵がシルティの視界を奪った。十数回も回転してからようやく飛鱗たちの補助で体勢を整え、鉛直下方に身体を押し付けて着地。視線を巡らせる。


 真竜エウロスと目が合った。

 海底から巻き上げられた煙霧に包まれていたはずの姿がよく見える。縦長の瞳孔。小さめの鱗で守られた瞼。超格好いい。

 見惚れている場合ではない。

 間髪入れず短い跳躍、水中で身体の前後を入れ替え、再着地。すでに与えられた慣性を殺さず、そのまま自らの速度へ流用する。

 木製ストローが粉砕されてしまった。咥えたままの残骸をバリボリと咀嚼して嚥下。速やかに予備を取り出し、咥え直す。

 ふと気が付けば、鼻が折れていた。いや、鼻だけではない。左腕の動きに違和感。どうやら鎖骨がぼっきりやられてしまったようだ。顔も胸も腹も足も、身体の前面全体が猛烈に痛い。


 問題なし。

 ストローと鼻と鎖骨は折れたが、大事な保護眼鏡ゴーグルは無事だ。あまりの衝撃のせいか口元を覆っていた気泡は霧散したが、幸いにも一時的なもので、すぐに復活した。呼吸用魔道具〈兎の襟巻〉も照明用魔道具〈情愛の名残〉も故障していない。これならまだまだ戦える。

 満面の笑みを浮かべながら鼻筋を摘まみ、元の位置へと整復。


(ん?)


 指先に違和感。鼻筋や目の下をなぞる。

 ひりつくような痛みと共に、表皮が裂けてめくれた。

 ただれたような感触。


火傷やけどしてる?)


 軽度の火傷だ。顔面や首など、肌が露出していた部位が広く浅く焼けている。

 粉塵に包まれた真竜エウロスがどういう手段でシルティを吹き飛ばしたのか全く不明だが、まさか冷たい海の底で火傷を負うとは思わなかった。

 鼻を潰し骨を折るほどの衝撃と、肌を爛れさせる熱。『真意真言』でも『至金創成』でも『全棲適応』でも、当然『咆光』でも、このような傷は生じないだろう。シルティが知らないだけで五つ目の魔法があるのだろうか。それとも純粋な身体能力による現象だろうか。

 なんにせよ、真竜エウロスの遠距離攻撃の手段は『咆光』だけではないらしい。


 唇がにんまりと弧を描く。

 既に最高に楽しかったというのに、限度を超えて楽しくなってきた。

 贅沢を言えばやはり陸上で戦いたかったが、これもまた一興である。

 鼻腔に溢れた血液をすすり上げて飲み込み、生命力を補給。鎖骨骨折も火傷も今はどうでもいい。蕩けた視線を巡らせ、全力の踏み込み。

 海底を砕く。海底を砕く。海底を砕く。全身全霊の停止と加速を繰り返し、天をひび割る稲妻のように海水を貫く。


 とにもかくにも接近だ。シルティは剣士。太刀の間合いまで肉薄せねばお話にならない――とその時、海底に立ちこめる煙霧が膨らむように吹き飛ばされた。

 巨大な穴の開いた粉塵の向こう。

 前を合わせた外套のように中肢翼ちゅうしよくを身体に巻きつけた真竜エウロスの姿。

 ああ。だからさっき、目が合ったのか。

 そう察した直後、シルティを二度目の衝撃が襲った。


「ぐゔッ」


 明滅する視神経。潰れる肺腑。右方へ流れる身体。無数の気泡。強烈な耳鳴りと眩暈。灼熱感を訴える左頬。

 なるほど。なるほど。二度目でやっとわかった。

 身体の一面を均等的に襲う痛みが呼び水となって想起されたのは、ローゼレステと出会った日のこと。あの日、シルティは背中に不意打ちの爆風を受けて木の葉のように吹き飛ばされ、空中でレヴィンと分断された。こちらの方が何倍も強烈だが、これはあの時の痛みに近い。

 要するに、凄まじい圧力を孕んだ流体をぶつけられたのだろう。


 おそらく、中肢だ。海水を孕んだ翼を強引に振り抜き、水塊として叩き付けたのだ。六肢竜ともなればただ水を押しただけでシルティの骨を砕けるらしい。しかも、ローゼレステが今も施してくれている、水圧低減を貫通してである。

 しかし、肌を侵すほどの灼熱に関してはよくわからない。

 先ほどから衝撃の直後に無数の気泡が発生している。よくある空洞現象キャビテーションだと思っていたが、もしかして沸騰しているのだろうか。常温の鉄の棒を鎚で叩き続けるとやがて赤熱するほどの熱を帯びるが、水も超越的な力で叩けば熱を帯びるのかもしれない。


 まあ、いい。

 真竜エウロスが羽ばたけばシルティの身体は折られて焼ける、それだけを知っていればいい。

 揉みくちゃに乱回転する視界を集中によって遅延させ、〈永雪〉を振るって進行方向の海水を切開。粘性固体と化した海水を突き破るようにして減速し、体勢を整えた。


 シルティにはわかっている。六肢竜の身体能力ならば、どんな相手であってもとりあえず突っ込んでかじった方が早いに決まっているのだ。翼で水を叩きつけるような非殺傷的な手段を取る必要など欠片もない。

 つまり、真竜エウロスは今、シルティを壊さぬよう丁寧に

 これは是が非でもご期待に応えなければ。


 着地と同時に地面を蹴る。脚力による加速に合わせ、飛鱗たちもまた一挙に加速した。

 純粋な体捌きに超常の出力を加算。水中でありながら馬鹿げたキレを発揮し、前へ。同時に両胸に位置する〈瑞麒みずき〉と〈嘉麟かりん〉を分離。至近距離で追従させる。

 先ほど真竜エウロスが掃除してくれたので、舞い上がる粉塵は比較的晴れていた。真竜エウロスは相変わらず目を細めてこちらを見ている。今の内だ。

 一歩目。二歩目。

 直後、真竜エウロスが右前肢を振るった。


(うひっ)


 シルティの胴体ほどもある手掌が地面すれすれを薙ぎ払う。シルティからすると壁が迫ってくるようなものだ。横への回避は不可能。上への回避も不可能。後ろへの回避はなんか嫌だ。

 極限の集中が時間を無限に引き延ばす。

 瞬間、世界が止まった

 自分の位置と速度。竜の平手打ちの高さと速度。周辺環境と地形。全てを詳細に把握。

 三歩目。太腿の筋肉が引き千切れそうな全力の加速。

 鋭い呼気と共に両足を前後に開き、体重操作と飛鱗の補助を得て勢いよく沈身。突進の慣性を折り曲げて直下に流し、地面を強固に踏み締める。微かな地面の起伏を利用して致命の壁撃をくぐり抜けながら、左前腕を額に添えるようにして〈永雪〉のみねを支えつつ、柄を握る右手を前へ突き出した。

 全身全霊を込めて斜めに固定した刀身で、真竜エウロスの第五指を擦れ違いざまに撫で斬る。


「ッぐ!」


 軽やかにも思える擦過音とは裏腹に、重い。重すぎる。極めて浅い角度での接触にも拘らず凄まじい衝撃だ。

 さすがはシグリドゥルの傑作〈永雪〉、竜の一撃を逸らしてなお健在。しかし、峰を支えていた腕の方が持たなかった。感覚でわかる。尺骨は完全に骨折。橈骨は小さなひび

 大丈夫だ。痛いだけだ。まだまだ動く。

 竜の殴打に巻き込まれた海水がシルティの身体を強引に巻き込まんとする。先ほどから違和感があったが、今、はっきりした。竜の動きの激しさに対し、付随する渦の規模は驚くほどささやかなのだ。

 おそらく、ローゼレステの水圧軽減がいい方向に働いているのだろう。ありがたい。

 動きを止めるわけにはいかない。身体の周りを公転させた〈瑞麒〉と〈嘉麟〉で切開し、生意気な渦を削ぎ殺してさらに前へ。視線の端で真竜エウロスの前肢を捉える。

 鱗を微かに削れた。かもしれない。まあ、無傷と言っていいだろう。

 相手の攻撃力を切断力に変換する撫で斬りも、六肢竜の前には形無しである。


 シルティは笑った。

 客観的事実として、シルティは斬ることにかけては天才と呼べる個体だ。形相切断にも至り、〈永雪〉という極限の一振りを手にした今となっては大抵の物質を切断することができる。

 、斬れないのが嬉しかった。

 斬れないものを斬りたいと願うから成長できるのだ。

 私の斬術はこんなものではない。こんなものであってはいけない。

 水が粘いなら水ごと斬る。斬ってみせる。


 真竜エウロスが身動ぎをした。シルティが擦り抜けた右前肢を引き戻し、美しい肘打ちを見舞う。さすがは竜。爬虫類のような見た目からは想像もつかないような関節可動域だ。

 身体を低く。胸が地面を擦るほどに低く。脚力を全て推進力に変換する。水平に跳躍するような挙動で肘打ちをくぐり抜け、真竜エウロスの右後肢へ到達。鍔元から切先までを十全に使った水平斬りを見舞う。

 弾かれた。引っ掻き傷程度は残せたが、まだ斬れない。血を滲ませることすらできない。


 やっぱり竜は最高だ。

 一方で、なまくらなこの身体め。

 水ぐらい腕でも斬れるだろう。

 もっと行ける。皮膚も骨も筋肉も臓器も血管も、この殺し合いで怠けることは絶対に許さない。

 鋭い音を響かせ限界まで息を吸い、喉を締める。

 革鎧の内側で大きく膨らんだ胸郭を筋肉で潰し、はち切れんばかりの肺腑を使って心臓を圧縮した。


 蛮族の心臓が一瞬の停止を経て爆発する。

 炉の如き熱量が全身を駆け巡り、海水によって冷却された。

 ああ。冷たくて気持ちがいい。ならもっと熱くなっても大丈夫だ。

 海水を絶え間なく嚥下。沸騰し噴きこぼれた生命力がシルティの身体を虹色に揺らがせる。


〝ふ〟


 短い笑みの感情がシルティの思考に注がれた。

 魔法『真意真言』のおかげでわかる。

 真竜エウロスは今、〈永雪〉を

 誇らしく思った、直後の直感。


 重心。四肢の位置。畳まれた中肢翼。来る。

 瞬時に後跳。両足を前へ差し出したところで、予想通りのが来た。

 単純な体積。致命的な質量。シルティの反応速度は超越的と呼べるものだったが、これはもう、どう頑張っても躱せない状況だった。ぶっちゃけた話、でかいやつはそれだけで強いのだ。

 主観を延長。体重を軽量化。

 襲い来る巨大な竜の臀部に両足を付け、膝の屈伸で可能な限り衝撃を吸収する。


「ぐヴぇっ」


 無論、その程度の小細工でどうにかなるものではない。骨盤に亀裂が入るような感覚。肺腑が潰れて汚らしい息が漏れる。腰椎が限度を超えてたわみ、一瞬、脚に痺れが走った。

 弾むように吹っ飛ばされ、水中にいるまま体勢を整えようとして、失敗。

 地面を削りながら転がり、止まる。


 まだまだ、これからだ。

 粘つく空気を吸い込み、左手で砂を掻く。

 が、立ち上がれない。

 足が、ぴくりとも動かない。


(う、ぐ)


 まずい。脊髄に傷でもついたか。下半身が麻痺している。

 斬術は腕だけでやるものではない。足が動かねば碌に斬ることもできない。

 死んでもいいが斬れないのは嫌だ。死ぬときは斬れる身体で死にたい。

 焦燥感に思考を漂白された蛮族の娘に、真竜エウロスが頸部を伸ばし、頭部を近付けてきた。

 開かれた顎門あぎと。鮮やかな口腔、縁に並んだ美しい白牙。

 焦燥が陶酔に変わる。


 ああ。

 私の死は綺麗だ。



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