第233話 一匹見たら三十匹
「ふー……ぅ……」
息を静かに吐く。
相手は竜だ。六肢竜の中でも特に強大と知られる
間合いは平常歩数で二十弱。シルティの間合いには遠いが、
手を伸ばせば触れられそうな死の気配がこの上なく心地よかった。
自動的に興奮して火照る身体を深海の水が冷やしてくれる。
(目)
周囲が生命力に染め上げられているせいで精霊の目はまともに働いてくれない。この状況で
今この瞬間に、どうにかして強化効率を引き上げなければ。
集中と警戒を解かぬまま、手首を捻って〈永雪〉の刀身の角度を変える。鏡面のように磨き上げられた
当然、眼球を覆う
虹色に揺らいでいるということは生命力に満ちているということだ。
そう、自分に言い聞かせる。
私はこれに自己延長感覚を確立した。
これはもう一枚の
これは水中視界を確保してくれる大事な
繰り返し、自分に言い聞かせる。
半ば本能的に行なった自己暗示。
効果があったかどうかは、明日の自分が生きているかどうかで判明するだろう。
(足)
シルティは
今は支えのない水中を漂っているわけではない。
周囲がちょっとばかり
いや、動いて見せる。
(よしっ)
両手で握る〈永雪〉を緩く下げ、下段の構えに移行。
恋慕のような視線を
息を静かに吸い。
止めて。
跳び出す。
一歩。下ろした切先で地面に線を描く。
二歩。普段に輪をかけた極端な前傾姿勢へ移行。
三歩。やっとの思いで最高速度に到達。いやはや、やはり粘い。目を覆いたくなるようなキレの悪さだ。
蛮族の踏み込みにより粉砕された海底が思い出したかのように爆散し、噴火したかのように砂煙を放出した。それらは舞い上がる暇もなく轟轟と渦を巻き、細かな気泡を生じながらシルティの移動軌跡に流れ込む。
空気中でもある程度以上の速度を出せば粘性の壁にぶち当たるが、水中の壁にはもはや粘性などなく、完全な固体のようにしか感じられなかった。レヴィンが展開する霧状珀晶を何百倍にも硬く何万倍にも緻密にしたような肌触り。幸いにも
シルティは表情に出さずに笑った。
自分の速度の素晴らしさを身体で感じられているようで気分がいい。
四歩――あ。
死ぬ。
そう判断した根拠も曖昧なまま、シルティは伸ばした左足で地面を貫き、全身全霊の急制動をかけた。体捌きと飛鱗たちの献身により慣性を直角に折り曲げ、死に物狂いの跳躍へ移る。
間
ヴュボッ。奇怪な濁音を半長靴の肌で感じ取る。馬鹿げた速度で強引に掻き回された海水に低度の真空が生じ、大規模な
シルティは凶渦に巻き込まれようとする自らの身体を飛鱗たちの補助を得て強引に
この間合いは特に駄目だ。
〝お〟
脳内に刷り込まれるのは驚いたような意思。シルティの回避に感心してくれた。嬉しい。頬が緩む。
とはいえ、戦闘の役には立たないだろう。
というより実のところ、竜共通の破壊魔法『咆光』を除き、
三つ目は『
といっても、魔術の世界ではこれを個別の魔法と見做すかどうかは意見が分かれるところらしい。なぜなら、
これは世界に対し『真意真言』を行使しただけで、
残る最後の一つは
人類種が知る限り、窒息および寿命による死から解放された唯一の生物が、
どれも素晴らしい魔法なのは間違いない。
だが、近接戦闘において警戒すべき魔法は『咆光』のみ。それより恐ろしいのは純然たる身体能力だ。シルティはそう判断した。
肉薄完了。
振り抜かれた左前肢の根本、脇の下を刃圏に収めた。
いやはや、なんと太い
顔ほどもある
脇の下。
こんなところをちょっと斬ったところで竜は殺せない。
六肢動物の再生能力の素晴らしさは
シルティの戦闘理性が訴えている。
こちらの攻撃力を見せびらかす必要はない。相手は自分を傷付けられるのだと意識すれば生命力の作用は自然と防御に傾き、体表の強度が増してしまう。つまり、一回でも斬って見せれば、
無論、見事に斬ったという実績はシルティの武具強化も飛躍させるだろうが……
要するに、狙うべきは一撃必殺。斬るべきは頸部だ。
シルティの戦闘本能が叫んでいる。
さらに硬くなった
「きひッ!」
理性と本能を乗せられた天秤は勢いよく傾き、理性はどこかに飛んで行った。
果たして自分に六肢竜の鱗を斬れるだろうか、などという疑問は欠片も覚えなかった。私は斬るために生きている。〈永雪〉も斬れると言っている。ならば斬れる。斬る。斬れなかったら死ぬ。
体重を瞬発的に倍増。並行して飛鱗たちに身体を押さえ付けて貰い、海底を
その時、シルティが脳裏に描いたのは
皮膚は柔軟な袋。骨は芯であり軌条。そして筋肉は重い液体。足底、足首、下腿、膝、太腿、骨盤、脊椎、莫大な力の流れを滑らかに束ねて渦を成し、余さず両腕へと注ぎ込む。
解き放たれた銀煌の刃が描く軌跡は右逆袈裟、そして左袈裟。
完全な同一軌跡を
良し、という喝采。
くそ、という悔恨。
相反する感情に浸る暇もなく、シルティは全力で退避に移る。
半瞬前までシルティの存在した空間を叩き潰す右前肢。
舞い上がる粉塵が
「ひゅっ」
短く呼吸。肺の空気を入れ替える。
喝采の理由は斬ったという実績。微かだが、紛れもなく斬った。〈永雪〉は
悔恨の理由は与えた傷の程度。あまりにささやか過ぎる。
〝ふうん?〟
舞い上がる赤茶けた煙霧の中から
実際に音の形を成しているわけではないが、どこか軽口のような響きに思えた。しかし、油断はできない。
〝
「んふっ。それほどでも」
〝もしかして、もっと居る?
「え? いえ、私ひとりです。えと、ヴィヴというのは? 名前のようですが」
〝俺の兄貴だよ〟
どこか気安げな雰囲気を感じる。『真意真言』に誤解は生じないはずだ。この
だとしたら最高だな。容赦なく殺してくれそうだ。
そう思った瞬間、シルティの身体は木っ端のように吹き飛ばされた。
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