第233話 一匹見たら三十匹



「ふー……ぅ……」


 息を静かに吐く。

 相手は竜だ。六肢竜の中でも特に強大と知られる真竜エウロスだ。

 間合いは平常歩数で二十弱。シルティの間合いには遠いが、真竜エウロスの間合いにはとっくの昔に入っている。つまり、次の瞬間に死んでいるかもしれないということだ。誇張などではなく、竜のキレはそれを容易く実現する。

 手を伸ばせば触れられそうな死の気配がこの上なく心地よかった。

 自動的に興奮して火照る身体を深海の水が冷やしてくれる。


(目)


 周囲が生命力に染め上げられているせいで精霊の目はまともに働いてくれない。この状況で保護眼鏡ゴーグルを失えばそれは死と同義。しかし、この保護眼鏡ゴーグルは本格的に使い始めてまだ三か月ほど。生命力の導通も可能になってきたとはいえ、革鎧や半長靴と比べればあまりに頼りない。

 今この瞬間に、どうにかして強化効率を引き上げなければ。


 集中と警戒を解かぬまま、手首を捻って〈永雪〉の刀身の角度を変える。鏡面のように磨き上げられた平地ひらじ。膨大な生命力で満たされて虹色に揺らぐ刀身に映るのは、虹色に揺らぐ自分の目元である。

 当然、眼球を覆う保護眼鏡ゴーグルもまた虹色に揺らいでいた。

 虹色に揺らいでいるということは生命力に満ちているということだ。

 そう、自分に言い聞かせる。

 私はこれに自己延長感覚を確立した。

 これはもう一枚のまぶた

 これは水中視界を確保してくれる大事な瞬膜しゅんまく

 繰り返し、自分に言い聞かせる。


 半ば本能的に行なった自己暗示。

 効果があったかどうかは、明日の自分が生きているかどうかで判明するだろう。


(足)


 シルティは皮膚はだ感覚を重視して半長靴に生命力を通し、柔らかな海底を丁寧に踏みにじった。

 今は支えのない水中を漂っているわけではない。棘海亀とげウミガメ巨鯱おおシャチとの殺し合いとは違い、足元には頼もしい地面があるのだ。

 周囲がちょっとばかりねばっこいが、飛鱗たちに浮力を即時更新的に相殺して貰えば地上と同じように動けるはず。

 いや、動いて見せる。


(よしっ)


 両手で握る〈永雪〉を緩く下げ、下段の構えに移行。

 恋慕のような視線を真竜エウロスへと送った。

 まぶたと瞳孔を全開にする蛮族の娘とは対照的に、腹這いに近い体勢の真竜エウロス紅橙色こうとうしょくの目を細め、穏やかにも見える表情で嚼人グラトンを観察している。


 息を静かに吸い。

 止めて。

 跳び出す。


 一歩。下ろした切先で地面に線を描く。

 二歩。普段に輪をかけた極端な前傾姿勢へ移行。

 三歩。やっとの思いで最高速度に到達。いやはや、やはり粘い。目を覆いたくなるようなキレの悪さだ。

 蛮族の踏み込みにより粉砕された海底が思い出したかのように爆散し、噴火したかのように砂煙を放出した。それらは舞い上がる暇もなく轟轟と渦を巻き、細かな気泡を生じながらシルティの移動軌跡に流れ込む。


 空気中でもある程度以上の速度を出せば粘性の壁にぶち当たるが、水中の壁にはもはや粘性などなく、完全な固体のようにしか感じられなかった。レヴィンが展開する霧状珀晶を何百倍にも硬く何万倍にも緻密にしたような肌触り。幸いにも保護眼鏡ゴーグルは耐えてくれているが、氷点下のやすりで頬肌を削られているような激痛だ。

 シルティは表情に出さずに笑った。

 自分の速度の素晴らしさを身体で感じられているようで気分がいい。


 四歩――あ。

 死ぬ。

 そう判断した根拠も曖昧なまま、シルティは伸ばした左足で地面を貫き、全身全霊の急制動をかけた。体捌きと飛鱗たちの献身により慣性を直角に折り曲げ、死に物狂いの跳躍へ移る。

 間髪、大きく振るわれた左前肢がシルティの爪先をかすめた。

 ヴュボッ。奇怪な濁音を半長靴の肌で感じ取る。馬鹿げた速度で強引に掻き回された海水に低度の真空が生じ、大規模な空洞現象キャビテーションが発生したのだ。視界を覆い尽くすような低圧気泡群が膨張し、そして瞬時に収縮を開始する。

 シルティは凶渦に巻き込まれようとする自らの身体を飛鱗たちの補助を得て強引に、〈永雪〉を一閃した。気泡と海水を纏めて切開。形相切断で斬り固めた円板足場を踏み締め、やや下斜方に跳躍。海底に墜落するような軌跡で足場を確保し、這いつくばるような体勢で疾走を再開する。

 この間合いは特に駄目だ。真竜エウロスの掻撃が一番いいところで当たってしまう。さらに前へ。


〝お〟


 脳内に刷り込まれるのは驚いたような意思。シルティの回避に感心してくれた。嬉しい。頬が緩む。

 真竜エウロスの宿す四つの魔法の一つ、『真意しんい真言しんごん』。真竜エウロスはこの魔法により別種の六肢竜と出会っても争うことなく異種族間交流をこなし、場合によっては別種六肢竜同士の仲を取り持つこともあるという。

 とはいえ、戦闘の役には立たないだろう。

 というより実のところ、竜共通の破壊魔法『咆光』を除き、真竜エウロスの魔法はどれも戦闘に適しているとは言えないものばかりだ。


 三つ目は『至金しきん創成そうせい』。世界に広く知られる四大超常金属のうちの一つ、不滅の代名詞至金アダマンタイトをこの世に誕生させる魔法だ。

 といっても、魔術の世界ではこれを個別の魔法と見做すかどうかは意見が分かれるところらしい。なぜなら、真竜エウロスが『こういう形のきんが欲しい』という意を発すると、それがからだ。

 これは世界に対し『真意真言』を行使しただけで、至金アダマンタイトが生じるのはただの結果、とする学者もいるとか。


 残る最後の一つは真竜エウロスが具現化した不滅と呼ばれる理由、恒常魔法『全棲ぜんせい適応てきおう』。

 真竜エウロスは正真正銘の意味でどんな環境でも生きていける。陸上や天空はもちろん、深い海の中、暗い岩窟の中、熱い熔岩の中、、ありとあらゆる全ての環境で、快適にだ。他ならぬ真竜エウロス自身が言っていたという記録が残っているので間違いないだろう。

 人類種が知る限り、窒息および寿命による死から解放された唯一の生物が、真竜エウロスという六肢動物なのだ。エラもないのに、こうして深海の底で呑気に〈虹石火〉を抱き枕にしているのがその証明である。


 どれも素晴らしい魔法なのは間違いない。

 だが、近接戦闘において警戒すべき魔法は『咆光』のみ。それより恐ろしいのは純然たる身体能力だ。シルティはそう判断した。


 肉薄完了。

 振り抜かれた左前肢の根本、脇の下を刃圏に収めた。

 いやはや、なんと太いあしなのだろうか。周長はシルティの胸囲を四倍しても届かないだろう。〈永雪〉の刃渡りより前肢の直径の方が随分と長い。もはや横向きに生えた大木である。

 顔ほどもある暗橙色あんとうしょくの鱗を目前として、ぞわぞわとした興奮が首筋を駆け登った。


 脇の下。

 こんなところをちょっと斬ったところで竜は殺せない。

 六肢動物の再生能力の素晴らしさは重竜グラリアに顔面を削られて学んだ。真竜エウロスならばさらに凶悪だろう。根本からぶった斬ったとしても数呼吸のちには生えているかもしれない。


 シルティの戦闘理性が訴えている。

 こちらの攻撃力を見せびらかす必要はない。相手は自分を傷付けられるのだと意識すれば生命力の作用は自然と防御に傾き、体表の強度が増してしまう。つまり、一回でも斬って見せれば、真竜エウロスはさらに硬くなる。

 無論、見事に斬ったという実績はシルティの武具強化も飛躍させるだろうが……嚼人グラトンと六肢動物、生命力の作用がより愛らしく微笑むのは後者に決まっている。

 要するに、狙うべきは一撃必殺。斬るべきは頸部だ。


 シルティの戦闘本能が叫んでいる。

 さらに硬くなった真竜エウロス、超斬りたい。


「きひッ!」


 理性と本能を乗せられた天秤は勢いよく傾き、理性はどこかに飛んで行った。

 果たして自分に六肢竜の鱗を斬れるだろうか、などという疑問は欠片も覚えなかった。私は斬るために生きている。〈永雪〉も斬れると言っている。ならば斬れる。斬る。斬れなかったら死ぬ。

 体重を瞬発的に倍増。並行して飛鱗たちに身体を押さえ付けて貰い、海底をしかと踏み締めた。 最後の一歩。絶好の位置。重厚音を伴う踏鳴ふみなりと共に自らの骨が軋むほどの反力を獲得。

 その時、シルティが脳裏に描いたのは岑人フロレス特有の体術、けいだった。

 皮膚は柔軟な袋。骨は芯であり軌条。そして筋肉は重い液体。足底、足首、下腿、膝、太腿、骨盤、脊椎、莫大な力の流れを滑らかに束ねて渦を成し、余さず両腕へと注ぎ込む。


 解き放たれた銀煌の刃が描く軌跡は右逆袈裟、そして左袈裟。

 完全な同一軌跡をまばたきひとつの間に往復した〈永雪〉は竜鱗をかすかに切開し、暗い海の中に淡い鮮血のもやを生じさせた。

 良し、という喝采。

 くそ、という悔恨。

 相反する感情に浸る暇もなく、シルティは全力で退避に移る。


 半瞬前までシルティの存在した空間を叩き潰す右前肢。

 舞い上がる粉塵が真竜エウロスの姿を覆い隠す。


「ひゅっ」


 短く呼吸。肺の空気を入れ替える。

 喝采の理由は斬ったという実績。微かだが、紛れもなく斬った。〈永雪〉は真竜エウロスの鱗を突破し、その内側に満ちる筋肉を裂き、六肢竜の血を滲ませた。

 悔恨の理由は与えた傷の程度。あまりにささやか過ぎる。重竜グラリアの左後肢を斬り落とした時のように太刀を二往復させるつもりだったのだが、腕が重すぎて一往復しかできなかったのだ。竜鱗を斬り裂く刀身はともかく、太さのある腕はどうしても海水の抵抗を受けてしまう。この腕が刃物だったらよかったのに。


〝ふうん?〟


 舞い上がる赤茶けた煙霧の中から真竜エウロスの意志が伝わってくる。

 実際に音の形を成しているわけではないが、どこか軽口のような響きに思えた。しかし、油断はできない。天雷かみなりを待ち構える気概で神経を研ぎ澄ます。


嚼人グラトンは本当にどこにいても元気だね〟

「んふっ。それほどでも」

〝もしかして、もっと居る? は一匹見たら三十匹はいるとか言ってたけど。力づくなら、出し惜しみしない方がいいね〟

「え? いえ、私ひとりです。えと、ヴィヴというのは? 名前のようですが」

〝俺の兄貴だよ〟


 どこか気安げな雰囲気を感じる。『真意真言』に誤解は生じないはずだ。この真竜エウロスがシルティ対し好意を持ってくれているのは間違いない。もしかして真竜エウロスは割と蛮族的なのだろうか。

 だとしたら最高だな。容赦なく殺してくれそうだ。

 そう思った瞬間、シルティの身体は木っ端のように吹き飛ばされた。


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