第232話 真意真言



(すげー……)


 シルティは感動のあまり絶句していた。

 陽光など届かぬ深海。生物に乏しい世界の底。だというのに、シルティの周囲は虹色の光で明るく染まっている。

 天下で最も生命力に富んだ場所は深海にあったのだ、と思えてしまうような光景だが、無論そうではない。シルティの精霊の目は、この空間を染め上げる生命力が極めて単一的であることを見抜いていた。むしろ、シルティ以外の生物は一切認められない。とても寂しい領域だ。

 何らかの動物の一個体が発する生命力が世界を局所的に塗り潰している。

 こんなことが可能なのは、六肢竜をいて他にないだろう。


「んふ。ふふっ。くひひひっ……」


 竜の存在をようやく完全に確信し、シルティは凶暴かつ艶やかな笑みを浮かべた。

 この状況で燃えない蛮族など存在しない。

 あまりの圧力に霊覚器がくらんでいるのか、眉間の裏側や耳孔の奥が激痛を訴えている。重竜グラリア鎚尾竜アンキロ。四肢竜の生命力を目視した際にも感動したものだが、今回の獲物は格別も格別だ。物質的な視界にも影響しそうなほどの密度。これでは仮に肉眼で相手を捉えたとしても認識し損ねるかもしれない。

 シルティは霊覚器の感度を意図的に絞った。

 霊的感覚が狭まる代わりに、嘘のように頭痛が和らぐ。


 懐から予備の〈情愛の名残〉を二つとも取り出し、それぞれ起動。ハーネスベルトに取り付け、合計三つとなった光源で周囲を照らす。

 深海を住処とする生物の多くは視覚にそれほど頼らずに生きているようだ。ここまでの道中で出会った海棲生物は、光で照らしても反応が鈍いか、あるいは完全に無反応であることが多かった。

 だが、相手は竜である。深海に生息する種だとしても眼球を退化させているとは思えない。


(さて、見てくれてるかなー?)


 やたらと眩しい目立つ嚼人サルが近付いてきて、しかもさらに眩しくなったのだから、きっと注意ぐらいは引けているだろう。

 深海という環境において嚼人グラトンはそこそこ食べ応えのある肉のはずだ。危機感の鈍い馬鹿な餌がやってきた、と食べに来てくれるかもしれない。

 あるいは縄張りに入り込んできた見慣れぬ存在を鬱陶しいと思い、竜の破壊魔法『咆光』をぶっ放してくれるかも。


(ふふ……六肢竜の『咆光』かぁ……斬りたい斬りたい斬りたい……)


 シルティは後者を熱望した。



 一歩、二歩。

 感覚を研ぎ澄ませ、集中。体重を適度に軽量化。

 さらに飛鱗たちの補助を受け、ゆっくりと海底を歩んでいく。


 十三歩、十四歩。

 たった十歩程度近付いただけなのに、また頭痛が始まった。しかし、これ以上霊覚器の感度を絞るわけにはいかない。ここは我慢だ。


 二十五歩、二十六歩。

 どれほど甘く見積もってもここは完全に竜の間合いの内側である。だというのに、一向に反応はない。

 取るに足らない相手と舐められているのか、もしくは単に温厚な性格なのか。残念だが、こちらからちょっかいを出すまでは放置するつもりなのだろう。


 三十七歩、三十八歩。

 ずぐんずぐんと脈動的に発生する霊覚器の灼熱。

 痛い。苦しい。なんだか気持ちよくなってきた。

 早く会いたい。竜に会いたい。この想いを乗せてぶった斬りたい。


 四十九歩。

 ああ。

 ああ。

 ようやく、見えた。



 暗い海の底。とぐろを巻くように寝転がる巨大な姿。〈虹石火〉はここからでは見当たらない。

 その身体の厚みはシルティの身長よりも遥かに分厚く、〈情愛の名残〉が照らし出した体表は暗橙色あんとうしょくの鱗で密によろわれている。

 鱗は一枚一枚がシルティの顔面ほどもあり、顎下や背面、脇腹や背筋せすじなど、いくつかの箇所では棘状に伸長していた。後頭部からは一対いっつい二本にほんの捩じれた角が生え、鈍色にびいろの金属光沢を孕んで色っぽく光っている。


 鱗や角のせいか全体的にゴツゴツトゲトゲとしたシルエットだが、体形自体はほっそりとしていて美しい。顎下で交差された枕代わりの前肢や、くつろいだ様子で投げ出された後肢はすらりとした美脚であるし、しなやかそうな細長い尻尾も端麗たんれいだ。指の数は前後共に五本。黒い鉤爪は意外にも太く短く、器用そうな印象である。

 突出して屈強そうなのは背側面から出た中肢ちゅうしで、自身を丸ごと包み込んでもかなり余るであろう、巨大な翼へと変化していた。

 現在はこの翼がまるで掛布団のように身体に被さっているため、遠目にもその構造がよく観察できる。


 翼角よくかくから突き出る第一指を除いた四本の指が細長く伸びており、指と指の間には筋肉と皮膚から為る飛膜が張られていた。飛膜表面に浮き上がった筋肉のラインが非常に艶めかしい。

 蝙蝠コウモリのそれに類似の器官だが、こちらの飛膜は後肢や尾までは繋がっておらず、腰部付近に接続されている。

 これはどう見ても遊泳用のひれではない。ましてや威嚇や性的アピールのためのものであるはずもない。間違いなく、この竜は真性の飛行能力を有している。


(ま、さか)


 こんな深海に棲む竜なのだ。人類種に広く知られた存在ではないはず。カトレアのような竜愛好家ならともかく、自分には同定できるはずもないだろう。というか、普通に新種の可能性も高い。

 シルティはそう思っていた。

 だが、予想外にもシルティは眼前の竜の名を知っていた。それが非常に有名な種だったからだ。


(指が、五本)


 翼状に変化した中肢を持つ六肢竜はいくつかいる。だが、六肢全ての指の数が五本という竜は、シルティの知る限り二種しかいない。

 ひとつ。

 全ての竜たちの祖と呼ばれる祖竜アルコス

 シルティは祖竜アルコスの死骸を見たことがある。というか、食べたこともある。父ヤレック・フェリスがその武勇を広く知らしめることとなった契機が、五名の戦士を率いてこの竜を仕留めたという戦績だったからだ。生の状態ではちょっと苦甘い不思議な味だった。

 だからこそ、知っている。

 祖竜アルコスの鱗は白銀。暗橙色あんとうしょくではない。


 有翼五指の、残るひとつ。

 具現化した不滅とも呼ばれるその竜の名は。


真竜エウロス……!)


 五十歩。

 誘われるように踏み込んだ。


〝なにか用かな〟


 その瞬間、シルティは問い掛けられたことを


(うおっ)


 びくりと身体を強張らせる。

 だが、すぐにこれが魔法によるものだと思い至った。

 真竜エウロスがその身に宿す四種の魔法のうちの一つ、『真意しんい真言しんごん』。全ての生命に自身の意志を齟齬なく伝え、全ての言語に込められた意義を心底から理解するという、最強の翻訳魔法だ。この魔法により、真竜エウロスは別種の竜から胡麻粒ほどの羽虫に至るまでありとあらゆる生物と意思疎通が可能だという。


 問答無用の殺し合いを望んでいたのだが、まさか話しかけられるとは。意思疎通できる相手に対し斬りたいから斬りかかるというのはもう卒業したのだ。

 殺し合いましょうとちゃんと伝えなければ。

 いや、なにか用か、と尋ねられているのだから、まずは目的を話すべきか。

 シルティは大きく息を吸い、姿勢を正した。


「探し物をしています」

〝ふうん〟


 真竜エウロスがなにか言葉を発しているわけではない。ただ、真竜エウロスの思考がシルティにははっきりとわかるのだ。こんな感じかな、というような曖昧なものではなく、超常的な確信を伴っている。


「黒くて虹色の、細長い、平べったい棒です」

〝ああ。これか〟


 真竜エウロスがのんびりとした動きで長い頸部を持ち上げると、海底に真っ直ぐに突き刺さった輝黒鉄ガルヴォルンが姿を現した。柄糸つかいとは無残にもほつれ、つかが少し朽ちているが、刀身は無事だ。


(ああっ……ああ……っ)


 もう二年近く離れ離れになっていた愛する家宝の姿を確認し、シルティは海中でうっすらと涙を浮かべた。 ほとんど無意識のうちに五十一歩目を踏み出す。

 輝黒鉄ガルヴォルンは強靭な超常金属。無事でいてくれるだろうとは思っていたが、こうして実際に対面すると安堵と感動は一入ひとしおである。

 ぶるぶると身体を震わせながら〈虹石火〉を見つめ……そこで、シルティは内心首を傾げた。

 どうやら真竜エウロスは〈虹石火〉を抱き枕のようにしていたらしい。

 しかし、輝黒鉄ガルヴォルンの凶悪な生命力霧散作用は竜にも有効のはずだ。傍に置いておくには不快極まりない物質だろう。フェリス家のような特殊な理由がない限り、枕にするには不適切にもほどがある太刀である。


 真竜エウロスはなぜそんな劇物をとぐろの内側へと仕舞い込んでいたのだろうか。

 主観時間を引き延ばしつつ考えてみたが、わからない。

 わからないことは、素直に聞く方がいい。


「それ、苦しくないですか?」

〝そうだね。森人エルフの鉄だからね〟


 輝黒鉄ガルヴォルンのことは知っているようだ。


「ですよね。……なぜ、そんなことを? 嫌なものなら、触らない方がいいですよ」

〝今はそういう気分。俺のきんじゃ味わえないからね〟

「きぶん……」


 まあ、矮小な人類種の身で世界最強種の考えを理解できるはずもないか。

 ともかく、今、大事なことは。


「実はそれは、私が失くしてしまったものです。私のものなのです。返していただけませんか」


 五十二歩目を踏み出しつつ、唇を舐める。

 これを断られれば、真竜エウロスと殺し合う理由ができる。

 真竜エウロスが目を細めた。


〝嫌だね〟

「ふふっ」


 し。


「では、すみませんが、力づくで」


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