第231話 海の底



 愛刀〈永雪〉で斬り固めた足元の海水を踏み締め、鉛直下向きに跳躍。

 愛刀〈永雪〉で斬り固めた足元の海水を踏み締め、鉛直下向きに跳躍。

 愛刀〈永雪〉で斬り固めた足元の海水を踏み締め、鉛直下向きに跳躍。

 ひたすらに、先の見えない延々の繰り返し。

 常人であればうんざりして当然の苦行だが、この蛮族の娘は物体を切断するために生きているような個体である。照明用魔道具〈情愛じょうあい名残なごり〉がもたらす淡い光を頼りに、保護眼鏡ゴーグル越しの青を嬉々として切開し続けていた。


 呼吸用魔道具〈兎の襟巻〉も勤勉に働いてくれているし、懸念点だった水圧についても今のところ問題ない。

 懐に仕舞い込んだ契約錨けいやくびょうを介してローゼレステがシルティの座標を読み取り、魔法『冷湿掌握』によって緩和してくれている。掌握する対象に生命力が介在しないという『冷湿掌握』の特性上、シルティの形相切断がこの水圧緩和を切開してしまう恐れもないだろう。

 天地のひっくり返った状態でしゃがみ込み、足元を切開してから真下ましたに跳躍するという不慣れな動作も、これだけ繰り返せば嫌でも習熟が進む。ぎこちなさの消えた滑らかな連続跳躍に体重の増加や飛鱗たちの補助が加わることで、シルティの沈降速度は陸上生物の潜水としては驚愕的と呼ぶべき領域に達していた。海水温は物凄く冷たいが、運動を続けて火照った身体には心地いいくらいだ。


(お。魚だ)


 〈情愛の名残〉の照明範囲のぎりぎりをゆっくりとよぎる、シルティの前腕ほどの魚。ウナギナマズのように鱗がなく、少し間抜けな顔をしていた。

 シルティは深い海を暗く静かな虚無の世界だろうと想像していたが、思っていたよりずっと賑やかだ。音という意味では静寂に包まれているが、意外にもこうして生物の姿も見かけることは多い。ただ、やはり生命力には乏しいようで、今のところ魔物と思える生物には出会っていない。

 と、その時。


(んっ?)


 シルティの主観的な頭上に赤っぽい色をした何かが映り込んだ。

 なんだ。眉間にしわを寄せながら目を凝らし、〈情愛の名残〉で照らして、すぐに理解した。

 あれは海底だ。起伏の少ない滑らかな平地。ゴツゴツとした黒い球形の石がいくつか転がっているが、大部分は錆び切った鉄のような粒子が堆積していた。


(あれっ? もう底に着いた?)


 慣性を緩やかに殺しつつ、身体の上下を自然な状態へと戻す。揃えた両足で海底にゆっくりと着地。低く舞い上がる赤色粘土の中で、なんとなく頭上に視線を向ける。


(思ったより全然早かったな?)


 太陽も月も見えない状況では正確な時間はわからないが、体感的には太陽巡で拳四個分ほどではないだろうか。シルティが潜り始めたのは夕焼け前だったので、時間感覚が合っているならば今は薄暮はくぼ。完全な暗闇には落ちていない、月も良く見えないような時刻のはずだ。

 ローゼレステに聞いた情報から、シルティは海底までの距離を雨雲の高さの二倍強と考えていた。フェリス姉妹が地表から雲の高さに登るには休憩込みで一日半ほど必要なので、なんとなく、海底に到着するにも同じかそれ以上の時間がかかるだろうと思っていたのだが……重力に逆らう空への旅と重力に従う海底への旅では、思っていたよりずっと速度差が大きかったらしい。


 まあ、短く済むならそれに越したことはないか。

 シルティはぢゅーと海水を飲み込みつつ〈永雪〉の柄を握り直し、周囲に視線を向けた。


(〈虹石火〉と竜はどこかなー……)


 真下ましたにあると言われ真下に潜ってきたつもりだが、道標みちしるべなどない潜水だ。水平方向にかなり流されているだろう。

 物質の眼球および精霊の目を凝らす。

 が、特にこれと言って気になるものはなかった。

 照らされた範囲に割と大きなカニを発見したが、やはり弱弱しい印象。これも魔物ではなさそうだ。こんな時でなければ捕まえてバリバリ食べたいところだが、やめておこう。

 懐から契約錨を入れた布の袋を取り出す。


【ローゼ。すみません。底には着いたんですが、迷子です。竜はいませんので、ちょっと方向だけ教えて貰えませんか】


 水精言語で呼びかけてしばらく。視界に青虹色の球体が出現する。


【お久しぶりです。思ったより早く着いちゃいました】

【……ああ】

【上はもう夜ですか?】

【まだ、月はない】

【そですか。……ふふっ】


 シルティは思わず苦笑してしまった。深海も水精霊ウンディーネにとっては汚らしい環境なのだろう、かなり嫌そうな雰囲気を漂わせている。

 不快な場所に長時間滞在させるのも悪い。シルティは左手に持つ〈情愛の名残〉を掲げ、周囲を照らした。


【では早速。〈虹石火〉はどっちでしょう?】

【あちらだ】

【ん。あっちですね。ありがとうございます】


 赤茶色の海底を斬り付け、方角を記録しておく。


【わざわざすみません。無事に終わったら、冷たいお酒をたっぷり用意しますから】

【ああ】

【レヴィンはどうしてますか?】

【お前が沈んでからずっと、海を見つめて動かない】

【あー。多分、なにか想定外が起きて私が浮かんできた時、すぐ拾い上げられるように待ってくれてるんですね……】


 待機中の動きについては特に指示も出していないので、これはレヴィンの独断である。上に戻ったら嫌になるほど撫で回してやろう、とシルティは決意した。


【それじゃ、行きます。ありがとうございました】

【ああ。契約錨インシグネを持て】

【おっと。そうでした】


 手を差し出すと、ローゼレステが新たな契約錨を作り出してくれた。海水の中では同化してしまって全く見えないが、固化しているので触ればわかる。慎重に摘まみ上げ、布袋ぬのぶくろの中に収納。


【私はレヴィンのところへ戻る】

【はい。レヴィンのこと、よろしくお願いします。あ。ちなみに、契約錨これ持ったまま私が死んだらどうなりますか?】

【どう……別に、どうもならんが】

【私が死んだこと、ローゼに伝わったりします?】


 考えるような素振そぶりを見せるローゼレステ。


【生死は、わからん】

【じゃあ、私がしばらく動かなくなったら死んだってことで、どうにかしてレヴィンに伝えてくれますか? ずっと待たせるのも悪いので】

【……。わかった】

【お願いします】

【……できるだけ、死ぬな】

【ふふ。私はいつだってできるだけ死なないように生きてますよ】

【そうは見えん】


 どことなく呆れ笑いのような声を響かせたあと、青虹色の球体は滲むように薄まり、初めから居なかったかのように消えた。


(よし。向こうか)


 ローゼレステが示してくれた方へ視線を向ける。〈虹石火〉の近くには竜がいるらしいので、ある程度近付けばシルティにもその存在がわかるはずだ。当然、その頃には向こうからも捕捉されているだろう。油断していると不意に『咆光』が飛んでくるかもしれない。

 神経を研ぎ澄ませながら、海底を跳ねるように移動することしばらく。


(おっ!)


 シルティの霊的視界に、ほんのりとした虹色が映り込んだ。


(あれが竜かなー?)


 わくわくしながら精霊の目を凝らす。

 が、残念ながらここからでは巨大な円のようにしか見えなかった。精霊の目の視程はそう長くはないため、ある程度以上離れると輪郭がぼやけてしまうのだ。

 現在地からではあしの数を確認するどころか、おおよその姿形すら全くわからない。左腕を伸ばして〈情愛の名残〉で照らしてみるが、肉眼でも確認できなかった。まだ相当な距離がありそうだ。

 にも拘らずこうして捉えられたということは、逆説的に、相手の生命力が尋常ならざる大きさおよび密度を誇っている証左に他ならない。

 竜と断言することはできないが、強大な魔物であることは間違いないだろう。


「くふっ。ふひひ……」


 口元を覆う粘っこい空気の中で嬌笑きょうしょうこぼれた。

 臨戦の興奮が背筋せすじを駆け登る。歓喜と期待が抑えられない。

 照明用魔道具〈情愛の名残〉の把持部はじぶをハーネスベルトに取り付け、自由にした左手で十二枚の飛鱗をそれぞれ撫でる。愛刀〈永雪〉の柄をしごくように撫で、改めて握り直した。


「みんな。行くよ」


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