第226話 暗闇へ沈む



 夕焼け前の晴れやかな世界が、青暗い世界へと切り替わった。

 シルティは速やかに〈兎の襟巻〉を起動し、水から作り出した空気で口元を覆う。

 初めて使った時は不味まずすぎて咳き込みそうになったこのねばっこい空気も今ではすっかり慣れたもの。不快感に耐えるという意識すらなく呼吸をこなせるようになっていた。

 これまでの遍歴の旅では積極的に水棲魔物を狙ってこなかったが、〈兎の襟巻〉のおかげで今後は選択肢に入ってくる。


(こんな時じゃなかったら、レヴィンの訓練もするんだけどなぁ……ま、そのうちか)


 燃費がとにかく悪いため現時点のレヴィンではあまり長時間は使えない魔道具だが、成長して生命力の総量も増加すれば、いずれは一緒に潜れるようになるはず。海底までは無理だが、沼や湖に潜るくらいは可能だろう。水中では『珀晶生成』は使えないが、充分に育った琥珀豹ならば身体能力だけでも凶悪だ。

 姉妹で協力しての潜り漁、実に楽しみである。


(さて)


 シルティはうっすらと微笑みつつ木製ストローを咥え、保護眼鏡ゴーグル越しの鮮明な視界を足の下へと向けた。

 当然ながら、海底など目視できるはずもない。どこまでも続く深藍ふかあい色を背景としていくつかの魚影が見える。一際目立つ小さな魚の大きな群れはニシンの仲間だろうか。無数の銀色が一塊に集合し、まるでひとつの生物のように蠢いている。美味しそうだ。

 ぢゅー、と海水を吸い込み、嚥下。くるりと身体の上下を入れ替え、揃えた両足で水を蹴る。身体を滑らかにくねらせ、静かに、真っ直ぐに、ひたすらに降下していく。

 季節は晩冬だ。素肌を撫でる海水がかなり冷たい。港湾都市アルベニセでいろいろと準備はしてきたが、低温に抗えるような魔道具はなかった。気合で耐えるしかないだろう。嚼人グラトンは物さえ食べていればとにかくしぶといし、シルティは熱いより寒い方がずっと得意だ。


己が皮膚の内に詰まった筋骨の密度を意識し、全身を巡る熱い血液に溶けたあかがねの想像を重ねて、重い灼熱で手足の指先までしっかりと満たす。

 私は強い。強者は揺らがない。揺らがぬものは重い。当然、私は重い。

 段階を踏んだ確信が世界に容認され、蛮族の体重が倍増する。

 もはや同じ体積の岩よりもシルティの方が重かった。水を蹴らずとも勝手に沈んでいく。さらに飛鱗たちが自発的に動いてくれるため、沈降速度はかなりのものである。

 が、速度とキレを身上とするシルティにとっては、まだまだ遅い。


(……雲の高さの倍、か。うーん。この速度じゃ底に行くだけで二日ぐらいかかるな)


 往復で四日。水棲六肢竜と殺し合いにならなかったとして、〈虹石火〉を最短で見付けられたとして、それでも四日だ。

 シルティは蛮族の戦士として睡眠不足にも耐えるよう鍛錬を積んでいるが、さすがに四日間も不眠不休で海水を飲み続けるのはきつい。もっと速く進まなければ。


(やっぱり、斬るか。……でも、水撃式あれはちょっと激しすぎるしなぁ)


 水撃式移動法は衝撃が大きすぎて所持品が破損しそうだ。できれば、自慢の脚力を活かすような方法で、速く沈みたい。

 シルティは少し悩んだのち、身体を小さく折り畳み、視線と右腕を足元に伸ばした。

 手首の動きで〈永雪〉をくるりと回す。

 形相切断。

 シルティの足元に軟性固体と化した円板状の海水が形成される。

 確固たる強度を持った足場を踏み付け、シルティは直下に跳躍した。


 初めて至ったあの日から数えて既に一年と二か月。シルティはもはや呼吸にも等しい気安さで武具強化の極致を振り回せるようになっている。さらに、恒常魔法『衝撃原動』を宿す鎚尾竜アンキロを斬った実績を積み、シルティの形相切断はより傲慢なものに変貌した。


 本来、形相切断は『柔らかくて斬れないもの』に『柔らかくて斬れるもの』としての振る舞いを強制する武具強化の極致である。必然、切り開かれた物体はある程度の軟性を孕むもの。しかしシルティは、己の刃が柔らかいものしか斬れないとは毛ほども考えていない。柔らかいものしか斬れないなんて言っていたら、今まで斬り殺してきた全ての魔物に失礼である。


 こうした意識が、切開した対象の物性をより強固に傲慢に是正し、単なる海水に真空の負圧にすら耐える強度を与えるのだ。こうしてシルティが踏み付けてもびくともしない。


(ぬ。ぐ。思ってたより難しいな……)


 慣れない動きのためちょっと不格好だが、ただ沈んでいくよりは格段に速いだろう。

 シルティは足元をすぱすぱと何度も斬り固めつつ、連続的な跳躍で沈んでいった。





 どれほど経っただろうか。


(うーん、暗い)


 海底へ向かうにつれて加速度的に暗くなっていた世界だが、いよいよ完全な暗闇に包まれた。どれほど眼球に生命力を集中してもなにも見えない。形相切断の実現には認識が必須だ。空気を切開できないように、暗闇の中では水も斬れない。


(さて、出番だ)


 シルティは懐を漁り、満を持してとある魔道具を取り出した。

 透明な楕球体と、それを包む椀型の黒い基部を持ち、内部には赤茶色の粉末が少量封入されている。

 外形だけを見れば巨大なナラカシの果実、いわゆる『団栗ドングリ』に近いかもしれない。


 これは海底をさらうに当たり、あらかじめ購入しておいた魔道具だ。自然豊かで清らかな川辺に生息する虫類むしるい魔物、尻切蛍しりきりボタルを素材とした魔道具で、商品名を〈情愛じょうあい名残なごり〉と言う。


 虫類の魔物の中でもさなぎを作る、いわゆる完全変態を行なう種は、幼虫期のみあるいは成虫期のみ魔法を宿すという場合が多い。

 魔法とは、自らの肉体構造を装置とし、自らの生命力を動力源として、特定の超常現象を引き起こす理外の能力のこと。肉体構造を大きく変容する完全変態は魔法的な回路を著しく破壊してしまうため、蛹化ようかの前後で魔法を維持することが難しいのだと思われる。生涯を通して魔法を宿す種もいないことはないが、かなり珍しかった。


 多くの虫類魔物は幼虫期にのみ魔法を宿している。肉体的に最も弱い時期にこそ防衛手段を必要とするためだろう。超常金属燦紅鈥カランリルの生産者である鈥峰天蚕かほうテンサンも、幼虫期にのみ魔法を宿す種だ。

 反対に、ある種のハチアリのような強い社会性の虫類魔物は、貧弱な幼虫期を成虫たちの庇護下で過ごせるためか成虫期にのみ魔法を有することが多い。おそらくだが、鷲蜂わしバチもそうだ。


 一方でこの尻切蛍、非社会性かつ完全変態を行なうにも拘らず成虫段階にのみ魔法を宿す、そこそこ珍しい種であった。

 彼らがその身に宿す魔法は『眩惑げんわく残光ざんこう』。自身の尾部から陽光にも匹敵するほどの強烈な白光を放ち、かつ、それをその座標に一拍ほどことができる。閃光が残留する様子が飛行中に光る尻を自切しているように見えたことから尻切蛍と呼ばれるようになったらしい。

 彼らは夜を局所的に昼に変えるほどの光量で捕食者の視覚を殺す。

 といっても、逃走のために目を焼くのではない。

 安全な求愛と繁殖の場を整えるために、闇を塗りつぶすのである。


 羽化を終えて交尾が可能となった尻切蛍は、夜間、自分たちの魔法ひかりを目印として集合して交尾を行なう。だが、一匹でも陽光に匹敵すると言われる彼らが数十匹も一箇所に集まり、残留する光源を縦横無尽にばら撒くのだ。その光量の前には薄っぺらいまぶたなど無意味である。事実上、その空間でまともに活動できる生物は尻切蛍のみ。こうして作り上げた安全な空間の内部で一夜かけて悠々と交尾・産卵を行ない、そしてその場で速やかに寿命を終える。

 真っ白い夜が明けると、その場にはひっくり返った尻切蛍の死骸が無数に転がっているらしい。


 繁殖地の把握から死骸の回収までが非常に容易なので、野生の魔物でありながら文字通り腐るほど素材を確保することができ、しかもその魔法は熱を伴わない純粋な発光。極めて有用である。

 そういうわけで、尻切蛍を素材とした照明用魔道具はアルベニセでも安価で流通しており、いくつかの種類があった。この〈情愛の名残〉は気密性を重視した構造で、水中でも使用できるのが売りの商品である。

 シルティはこれを予備を含めて三つ購入した。


 団栗でいうところの殻斗かくと、いわゆる帽子部分を右に捩じる。途端、シルティの生命力が〈情愛の名残〉へと流れ込み、透明な球体部分が内部から発光した。冷たい暗闇の中で唯一の光源を振り回し、一度、周囲に視線を飛ばす。

 明るくはなった。しかし結局、何も見えない。


(うーん。まだまだ遠そうだな)


 シルティは再び〈永雪〉を振るい、鉛直下に跳躍を繰り返した。


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