第225話 潜行開始
ローゼレステが読み取った情報によると。
現地点において進行方向の左手側、シルティの身長二人分ほどの位置の鉛直直下、海底に、〈虹石火〉らしき物体が存在しているという。形状はわからないが、魔法『冷湿掌握』の掌握力を強烈に弾く点があるとのこと。超常金属
この情報だけではそれが〈虹石火〉であるかどうかは確定できないが、少なくとも純度の高い
【それでっ! 六肢竜と言うのは?】
【……その、
【ほうほう! 大きな! それはそれは!】
【あんなものの傍に留まり、動かずにいるのだ。
世界最強たる六肢動物は漏れなく非常に賢い。そして、高度な知性を持つ動物は
ノスブラ大陸に生息する六肢竜
シルティも生息地に立ち寄った際にはもちろん荷物を広げて数日誘ってみたのだが、タイミングが悪かったのか、残念ながら来てはくれなかった。
ちなみに、蒐集品は同族間で自慢し合ったり、場合によっては物々交換したりするらしい。
【〈虹石火〉はすんごく綺麗な太刀ですからね! 竜が気に入っても全くおかしくありません!】
レヴィンにも状況がわかるように通訳を行ないながら、シルティはこの上なくご機嫌だった。
ただ家宝を回収したかっただけなのに竜が関わってきてくれるとはなんたる
理屈から考えて、最も可能性が高いのは
例に漏れず、
しかし、こんな大海原の真っ只中で鑑賞している点が気になる。
まあ、ちょうど発見したタイミングだったのか、もしくは骨格的及び体格的な問題で咥えられなかっただけかもしれない。
(んふふ。
魔法『顎門延長』は読んで字の如く、己の顎を物質的に延長する魔法だ。
想像するとちょっとお間抜けな姿だ。是が非でも見たい光景である。
常識的な力学を適用すれば吻部が長くなれば先端での咬合力は弱まりそうなものだが、
世界最強ゆえ、構造的な不利を補って余りある咬合力を備えているのか、あるいはそういった超常的な作用があるのかはわからないが、なんにせよ実に素晴らしい。
残る最後の魔法『恐怖強制』もまた読んで字の如く。意識を向けた対象に
彼らに狙われた獲物は根拠のない絶大な恐怖感に脳を支配される。
恐怖を覚えた動物の反応は闘争か逃走に大別されるが、竜の魔法はもちろんそんな生易しいものではない。強大な魔物であっても全身が竦んで全く動けなくなり、神経が細い動物ならばそのままぽっくり逝く。同じ
この『恐怖強制』で仮死状態にした大量の獲物を『顎門延長』でごっそりと喰らい尽くすことで、
まぁ、それでも見た目ほどは食べないらしいが。
竜たちは皆、体格の割には意外と小食である。
(前は逃げるしかなかったからなぁ……)
あの日、砂浜で蛇角羚羊を解体していたシルティに、魔法『恐怖強制』は飛んでこなかった。美味しい羚羊が既に死んでいることを理解していたのか。シルティなど弱すぎて眼中になかったのか。正確な理由など知る由もないが、もしも恐怖を植え付けられていたら逃げ切ることはできなかっただろう。レヴィンに至ってはその時点で死んでいたに違いない。
(次は絶対……ふふ。死ぬくらい怖いって、どんな感じなんだろ)
先祖から代々続いた淘汰により、蛮族の脳はほぼ生まれながらに恐怖を快感へと変換するようにできている。シルティも暴力に対する恐怖など覚えた記憶がない。自分が振るう暴力についても、他者が振るう暴力についてもだ。
だからこそ受けてみたい。
生涯初となる恐怖を乗り越えて、また一段上の強者へと至りたい。
にまにまと笑みを深めるシルティ。
同時に、レヴィンもまた瞳孔を広げ、興奮を露わにする。
ただし残念ながら、〈兎の襟巻〉の燃費の悪さを考えると、海底にレヴィンを連れていくことはできない。本当に残念だが。
【……諦めろと言うのに】
【無理です!】
もはや期限などどうでもいい。『頬擦亭』に残してきた私物への
【大丈夫です。ローゼに付いてきて欲しいとは言いません。少し
ここまで散々潜水してきてわかったのは、ある程度の深さに到達すると、〈兎の襟巻〉を装着していても空気を取り込めなくなるということだ。息を吐くことはできるのだが、吸えない。どれだけ力を込めても胸郭を拡げることができず、腹部はべっこりと凹んだまま横隔膜を下げられない。水の重さに呼吸筋が負けてしまう。
が、これはローゼレステに頼ることですぐに解決できた。
片手間のように
ローゼレステが溜め息を吐いた。
もちろん、
【わかった】
【ありがとうございます! 底まではどれくらいです?】
【……私の雲の高さの倍ぐらいだ】
ここでいう『私の雲』というのはローゼレステが好む乱層雲、雨雲のことだろう。フェリス姉妹がローゼレステと出会ったのも、発達途中の乱層雲の中だった。シルティの身長を一として考えると、二千から三千倍ほどの高さに生じることが多い。
と、いうことは、この付近の水深は四千から六千シルティということである。
シルティは五千人の自分が縦に積み重なっている光景を想像した。
【……。潜るだけで一日かかりそうですね!】
陸は広く、空は高く、海は深い。
遍歴の旅を続けてきて今更ではあるが、世界の
シルティはすぐさま脱着機構を操作し、自らの背負う〈冬眠胃袋〉を分離した。足場に下ろした鞄部から木製ストローや照明など必要な雑貨を取り出し、ハーネスを活用して身に着ける。出し惜しみはしない。ありったけだ。
その後、レヴィンの頸部に腕を回し、抱き締めるように顎の下を掻き撫でながら爪先で珀晶の足場をコツコツと叩く。
「ここ、すっごい深いんだって。底まで一日以上かかるかも。レヴィンと一緒に行くのは無理っぽいかな」
途端、レヴィンの耳介と尻尾がへにょりと垂れ下がった。が、特に我が儘を言うことはなかった。
自分の生命力では〈兎の襟巻〉は重いことも、自分が力尽きれば姉共々大海原で遭難することも、レヴィンはしっかりと理解している。
「荷物を守りながら、足場を維持しといてね。頼りにしてるよ」
了承の唸り声を上げつつ、ぞりぞりと姉の頬を舐める。
「んふふ……。よし、それじゃ、行ってくるね!」
シルティは躊躇なく海に跳び込んだ。
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