第227話 二重の初体験



 シルティが海の中へ沈んだあと、しばらくして太陽も水平線へ沈んだ。

 レヴィンは一人、大海原の真っ只中で空を見上げる。

 風も雲もない、明るく静かな夜。今夜の月は姉が斬ったかのように綺麗に半分だった。ちょうど下弦の頃合いである。


 ああ。綺麗だ。

 ここが安全な都市の中で、姉が隣にいたならば、レヴィンは喉を鳴らしていただろう。

 黒い空にきらめく無数の星も好きだが、満天の星々の中に君臨する太陰たいいんも大好きなのだ。見た目が美しいというのももちろんあるが、周期的に満ち欠けするというのがいい。人知を超えた天体の動きにも法則性があるのだと思うとなぜか感動を覚える。深々と溜め息を吐きたくなるような、そんな感動を。


 短い月見を楽しんだあと、レヴィンは尾をくねらせ、洞毛ヒゲを揺らした。

 姉が戻ってくるまでこの座標に留まり、荷物を守ること。それが今の自分の仕事だ。

 シルティが置いていった〈冬眠胃袋〉を咥えて持ち上げ、再び視線を上に向ける。


 先日の巨鯱おおシャチ襲撃以降、レヴィンは遠距離攻撃が可能な魔物を酷く警戒していた。

 自分の眼球性能には自信がある。しかし、そもそもが光学的に観測できない攻撃ならばどうしようもない。眼球が駄目なら耳と鼻だが、あの巨鯱の魔法は聴覚でも嗅覚でもとらえられなかった。自分自身も『遠距離攻撃が可能な魔物』ではあるが、現時点の魔法『珀晶生成』で巨鯱を殺すのは不可能だ。今あれに襲われ、海に叩き落された場合、自分はまず間違いなく死ぬ。きっと戦いにもならない。

 つい先日までは『自分は琥珀豹にしては泳ぐのがかなり上手い方だろう』という自負があった。だがあの巨鯱を見て、さすがに本職の海棲動物たちには敵わないと理解した。姉のように水中で殺し合いをするにはこの身はまだ未熟。海面付近は危険だ。


 魔法『珀晶生成』を行使。体積を合算するために数珠繋ぎにした足場を階段状に並べ、ぴょんぴょんと跳び移る。その後ろを、浮遊する物質水珠に身体を重ねたローゼレステが追いかけていく。

 姉の身長換算で三十人分ほどの高さまで登る。ここは飛鳥ひちょうたちの領域だ。これでも完全には安心できないが、海面からの跳躍でここまで届くような魔物はさすがに稀だろう。

 レヴィンは自分の頭部を模した待機用の部屋を作り、咥えていた〈冬眠胃袋〉を床面に下ろした。

 肉球から生命力を導通させて待機部屋を強化しつつ、視線を直下へ向ける。さすがにまだ上がっては来ないと思うが、海面に姉の姿が見えたらすぐに迎えにいかなければならない。


 と、ローゼレステがレヴィンの顔面周辺をくるりと回った。

 レヴィンが視線を向けると、ローゼレステは薄紅色の鼻鏡びきょうに遠慮がちに触れる。

 ふすーっ、と長い鼻息で水珠を押し返すと、ローゼレステは水珠を薄膜状に変形させ、レヴィンの鼻息を捕まえて飛んで行った。その後、ヘビのように細長くなり、螺旋を描きながら戻って来る。

 普段、ローゼレステは太陽が沈むとに帰ってしまうのだが、どういうわけか今回はこの場に残ってふわふわし続けていた。おそらくだが、レヴィンと二人きりになりたかったのだろう。


 ローゼレステからの強い好意を感じ取り、レヴィンは内心で首を傾げた。

 自分はローゼレステのお住まいで大変失礼なことをやらかしてしまった。殺意を向けられて当然の所業だ。だというのに、なぜか今は、会話ができる姉より自分の方が気に入られているらしい。

 まあ、ローゼレステはレヴィン単独ではとても敵わない強者である。そんな強者に好かれて悪い気などしない。距離の詰め方も、どこぞの看板娘と違って穏やかだ。

 姉不在では会話はできないが、身振りで多少は意思疎通もできる。

 レヴィンは周囲を警戒しつつ、ローゼレステと穏やかにじゃれ合った。





 翌朝。

 レヴィンはまぶた越しの陽光を感じ取り、浅い睡眠から覚醒した。

 欠伸をして、立ち上がり、軽く身体を揺する。

 ハーネスを身体に巻き付けた状態での睡眠も既にレヴィンの日常の一部だ。〈冬眠胃袋〉を背負い始めた当初は酷く寝苦しかったものだが、慣れとは素晴らしいものである。

 尻を高く上げながら両前肢を前に伸ばし、胸を床に付けるような姿勢へ。左右の後肢を順番に持ち上げ、後ろへ向けてピンと伸ばす。前肢と後肢とを狭い間隔で揃え、ぶるぶると身体を震わせながら背中を弓なりに大きく反らした。

 ストレッチで凝りをほぐしたあと、姉が置いていった〈冬眠胃袋〉に頭を突っ込む。


 魔道具は血縁を結んだものしか起動できないので、シルティの身体から離れたこれは冷蔵機能を失った単なる鞄だ。中身は昨夜のうちにほぼ全て自分の〈冬眠胃袋〉に移してある。が、朝食の分だけは解凍するためにこちらに入れっぱなしにしておいた。

 生肉を取り出して床に安置。顔を右に傾け、裂肉歯おくばで生肉の塊を咀嚼。

 にちゅ。しゃり。

 柔と硬が連続する歯応え。まだ芯部が凍っていた。


 琥珀豹の太い鼻面に深いしわが刻まれる。

 冷たい肉はやはりあまり好きになれないレヴィンである。

 ちらりと視線を上に飛ばす。昨日に続いて快晴。まだ早い時間なので太陽は低いが、レンズの形状を工夫すれば巧く集束できるだろう。肉を温めるくらいの熱量ならばすぐに生み出せる。


 脳内で光軸の計算をしていると、宙に浮かぶ水珠が近寄ってきた。結局、ローゼレステはあのままには帰らずレヴィンと共に夜を明かしたのだ。ちなみに、精霊種にも睡眠という概念はあるようだが、物質的生物と比べればごく僅かな時間で済むらしい。

 生肉には近寄りたくないのか、レヴィンの腰部付近でぷるぷると揺れている。『おはよう』か『こんにちは』かはわからないが、おそらく挨拶をしているのだろう。


 レヴィンが短い唸り声で応え、尻尾の先端で水珠を撫でると、ローゼレステは(多分)嬉しそうに水珠を揺らした。

 本当に、随分と懐かれたものだ。

 ローゼレステは夜中間よなかじゅう、レヴィンの挙動ひとつひとつに大なり小なり反応を返し、嬉しそうにちょろちょろと動き回っていた。港湾都市アルベニセに滞在中、たまに『頬擦亭』の近所に住む嚼人グラトンの女児からちょっかいを掛けられ、適当にあしらってはきゃあきゃあとはしゃがれていたのだが、正直言って昨夜のローゼレステから受ける印象はあの子と大差ない。

 ローゼレステが自分より遥かに強く、しかもかなり年上だ、ということはわかっているのだが……。


 どうにも生暖かくなってしまう視線を強引に空へ戻し、魔法『珀晶生成』を行使。まだ水平線に近い太陽からの光線を鉛直方向に屈折させたあと、改めて集束させる。待機部屋の壁面の屈折も考慮しなければならないのが楽しいところだ。焦点はもちろん半解凍の生肉。肉が焦げるほどの熱は必要ないので、レンズは大きくなくていい。


 その瞬間、ぱしゃりという水音が響いた。

 レヴィンはびくりと身体を硬直させ、音源の方、背後へと振り返る。

 ローゼレステの操る水珠が床面に落ち、水溜まりと化していた。


 なんだ、どうした。

 疑問に思う。と同時に思い至る。

 そういえば、陽光を利用する焦熱攻撃をローゼレステに見せたのは初めてだ。そして、水精霊ウンディーネは本質的に熱を嫌うものらしい。

 気が利かなかった。嫌悪対象が何の前触れもなく現れたら驚くのも無理はない。

 水溜まりに視線を向け、耳介と洞毛ヒゲを倒し、謝罪を込めた唸り声を上げる。


 そのまましばらく待ってみるが、新たな水珠は現れない。

 水珠と身体を重ねるのとやめただけでまだこの場に居るのか、それとも、嫌になってに帰ったのか。霊覚器を持たぬ身では判断が付かないが……まあ、いいか、とレヴィンは切り替えた。

 どうせ自分からローゼレステに干渉する術はないのだ。考えても仕方がない。

 ローゼレステは深海に到達した姉を助ける手筈になっているが、それは別に、この部屋の中にいなくともできる。


 頃合いを見て、陽光を集束させていたレンズを消去。生肉に齧りつく。

 表面は湯気が立ちそうなほどに暖かく、芯部も……まあ、常温程度には温まった。許容範囲だ。

 チャグチャグと牙の擦れる音を立てつつ裂肉歯で適度な大きさに断ち切り、飲み込む。

 これは姉が半月はんつきほど前に狩った蒼猩猩の背筋はいきんである。レヴィンにとっては幼少期から食べ慣れている肉だ。臭みはあるが、これはこれで美味い。


 と、その時、後頭部に僅かな疼痛とうつうが走る。

 武具強化を介した触覚の返還フィードバック、と理解するよりも早く、レヴィンは僅かな跳躍と共に身体を捻った。

 意識は自動的に食事から臨戦へ切り替わり、肉体は膨大な生命力で煮え滾る。


 視線を上へ。

 自らの頭部を模した待機部屋、その後頭部に――八つの黒い影。

 十六個、暗褐色の眼球がレヴィンとレヴィンの朝食を捉えている。肉を齧り取るのに適した鉤状のくちばし。面積の大きな翼。屈強な脚部と長い鉤爪。紛れもなく猛禽のたぐいだ。群れを作るとは珍しい。

 羽毛の色は全体的に焦げ茶で、胸と腿の部分は乳白色。嘴とあしゆびは黄色く、鉤爪は艶のある黒。どの個体もレヴィンの頭部ほどの胴体を持っている。体格的には宵闇鷲よいやみワシよりも二回りほど小さいが、体格比で見ると翼が大きいらしく、翼開長はかなりのものだ。

 レヴィンの知識に、あの姿に該当する魔物は存在しない。


 誰がどう見ても体格で劣っているにも拘らずレヴィンに対し貪欲な視線を向け、待機室を破らんと鋭い蹴りを繰り返している。

 どうやら彼らは自分たちの暴力に相当な自信があるらしい――とその時、レヴィンの目の前で不思議なことが起こった。

 一瞬前までは確かに待機部屋の外に居たはずの猛禽たちが、どういうわけか、いつの間にか内側に入り込んでいたのだ。

 待機部屋の壁面に隙間はない。そういう風に作った。壊されてもいない。もし壊されていたらレヴィンの足元まで全てが消えている。つまり彼らはそういう魔法をその身に宿しているのだろう。


 やる気満々の敵を得たレヴィンは、歓喜を込めて牙を剥き出しにした。

 レヴィンが戦う場面に姉が居合わせないことも初めてであるし、事前に情報を持っていない未知の敵を相手取るのも初めてだ。二重の初体験を前にして、蛮族の血が熱く燃える。

 轟くような興奮が顎門あぎとから響き、同時に漏れた呼気が凝結して白く揺らめく。

 体温が残った血の滴る肉ほど食べていて興奮するものはない。それが自ら仕留めたものなら尚更だ。

 あの猛禽、個々は小柄だが、八匹もいる。全て殺せば三食一日分ぐらいにはなるはず。何匹か逃しても充分な量だ。食料を節約するという意味でも是非狩っておきたい。

 それに、姉ばかり殺し合いを楽しんでいるのはずるいと思っていたところである。


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