第223話 鯱肉



 せっかくローゼレステが仕留めてくれた巨鯱おおシャチの死骸だ。そうそう食べられるものではない。できれば綺麗に解体して漏れなく味わいたいところ。

 だが、巨鯱はレヴィンを遥かに上回る巨体であり、その肉量は姉妹の運搬能力を大きく超えている。全てを消費するのは不可能。必要なだけを切り出して持って行くしかなさそうだ。

 とはいえ、それでもかなりの大仕事が予想される。なにしろ本当に大きい。シルティとレヴィンが協力して筋力を振り絞っても到底引き揚げられない。というか、仮に持ち上げられたとしても重すぎて、レヴィンの生成する足場では強化込みでも支え切れない。

 水の豊富にある環境ではシルティやレヴィンなど目ではない出力を誇るローゼレステならば、たっぷりの海水で巨鯱を空中に持ち上げることも、そのまま水中で固定することも容易いだろう。しかし、残念ながら素気無すげなく断られてしまった。これ以上は魔法越しだとしても死骸汚物に触れたくないとのこと。

 それでも、この場をさっさと離れて自分の縄張り空の雲の中に戻らずに居てくれる辺り、ローゼレステの態度もかなり暖かいものになってきたと言える。かもしれない。


 ともかく、大海原にぷかぷかと浮かびながら解体するしかないということだ。


【ローゼ。すみませんが、レヴィンの仕事を手伝ってくれますか。レヴィンが欲しがるところに真水を出してくれるだけでいいので……あ。あと、もしサメ……なにかでっかい生き物が寄ってきたら、追い払って貰えますか】

【ああ。わかった】

【ありがとうございます。対価のウイスキーはのちほどたっぷり】

「レヴィン、ローゼちゃんが水を出してくれるから、荷物を洗っておいてくれる?」


 狩猟者仕様の〈冬眠胃袋〉は非常に頑丈で、血や脂、塩分や水分にも強い。少々海水に沈めておいたとしても無事と呼べる状態で済むはずだ。だが、収納していた中身はそうもいかない。〈冬眠胃袋〉には食料品以外にも雑貨類や着替えなどが多数収納してあった。海水びたしになったこれらを放置しておけばすぐに面倒なことになってしまうだろう。

 ヴォゥン。

 レヴィンは了承の唸り声を上げ、すぐさま魔法を行使した。大きなたらい形の珀晶、上端部が網目状になっている。単純な盥ではあふれる水と共に浮かび上がった物品が流出する可能性があるので、こうして溢れる前に水を抜き、物品をし取れるようにしているのだ。

 人類種ほど四肢が器用でない身ではこういった小さな工夫が大事なのだとレヴィンは考えている。

 満足げに洞毛ヒゲを揺らしたレヴィンは盥のへりをひょいと跳び越え、中央付近に陣取り、ローゼレステに向かって喉を鳴らした。


【その中に溜めるのだな。わかった】


 ローゼレステが魔法『冷湿掌握』を行使。自然界に存在する冷気と湿気が凝縮され、純粋無垢な清水せいすいとなって滴り落ちる。レヴィンは水流を浴びながら前肢で首元を操作し、自らの背負っていた〈冬眠胃袋〉を分離した。口と前肢と尻尾を駆使して器用に収納物を取り出し、前肢で一つずつ捉え、鉤爪を出さないよう注意しながらぐいぐいと押し洗いを始める。


 一方、シルティは海に飛び込み、巨鯱の解体だ。

 まだまだ体温の残っている巨鯱の身体にしがみ付きつつ、そのつるりとした肌を撫でる。


(んー……どこが美味しいかなぁ……やっぱり背中?)


 鯱の類の肉を食べるのは初めてなので、どこの部位が美味しいかがわからない。とりあえず、背鰭せびれから尾にかけての肉を切り取ることにした。

 背筋せすじに〈銀露〉の刃を入れ、脊椎の凹凸を刃先に感じながら一息に引く。ぱっくりと開いた皮膚の裂け目から見えるのは白っぽい色をした皮下脂肪、そしてその奥に鎮座する赤黒い筋肉。物凄く色が濃い。シルティが生涯で見た肉の中では間違いなく最も赤い。生肉というより干し肉のような。網目のように入った白い脂肪との対比が美しい。

 さて、どんな味だろうか。やはり最初は生で食べたい。薄切りにして刺身。次は分厚く切ってステーキ。実に楽しみだ。


 皮も食べてみたいので、少量だけ確保しておく。あとは全て肉でいいだろう。皮に四角く切れ込みを入れ、めくるように剥がし、その奥の筋肉を適当な大きさで切り出す。一抱えほどもある塊肉を飛鱗たちに預け、レヴィンたちの待つ足場まで運搬して貰う。あとはこれの繰り返しだ。

 皮をめくりながらざくざくと切り進め、やがて尾の腹側に辿り着いた。

 基本的に動物の下半身は解体が面倒である。腰回りの肉はここまでにしようと判断したシルティだが。


(んっ?)


 手触りに違和感を覚えた。

 なんだか、妙に柔らかい。


(んっんっんー……? 骨がない?)


 好奇心のおもむくまま、巨鯱の腹部の傷に上半身を突っ込む。消化器を全て失った腹腔内で〈永雪〉を構え、体内から尾部に向けてゆっくりと突き刺してみた。

 するりと飲み込まれる刀身。ほとんど抵抗がない。

 銀煌の刃で下半身を抉り、何度か探ってみる。

 だが何度試しても、刀身がに当たらない。


(はー……鯱って骨盤ないのか。じゃあやっぱり、魚?)


 シルティの知る限り、骨格を持つ生物の中で骨盤を持たないのはヘビと魚類くらいのものだ。大型の蛇では矮小化した骨盤の痕跡が残っていることもあるので、本当の意味で骨盤を持たないと言えるのは魚類だけだろう。


(でも、えらがないしなぁ……)


 逆に、シルティの知る限り鰓を持たない魚というのも存在しない。


(……まあ、そういう生き物もいるか。なら、腰から下をざっくり斬るのもいいかもなー)


 骨盤がないのであれば、下半身の頑強さはかなり落ちるはずだ。

 形相切断で魔法を防ぎつつ突進を誘い、飛鱗たちの助けを借りてこれを回避、擦れ違いざま、鍔元から切先までしっかりと使う気持ちのいい撫で斬り。想像するだけで幸せだ。

 次なる殺し合いの予定をうきうきと立てながら、シルティは腹腔から抜け出した。


(……腰の肉だけでもう充分なくらい取れそう。うーん……でもせっかくだし、頬肉とか……)


 あれだけの咬合力を誇る動物である。きっと頬肉も発達していて美味しいに違いない。

 頬肉を削ぐならば、ついでに舌も食べてみたいところ。

 ひれはローゼレステが引き千切ってしまったが、よく動かすだろう胸鰭の根本は筋肉も発達していそうだ。

 胸鰭と言えば、肛門付近から正中線上を一直線に斬ったあの時、〈岐尾〉は胸骨を切断できずに弾かれた。最近、レヴィンは硬い物をゴリゴリやっていると落ち着くらしいので、妹へのプレゼントとしてもいいかもしれない。

 胸骨を切除するならば、肋骨内部も選択肢に入って来る。消化器はなくなってしまったが心臓や肺腑は残っているはずなので、これも興味深い。

 それから、頭頂部に開いている噴気孔も鯱や鯨の特異的な部位だ。是が非でも食べておきたい。


(あーもー、全部食べたくなってきたなぁ……)


 食への興味は嚼人グラトンの本能である。





「あー、つっかれたぁ……」


 仕事を終えたシルティが、海面に浮かびながらしみじみと呟く。

 ようやく、というほどの時間は経っていないが、やはり水に浮かびながらの解体は肉体的にも精神的にも疲労するものだった。

 悩みに悩んだが、結局シルティが巨鯱から切り出したのは、尾周辺と頬、舌、胸骨、そして噴気孔回りの肉だけである。胸骨を切除したのだから心臓くらいは取ってもよかったかもしれないが、ちらりと胸腔を覗いてみたところ、凄まじい大きさの肺腑がミチミチに詰まっていたので、やめた。今からこれを掻き分けて心臓に到達するほどの元気はない。

 自身の太腿より太い巨鯱の胸骨を〈瑞麒みずき〉と〈嘉麟かりん〉に預けたあと、シルティは左腕を伸ばして足場を掴み、水を蹴りつつ勢いよく身体を持ち上げた。と同時に、革鎧に留まっていた飛鱗たちが自発的にその動きを補助する。


「うッ、おっ、とっ」


 予想以上の跳躍となってしまったことで空中で体勢を崩しかけたが、咄嗟に両足を伸ばし、持前の体幹と柔軟性で身体を制御。両足から綺麗に着地を決めたあと、シルティは少し困ったような笑顔を浮かべた。


「うーん。まだちょっと、私もみんなも慣れてないね」


 魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』の影響下に置かれた飛鱗は、シルティの思考を、正確に言えばシルティの想像をなぞるように動く。だが、純然たる遠隔強化による飛鱗の動きは違った。おおよそシルティの望みを叶えるべく動くのだが、それぞれが独自の嗜好を持ち、固有の判断基準にのっとって動いているような感じがする。

 例えば、左肩前方を守っている〈堅亀けんき〉は慎重な気質であり、他の飛鱗よりも動き出しが遅れがちだが、自他の動きをかなり精密に予測した軌跡を描く。右肩前方を守っている〈撓覇とうは〉は反対に即断即決で真っ先に動くが、なぜか『緩く曲がる』ということを好まず、カクカクとした連続直線の軌道を描く。というように。

 遠隔強化に至る前のシルティが各々に抱いていた印象通りの性格が宿った、と言い換えてもいいかもしれない。


「まー、まだ赤ちゃんみたいなもんだし、しょうがないか。一緒に練習しよ」


 革鎧に収まった十枚の飛鱗を指先で優しく愛おしげに撫でる。遠隔強化に至ったからといって、革鎧が魔道具としての機能を失ったわけではない。こういう時はこうして欲しい、という要望は、魔術を介して逐一伝えていけるだろう。

 すると、傍らに寝転んでいたレヴィンがすっくと立ち上がり、左肩の辺りを結構な勢いでぶつけてきた。そのままぐりぐりと側頭部を押し付けてくる。耳介が横を向いており、目が細い。少し不機嫌そうだが、撫でて欲しいの意思表示だ。

 理由は、まあ、言うまでもないだろう。

 彼女は結構嫉妬深い。

 出会った頃はむしろ孤高な雰囲気を持っていたようにも思うのだが、いやはや、随分と変わったものである。


「こらこら。せっかく洗ったのに、汚れちゃうでしょ」


 レヴィンの身体や二つの〈冬眠胃袋〉などは既にローゼレステの魔法によって洗浄済みだ。塩にまみれているのはシルティ自身とまとった戦闘装束のみ。レヴィンが身体を擦り付ければ、当然ながら塩分やら血汚れが移ってしまう。

 だが、レヴィンは全くお構いなしだ。シルティが離れようとすると、鼻面に皺を寄せながらさらに間合いを詰め、尻尾で姉の背中を叩いた。早く、と急かしている。


「もー」


 シルティは苦笑しつつ妹の顎下を掻き撫でた。

 ご、る、る、る。いつもより控えめな遠雷を聞きつつ、傍に漂っていたローゼレステに視線を向ける。

 水精霊ウンディーネの身体は一見するとただの青虹色の球体で、表情は皆無だ。だというのに、そのたたずまいからはどこか羨望を抱いているような印象を受ける。出会った当初からこういった『感情的な印象』を受けることはあったが、最近ではより明確に感じ取れるようになった。

 交流を重ねることで察せられる部分が多くなってきた、という面もあるだろうが、おそらく最大の理由は当時に比べてシルティの霊覚器の感度が上がったことだ。どうやら精霊種の身体は常に微弱な生命力を発しているらしい。発達した霊覚器がその波動を介して帯びた意志を感受しているのだろう。


【ローゼも混ざりますか?】

【……なにを言っている?】

【なんだか羨ましそうだったので……。薄皮削ぐみたいに形相切断すれば、ローゼの身体も撫でられると思います】

【ふざけるなよお前】

【ふふ。すみません、冗談です】


 青虹色の身体をぼわりと膨らませるローゼレステ。その感情は、羞恥半分憤怒半分といったところだろうか。

 シルティは内心で微笑ましく思いつつ、妹の耳介の根本を指で掻いて愛撫の終了を告げた。レヴィンも今度は我が儘を言わずに大人しく身体をひるがえす。満足してくれたようだ。

 二枚の飛鱗に持たせていた胸骨を掴み、妹の口元へ。レヴィンは洞毛ヒゲをぴくんと揺らすと、軽く首を傾げてそれを受け取った。そのまま少し離れ、足場に腹這いになってガリゴリとやり始める。

 シルティも採取しておいた巨鯱の皮を薄く削ぎ、ぱくり。


(んー……んんん)


 若干の生臭さはあるが、シルティには気にならない程度。悪くはないがほとんど脂肪の塊なので、大量に食べると少しくどいと感じるかもしれない。湯引きか乾煎りにして余分な脂を抜き、塩気を足すともっと美味しそうだ。

 続いて、肉もつまみ食いをする。部位としては背鰭の少し前方の肉で、こちらは皮とは対称的に脂肪がほとんどなかった。赤身魚の血合ちあいよりも赤黒いのだが、見た目の雰囲気は獣肉に近い印象だ。

 薄く削ぎ、ぱくり。


(んっ! んん!)


 とても美味しい。見た目は獣肉に近いが味は魚肉に近かった。脂肪がないのでさっぱりしており、いくらでも食べられそうだ。少々独特な匂いはあるが、シルティの味覚では『好ましい』の範囲である。ただし脂が皆無なので、単純な加熱調理には向かないかもしれない。雑に焼いたらパサつきそうである。やるなら、揚げか煮込みだろう。

 物質的な口でつまみ食いを継続しつつ、霊的な喉でローゼレステに話しかける。


【ローゼ。陸地に戻ると言いましたが、やめます。朝の場所に戻って〈虹石火〉の捜索を続けましょう】


 入り江へ向かっていたのは食料調達のためだ。二つの〈冬眠胃袋〉を満たしても余りあるほどの生肉を手に入れた今、わざわざ戻る必要はなくなった。


【わざわざ先導してくれたのにすみません。でも、居てくれて助かりました。巨鯱あれ殺すのめちゃくちゃ格好よかったです】

【ああ。……まあ。巨鯱それは、私に攻撃をしてきたからな】

【あ。やっぱりあの魔法、ローゼにも効いたんですか。私がぶった斬った時とどっちが痛かったです?】

【お前】

「くひっ」


 シルティは満面の笑みを浮かべた。


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