第222話 飛行



「ぷはっ」


 海面に頭を出すシルティ。

 首元の〈兎の襟巻〉は解除済みだ。久々に感じられる自然な空気がとても美味しい。

 かたわらにはローゼレステの姿。それと、ローゼレステが浮かべている巨鯱おおシャチの死骸がある。

 結局、巨鯱へのとどめはローゼレステが行なった。ひれを千切り取られて暴れ回る巨鯱を強引に握り締めて拘束し、〈岐尾きび〉が裂いた腹部の傷をぐいと広げ、内臓のことごとくを洗い出して潰したのだ。いかに膨大な生命力を誇る魔物とはいえ、横隔膜以下全ての消化器を引っこ抜かれればさすがに死ぬ。海中という環境において魔法『冷湿掌握』は凶悪にもほどがある暴力だった。

 ぐびぐびと海水を飲む。補給した生命力を費やし、腹部と背中の咬傷の再生を促進。


「……っふぅーっ……」


 大きく息を吐きつつ、ぐるりと周囲を見る。だがやはり、得られた視覚情報は空と海の青と雲と波の白のみ、いや、遠方に琥珀豹のレヴィンの頭部形生成し珀晶た目印が辛うじて見えた。あれは〈虹石火〉の捜索を中断した座標に残してきたものだ。

 ということは、レヴィンの位置は……


(わからんっ)


 大海原で出発地点の目印だけが見えてもどうしようもない。

 シルティは棘海亀を仕留めた時と同様、長く一回の指笛を吹いた。ほどなくして上空に二つ目の豹頭が出現する。巨鯱に咥えられたまま結構な距離を運ばれてしまったと思っていたが、幸いにも指笛が届く程度に収まっていたようだ。

 再び指笛、短く四回。迎えに来て欲しいという合図を出したあと、シルティは飛鱗たちに意識を向けた。

 海面に漂いながら、左手で胸や肩、腹を撫でる。


 シルティは今日、間違いなく、遠隔強化に至った。だが、技術というのは一度成功したからといって、それだけでいつどんな時でも常に成功するようになるわけではない。今は確かに飛鱗みんなと繋がっているという確信がある。が、寝て起きたら何もかもがわからなくなってしまうことだって充分にあり得るのだ。

 到達の余韻を忘れないうちに、この感覚を骨の髄まで刻み込まなければ。


「みんな、私の事持ち上げられる?」


 すると、十二枚の飛鱗が強い鉛直上方の力を帯び、シルティの身体を軽々と海面から引き抜いた。

 体表を伝ってしたたり落ちた塩水が海面を叩き、ぱちゃぱちゃと涼し気な水音を奏でる。

 無論、魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』は行使していない。対象が鬣鱗猪の飛鱗であるがゆえの特殊な例ではあるが、これは紛れもなく純然な遠隔強化である。ちなみに現在、体重は軽量化していない。


「ぅおー……」


 なんというか、物凄く、楽だ。

 主な用途が可嗅範囲の拡大と高所にった果実を落とすことなのだから仕方がないが、鬣鱗猪りょうりんイノシシがその身に宿す『操鱗聞香』は本来非力な魔法である。単独での高速移動は得意なので鋭利な斬撃は容易だが、物体をお腹に乗せて運搬するような負荷のかかる使い方をすると、生命力の消費量が加速度的に跳ね上がってしまうのだ。

 そのため、シルティが飛鱗を空中での足場として活用する場合、踏み付ける瞬間のみ大量の生命力を注ぎ込み、彼女たちに踏ん張って貰う時間を極力短くすることで消耗を抑えていた。それでもなお一歩ごとに生命力がごっそりと奪われ、死に近付くような寒気を覚えていたのだが……今は、それがない。

 ちょっと寂しいような気もするが、戦闘用技能として考えればまさに飛躍と呼ぶべき格段の性能向上だ。


「みんなすっごー……」


 仮に魔術『操鱗聞香』で身体を完全に持ち上げて一点に保持するようなことすれば、シルティの生命力は五拍も持たなかっただろう。戦闘能力を捨てて限界まで体重を軽量化したとしても、せいぜいが二十拍だ。

 無論、今も生命力の消耗が皆無というわけではないが、複雑かつ精密な回路に生命力を通して実現する現象と、生命力そのものが持つ作用のみで実現する現象とではそのは雲泥の差である。


「これ、しばらく空飛べちゃうじゃん……」


 上半身を重点的に守る飛鱗の配置上、どうしても両足がぶらぶらとして落ち着かないが、今なら比喩ではなく空を飛べそうな気分だ。

 素晴らしいのは、これが革鎧の存在を前提としていないこと。

 シルティは今後も戦闘に満ち溢れた生涯を送る。鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧が破損することもあるだろう。今ならば製作者ジョエル・ハインドマンの手である程度は補修できるが、シルティは〈虹石火〉を回収したあとは港湾都市アルベニセを離れる。

 鬣鱗猪が生息していない土地の職人が、この魔道具を巧く修復できるだろうか。まあ、まず無理だ。

 だが、こうして純粋な武具強化に至った今ならば、仮に革鎧を更新したとしても飛鱗たちと共に生きることができるだろう。

 シルティはとびっきりに最高の笑顔をローゼレステに向けた。

 すると、指示を出すまでもなく飛鱗たちがシルティの身体を回転させ、ローゼレステに正対させた。

 なんとも言えない奇妙な感覚だ。シルティの望み通りに動いてくれてはいる。が、シルティの思い通りに動いてくれているわけではない。そんな、微妙な違和感。まあ、なんにせよ、気は利くようだ。


【ローゼ、見てください! なんか飛べるようになりました!】

【……ああ。ぅん】


 突如として空中に浮かび上がったシルティに絶句していたローゼレステだが、シルティの発言になにか思うところがあったのが、腕一本分ほど距離を取った。


【これでローゼが空に逃げても飛んで追いかけられますね!】


 ローゼレステは無言のまま、さらに腕一本分ほどの距離を取った。


「んふっ。ふふ。うふふふふふ」


 シルティはローゼレステの様子に気付かず、にまにまと唇を緩めながら〈永雪〉で空気を斬り始める。宙ぶらりんで足の踏ん張りの利かない体勢だが、飛鱗たちがシルティの欲しいを察してくれるので、予想よりも遥かに良好だ。もう少し訓練すれば形相切断も可能となるだろう。

 上段からの唐竹割り、間髪入れず、左逆袈裟。

 そして、ぴたりと動きを止める。左右の右脇腹を順番に撫で、続いてへそを指先でコツコツと叩く。


「今、〈貅狛きゅうはく〉と〈獅獬しかい〉がちょっと喧嘩しちゃったね。〈怜烏れいう〉も少し押さえが効きすぎてるかな。よし、もっかいっ!」


 上段からの唐竹割り、間髪入れず、左逆袈裟。

 ローゼレステは無言のまま、さらに腕一本分ほどの距離を取った。





 シルティが百回ほど空気を斬り、生命力の消耗を自覚し始めた頃、レヴィンの姿に気付いた。


「おー!」


 腕を振りつつ呼び掛けたが、レヴィンは既にこちらに気付いていたようだ。直線距離を全速力でこちらへ向かってくる。離別したあとに海面から荷物を回収してくれたようで、背中と尻尾で二つの〈冬眠胃袋〉を保持している。頭部の高さが変わらない走行姿勢が大変美しい。が、気になる匂いを嗅いだあとのような奇妙な表情を浮かべていた。

 まさか、水中に連れ去られた姉が空中に浮かんで待っているとは思いも寄らなかったらしい。

 シルティもレヴィンの方へと飛行し、合流を早める。相対距離が充分に近付いたらレヴィンは速度を緩め、広めの足場を生成した。


「ありがと」


 感謝を告げつつ着地。久方ぶりの確固たる足場に安心感を覚えていると、レヴィンが突進気味に竿立ちになり、両前肢を振り上げながらシルティに圧し掛かってきた。

 咄嗟に腰を落として踏ん張り、妹の身体を抱き支える。つい先ほども思ったことだが、本当に重くなった。

 レヴィンはその体勢のまま、無言で姉の頬に首筋を擦り付け始める。

 祝勝の意に謝罪が混じったような頬擦り。

 シルティにはわかる。

 これは、足手纏いになってごめんなさい、と言っている。


「んふふ。いいのいいの。私はお姉ちゃんなんだから」


 わしゃわしゃとレヴィンの脇腹を掻き撫で、こちらからも頬擦りを返す。

 蛮族は戦いの末の死を尊ぶ。強敵との一対一の殺し合いならば、レヴィンが死んでもシルティはそれを祝うし、シルティが死んでもレヴィンは喜ぶだろう。だがそれはそれとして、シルティには『レヴィンと共闘するならば自分が先に死にたい』という願望もあった。

 妹を弱者と見做して庇っている、というわけではない。

 単に格好よく死ぬところを妹に見て欲しいだけである。

 まあ、今回格好良かったのは、シルティではなくローゼレステだが。


 ひとしきり頬擦りをし合ったあと、レヴィンは短く喉を鳴らして元の体勢に戻った。そして首を伸ばし、革鎧の、正確に言えば革鎧に配置された飛鱗の匂いをすんすんと嗅ぎ、上目遣い気味に疑問の視線を投げかける。

 レヴィンも『操鱗そうりん聞香もんこう』の性能はよく知っており、シルティの身体を持ち上げるようなことは難しいとわかっているのだ。だというのに、先ほどの姉は軽々と空中を浮かんでおり、さらには結構な速度で飛行までしてみせた。疑問に思うのも当然だろう。


「んふふ。実は、海の中で死にかけたら遠隔強化できるようになってさー。そしたら飛べるようになっちゃった!」


 遠隔強化という単語を聞き、レヴィンの耳介がぴくんと動く。大きく拡がった瞳孔は興奮を表している、が、その洞毛ヒゲは気落ちしたようにへにょりと垂れ下がっていた。

 未だ遠隔強化には爪が届かぬレヴィンとしては、姉の躍進を喜ぶ一方で、自分が置いて行かれたような気がしているのだろう。それを察したシルティは苦笑を浮かべ、レヴィンの鼻鏡を軽くつついた。


「私は十八歳。レヴィンはまだ二歳にもなってないじゃん。九倍も長く生きてんだから、これでレヴィンに追い付かれてたら私の立つ瀬がなさ過ぎるってば」


 きしし、と悪戯っぽい笑みを浮かべ、レヴィンの鼻面にキスをひとつ。


「いろんな魔物を殺して、レヴィンが十八歳になったらさ。きっと今の私ぐらい簡単に殺せるよ。……ま、三十四歳の私は今の私よりずっと強いから、負けないけどね」


 レヴィンもそれに返すように姉の頬を舐めた。


「さて」


 じゃれ合いはここまでだ。巨鯱の解体という大仕事が待っている。


「ローゼちゃんが助けてくれたんだよ。あっちで待ってるから、行こ」


 シルティはローゼレステがいかに格好良かったかを語りながら、来た道を戻り始めた。


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