第221話 見縊っているだろう



いったぁ……あっ。肝臓見えてる! 自分の臓物はらわた見るの久しぶりだ!)


 裂けた革鎧の隙間から顔を見せる肝臓。健康そうな色艶だ。

 満面の笑みを浮かべながら視線を巡らせる。〈岐尾きび〉による強襲を受けた巨鯱おおシャチは周囲を警戒するように円を描いて泳いでいた。困惑しているような動きだが、離れていく気配はない。ありがたいことに、シルティという獲物を諦める気はないようだ。

 左手で握る〈銀露〉のグリップエンドで肝臓を腹の中へ押し戻し、貴重な生命力を費やして再生を促進。改めて、命の恩を探す。

 もはや身体に染み付いてしまった魔術『操鱗聞香』を行使する感覚。それが、今は、ない。だというのに、シルティの視界では一枚の飛鱗が海水を斬り裂き、まるで遊んでいるかのようにくるくると回っている。

 とてもかわいい。


(こっち来て?)


 呼び掛けに応えるように〈岐尾〉が動く。ようやく動くようになってきた左腕を伸ばすと、〈岐尾〉はシルティの指先にじゃれるように身体を擦り付けてきた。

 なんとなくだが、動きが甘えているときのレヴィンに似ているような。

 シルティの記憶が無意識下で〈岐尾〉の振る舞いに影響を与えているのだろうか。


(ありがと。助かっちゃった)


 他の飛鱗とは違い、〈岐尾〉は表面に特徴的な薄い筋模様が入っているのがチャームポイントだ。指を伸ばしてお腹に触り、筋模様に沿ってなぞるようにくすぐる。


(……でもまさか、ひとりでに動くとは思わなかったよ)


 遠隔強化。

 それは自分の身体を離れた物体へ生命力の作用を宿らせる、ただ技法である。

 修練の末にこの超常に至ったからといって、対象となったナイフや拳鉞けんえつが外力に頼らず動き回るようになる、などということはない。カトレア・オルカダイレスの疑似竜が生きているように動くのは、生命力の導通によって変形機能を獲得する天峰銅オリハルコンの物性あってのものだ。

 ゆえに、仮にシルティが飛鱗たちに生命力を分け与えることに成功したとしても、『操鱗聞香』を行使した際のように飛び回ることはない、はずだった。


 鬣鱗猪りょうりんイノシシがその背筋せすじに備える五角形の鱗。シルティは今まで彼らを『非魔術的な単なる物質』だと考えていたが、どうやらそうではないようだ。革鎧に組み込まれている魔法的心臓部の役割は各飛鱗に動作の指示を出すことであり、支えもなく空中を動き回るのは飛鱗自体が備えた能力……なのかもしれない。

 なんにせよ、僥倖である。

 巨鯱おおシャチの魔法の影響さえ抜ければ、他の飛鱗たちも同様に動き回ってくれるに違いない。死ぬほど楽しみだ。


【ローゼ。あの巨鯱を殺しに来た、ってことでいいんですよね?】

【ああ。あれを殺す】


 青く美しい海中の世界で一際ひときわ輝く青虹色の球体は、どういうわけか巨鯱に対する強烈な敵意に染まっていた。フェリス姉妹がローゼレステの縄張りを汚染し続けたあの時のようだ。


(んぅん。いいなぁ。ちょっと嫉妬しちゃうぜ……)


 一体なにがあったのだろうか……と思考を巡らせ、シルティはすぐに気付いた。

 精霊種の身体は、物質的動物の肉体に満ちるものとは少しだけ生命力の塊だと言われている。そんな彼らを直接的に害する手段は非常に少ない。シルティに思いつくのは、世界最強の破壊魔法『咆光ほうこう』と、霊覚器を構築した者による形相切断ぐらいのものである。

 そこに来てこの巨鯱の魔法。生命力そのものを乱し、しばらく麻痺させるような働きがあるらしい。

 おそらくだが、精霊種にもばっちり効く。


 フェリス姉妹を先導していたローゼレステはこれをまともに受けてしまった。海中に落とされた直後、シルティは『ローゼレステを心配する必要はないだろう』と考えていたが、どうやら完全に的外れだったらしい。どれほどの苦痛を覚えたのかは人類種の身では推し量れないが、怒り狂って殺意を覚える程度には不快だったようだ。


【んふっ。それじゃ、一緒にやりましょう! 私、ずっとローゼと一緒になにかを殺したかったんですよ!】


 シルティは左手の〈銀露〉を鞘に納め、右手の〈永雪〉を肩に担いだ。すると、シルティの歓喜に応えるように飛鱗たちがざわりと震え、同時にシルティの首元から気泡が生じてあっという間に口元を覆う。


(おっ!)


 ありがたい。どうやら麻痺していた魔道具たちがその機能を取り戻してくれたようだ。肺腑の中身を入れ替えつつ懐から木製ストローを取り出し、速やかに海水を飲む。補給した生命力で腹筋と背筋の再生を促進していると、十二枚で最も小さく最も鋭い〈怜烏れいう〉、そして二番目に小さく他の飛鱗より美声な〈瓏鵄ろうし〉が革鎧という家から飛び出し、海中で回転を始めた。

 魔術『操鱗聞香』は行使していない。

 まるで〈岐尾〉に負けじと張り切っているような挙動である。

 シルティは微笑んだ。


(わかった。三人に任せるね)


 とその時、遠巻きに泳いでいた巨鯱が明確にこちらを向いた。光が散乱してしまう世界に生きる水棲生物の視力は得てして陸上生物よりも低く、情報の取得を聴覚や嗅覚に頼っていることが多い。飛鱗は薄く鋭いが、勢いよく回転すれば音を発する。〈岐尾〉だけならば警戒に値しない程度の雑音だったのだろう。しかし、さすがに三重さんじゅうになれば存在に気付くようだ。


(それじゃ、〈怜烏〉は下から、〈瓏鵄〉はあっちから回り込んで、適当に追い込んで。〈岐尾〉は私の傍にいて。他の九人は泳ぎを補助してね)


 指示に従って三者三様に散る飛鱗たち。

 当然、巨鯱もそれを認識した。大仰に尾鰭を揺らして加速、シルティに向かって真正面から突進を開始する。


(んふっ。でっか)


 巨鯱は尾鰭だけでシルティの身長よりも巨大なのだ。そんな怪物が恐ろしい速度でこちらに向かってくる光景。これ以上ないほどの大迫力だ。生物としての根源的な恐怖が蛮族の思考回路で変換され、ぞくぞくした快感となって背筋を駆け登る。シルティは頬をだらしなく緩め、唇をちろりと舐め……視界に映る微かな虹色。

 本能的に〈永雪〉を振るう。

 形相切断。右袈裟に走った銀が青を切開し、海の中に真空の裂罅れっかを生じさせる。

 直後、重くも甲高い異音が、シルティの傍を駆け抜けていった。ほんの僅かな眩暈を覚えるが、しかし身体が麻痺するほどではない。


(またこの音……か)


 これで三度目。いやでもわかる。十中八九、これが巨鯱の魔法だ。音を介して相手を捉え、その生命力を乱すのだろう。シルティの眼球では音自体を直接目視することは不可能だが、発動の予兆は辛うじて見えた。

 シルティは完全に無色透明の気体を切開できないので、空気中ならば防ぐ手段がなかったが……幸いなことに、今の環境ならば音を伝達する海水媒体がばっちり見える。完全に無効化することは叶わないが、タイミングさえ合っていれば威力を大幅に殺ぐことは可能らしい。


【よし、いける。ローゼ、私の後ろに隠れててください。離れないように】


 太刀を振るった慣性を使って前に出つつ、ローゼレステに支援を頼む。


【魔法であの巨鯱の妨害を頼みます。一拍か二拍あれば、私が突っ込んで斬りますから】

【……シルティ、お前、私を見縊みくびっているだろう】

【えっ?】


 思いもよらぬ言葉。そんなことありません、とシルティが応えるより先に、シルティの視界が青を帯びた虹色の閃光で染め上げられた。


(うッ)


 霊覚器が眩む。咄嗟に精霊の目を、感度を落とした。霊的要素の薄まった視界。こちらに向かって突進していた巨鯱の動きが――ぴたりと止まった。

 身体をへの字に曲げた状態で、ぴくりともしない。まるで見えない手が巨鯱を掴み取ったかのようだ。

 なにが行なわれているのかは明らか。水精霊ウンディーネがその身に宿す魔法『冷湿掌握』の発露である。


(うおわっ)


 やがて耳に聞こえてきたのは、ギチギチという軋むような軋轢音。シルティの眼前で巨鯱の胸鰭むなびれじれていき……そして、。呆気なく捩じ切られ、清浄な青が赤黒い色で汚された。

 ガラスをこすり合わせるような絶叫が聞こえる。痛々しい。苦痛に悶える巨鯱の悲鳴だ。

 あれだけ強大な魔物に一切の抵抗を許さぬ問答無用の暴力行為とは。素晴らしい。瞠目するシルティの前で暴虐は続いた。胸鰭に続いて背鰭が引き千切られ、さらに尾鰭が縦に裂ける。遊泳力の根底を成していた部分が全滅。もはやまともに泳ぐことは難しいだろう。

 呆気ない。もう、勝負がついてしまった。これは、確かに見縊っていると思われても仕方がないかもしれない。

 散っていった〈怜烏〉と〈瓏鵄〉が速度を落とし、所在なさげにこちらに意識を向けているのがわかる。


【舐めるなよ。水の中で私たちに勝てるわけないだろう】

【超かっこいいっす……】


 できればあの硬い頭蓋骨は真正面から斬りたかったなぁ、とシルティは思った。



---


※156話の後書きで

革鎧の飛鱗について、ストーリーで登場するのはせいぜい瑞麒と嘉麟の二枚くらいだと思います

と書きましたが、申し訳ありません、嘘でした……


※水棲生物の視力は得てして陸上生物よりも低く、情報の取得を聴覚や嗅覚に頼っていることが多い

と書きましたが、現実ではシャチを含むハクジラ類は嗅球や嗅神経を持っていないため、嗅覚は完全にないと言われています。


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