第220話 またひとつ



 上半身を丸ごとかじられたのは久々だ。シルティは本能的に己の体表を意識した。

 嚼人グラトンの誇る膨大な生命力、その全てを振り絞り、強靭な身体を渇望する。

 直後、容赦なく閉じられる巨鯱おおシャチ顎門あぎと。ちょうどシルティの胸郭を挟み込んだ牙の連なりは緩やかな丸みを帯びた胸当ての表層を削りながら滑り、結果的にシルティの頭を巨鯱の喉頭へ運搬した。


 顔面が硬い口蓋に押し付けられ、後頭部は柔らかい舌に包まれる。そして、上腹部じょうふくぶを襲う凄まじい挟圧きょうあつ。両腕も同時に挟まれた。

 身体の可動性を保つため、鎧の腹部や腰部はどうしても装甲が薄くなる。飛鱗の隙間に到達した杭のような牙が皮革を突破し、シルティの胴体を深くえぐった。

 くそう。大事に使ってきたのに。アルベニセに帰ったらジョエルさんに補修して貰わなければ。

 横隔膜が外力により押し上げられ、肺腑が空気をお漏らしし、シルティの喉から無様な音が響く。残念ながら〈兎の襟巻〉も機能停止している。故障したわけではないはずなので時間が経てば復活するとは思うが、どれほどかかるだろうか。それまで息が持てばいいが。なんにせよ、生命力が欲しい。

 シルティは巨鯱の口内で海水を飲み込んだ。

 その瞬間、シルティは体内を犯すような極上の苦痛を味わうことになった。


「おヴぇェプッ」


 久しく覚えた記憶のない強烈な吐き気に襲われ、貴重な空気を漏らしてしまった。

 消化器はらわたになにも入っていない嚼人グラトンであっても、腹を殴られたり脳を揺らされたりといった場合には嘔吐反応が起きる。シルティは蛮族ゆえ、既に鍛錬によってこういった生理反応を殺しており、余程のことがない限り嗚咽を漏らすようなことはないのだが。


くっさぁ!!)


 物凄いにおいだ。飲み込んだ海水を介して味覚ではなく嗅覚を蹂躙してくる。魚肉と獣肉と血と脂をぐちゃぐちゃに混ぜてドブで腐敗させたような生臭さの極致。レヴィンの吐息は肉食獣らしいかぐわしさだが、この巨鯱の口腔は完全な暴力である。


(うッ?)


 直後、冷たい海水が凄まじい違和感に顔をしかめた。

 お腹が重い。嚼人グラトンであれば身体が出来上がっていない乳児か臓腑が衰え切った老衰者でなければ味わうことのない感触。シルティの記憶にある限りでは生涯初の膨満感だ。どうやら『完全摂食』すらまともには働いていないらしい。

 シルティは笑った。

 竜を除けば、鯱は海棲動物の中でも最強に近い身体能力を持つだろう。その肉体に備わるのが肉体を麻痺させつつ恒常魔法すらをも殺す魔法だというのだから、本当に凶悪極まりない。

 だが、魔法や魔術よりももっと単純で根源的な生命力の作用――身体能力の強化や肉体強度の増強についてはまだ生きているようだ。仮にそれらが死んでいたら、今頃シルティの上半身と下半身は生き別れになっていたはずである。


 巨鯱が動いた。

 咥え込んだシルティを振り回すように身体をくねらせ、慣性と水の抵抗を巧く使って獲物を咥え直す。シルティの筋肉から無数の牙が抜け、間髪入れずに再び突き刺さり、傷口を大きく広げた。

 辛うじて両断こそされなかったが、笑ってしまいそうなほどの咬合力だ。少しでも肉体の強化を弱めれば死ぬという状況にシルティの脳髄がとろけ、心臓の鼓動が爆発的に跳ね上がった。自分では全てを振り絞ったつもりだった生命力がさらにたぎり、その華奢な肉体を限界を超えて強化させる。


 迸る生命力のおかげか、単に時間経過によるものか、四肢の麻痺が僅かに弱まった。

 だが、両腕は肘付近を牙に囚われており、まともな抵抗は望めない。生命力を革鎧に注いでみたが、『操鱗聞香』は相変わらず死んでいる。

 どうにかして、外から攻撃を加えなければ。だが、どうすれば。

 打開策を探すシルティを容赦なく襲う、二度目の咥え直し。


「ぐッぅ」


 繰り返される刺突により筋肉が解されていく。広背筋はズタズタになり、腹直筋は断裂寸前。脇腹のあたりで鈍い折損音が響いた。シルティの限界を超えた強化ですら容易く貫通する咬撃、そう何度も耐えられる暴力ではない。

 暗闇の中、主観を引き延ばす。だが、打つ手が見つからない。

 刃物が。

 刃物が欲しい。

 刃物がないと駄目だ。

 刃物が振るえなければ死ぬ。

 麻痺した四肢も相まって止まったように感じられる世界で愛を渇望し、そして、呼び掛けのようにも感じられる鮮烈な直感が脳髄を貫いた。


 そうだ。

 そういえば。

 この場に一人だけ、巨鯱の魔法を浴びていないがいる。

 私の愛しい刃物子供がいる。


 シルティの飛鱗に対する遠隔強化は紛い物。単純な意識のみで距離を超越することは未だにできていない。身体を離れた物体の運動に関与できるはずがない、という意識が越えられない壁となり、手放した刃物を身体の延長と見做せなかったからだ。思い通りに飛鱗を操作するという魔術『操鱗聞香』の特性のおかげで、疑似的に遠隔強化を成し遂げていただけである。

 しかし今となっては、飛鱗たちはシルティの身体の延長などではない。

 カトレア・オルカダイレスが伴う疑似鎚尾竜アンキロのオプロスも可愛かったが。

 言うまでもなく、私の飛鱗たちの方が可愛いに決まっている。

 それぞれに個性があるいとし子たち。

 同時に、世界を飛び回って


 臨死と興奮に脳が炙られ、またひとつ、シルティの意識のたがが弾け飛んだ。


 正真正銘の遠隔強化は魔術を介さぬ単純な生命力の作用である。

 革鎧の『操鱗聞香』は飛鱗に生命力を操作する魔術である。

 そして、この場で唯一、〈岐尾きび〉は巨鯱の魔法を受けていない。

 ならば、生命力は麻痺していない。

 ならば動けて当然だ。むしろ動けない方がおかしい。なぜなら飛鱗たちはとても自由なものだから。私よりもよっぽど自由な存在だから。


 染み一つない純白の狂信が世界に容認され、分割された生命力が距離を超越して再燃する。力を失い、海底の軟泥に沈んでいた飛鱗がびくんと跳ね上がった。シルティが目視していたら惚れ惚れするだろう素晴らしいキレを発揮して浮上、空気より遥かに粘つく塩と水を物ともせず、いつものように回転を開始する。

 巨鯱の口腔の中で暗闇に包まれながら、どういうわけか、シルティには〈岐尾〉の頑張りが手に取るようにわかった。


 擬似的な生命と化した〈岐尾〉。もはやシルティの視界や明確な指示を必要とせず、独立的かつ無意識的に動く。その身に宿すはシルティから株分けされた戦意と本質的な切断愛のみだ。

 海水を斬り裂き、母親シルティのお株を奪うような高速を実現。巨鯱の背後からその腹部を目掛け、一直線に襲い掛かった。

 腹甲を持つカメ腹肋骨ふくろっこつを持つワニなどを除けば基本的に腹部に骨はなく、内臓を納めた皮張りの袋に近い。物理的な強度だけでいえば多くの動物に共通して柔らかい弱点だ。シルティはそれを知っている。そして、〈岐尾〉もそれをわかっていた。


 肛門の少し上に直撃した〈岐尾〉はその身体の八割ほどを巨鯱の皮膚にうずめ、白い体表をなぞるように正中線を奔った。速度を緩めぬまま胸骨の剣状突起に衝突、しかしさすがに骨を断つことはできず、敢え無く弾かれる。拳幅一つ分ほどもある分厚い皮膚がざっくりと斬り裂かれ、白みを帯びた断面が露わになった。

 残念ながら内臓までは到達していない。どう贔屓目に見ても軽傷だ。しかし、巨鯱にとってはまさしく青天せいてん霹靂へきれき。びぐんと身体を硬直させたあと、即座に咥え込んでいたシルティを解放しつつ尾鰭で水を蹴って退避。視線を巡らせるように小さく旋回し、鳴き声を上げて水を震わせた。

 どうやら捕食中の隙を突かれてなにか別の生物に奇襲されたと思っているらしい。

 ある意味ではそれも正しい。


 解放されたシルティはなにより先に脳内で歓喜と感謝を叫んだ。

 遠隔強化を成し遂げたという感覚と確信はあったが、しかし物質的視界も霊的視界も完全に覆われていたので、〈岐尾〉の動きの詳細を理解しているわけではない。シルティにとって現状は、刃物が勝手に動いて自分を助けてくれたという、刃物愛好家からすると夢のような場面である。


(好きッ!!)


 もはや言葉にならない興奮と情愛を〈岐尾〉に贈りつつ、視線を上方へ。

 口腔内の暗闇から一転して明るい青。地上に比べれば暗いが、それでも目が眩みそうになる。そろそろ呼吸が苦しい。海面に上がりたい。身体は動くようになってきたが、腹筋と背筋を傷めつけられたので水泳力も落ちただろう。果たして海面まで持つだろうか……

 と、その時、シルティの霊覚器に青虹色の球体が映った。

 ローゼレステだ。ここは彼女にとっては悍ましいほど汚いはずの海中。にも拘らず、物凄い速度で近付いて来る。なにがあったのだろうか。


【ローゼ?】

【殺す】


 なにやら、怒っている。

 シルティは一瞬茫然としたあと、嬉しそうに笑い、〈永雪〉を構えた。


【うふっ。いいですよ。できれば一対一がよかったですけど、私、そういう殺し合いバトルロイヤルも大好きですから】

【あ? ……いや殺したいのはお前じゃない】

【えっ? あ、ああ、巨鯱あっちですか……なんだ……】

【お前とは二度と殺し合わない】


 どうやらシルティではなく、巨鯱に怒っていたようだ。


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