第219話 海中戦
青く
その銀の
(んくッ)
愛する〈銀露〉の刃渡りは拳幅二つ分ほど。
今、巨鯱の皮膚に埋まり込んだのは、拳幅一つ分ほど。
皮下に存在する極めて硬質な物体に切先が衝突し、シルティの殺意が止められてしまった。
(見かけによらず
不充分な体勢かつ水中環境下とはいえ、
シルティは即座に左肘を屈曲させ、巨鯱の側頭部を掻き斬った。皮膚に埋まり込んだ不銹の刃を水平移動。獣の分厚い皮膚を大きく斬り裂く快感の奥に、ガリガリという硬質でざらついた感触。緻密な岩を縫い針で引っ掻くような途方のなさを感じる。やはりこの状況では頭骨は断てない。
ああ。本当に素敵だ。純然たる肉体強度で刃物を阻む。蛮族にとっては理想のような骨である。相手への賛美がシルティの脳を
私の腕は刃物。切断が存在意義。
斬る。絶対に斬る。死ぬ前にこの頭蓋骨を斬る。
「ぅひッ」
思考を嗜好に染め上げられた蛮族は唇を凶悪に歪ませ、無意識のうちに興奮を孕んだ笑声を漏らした。
武具強化を頑丈さの実現に偏らせ、切断力を一時的に抑え込む。逆手に持った〈銀露〉を大きく傾けて分厚い皮膚を剥ぐように
これほど好き勝手に歯向かっているのに、巨鯱は大した痛痒を感じていないようだ。相変わらず曲芸のように出鱈目な軌道で水中を暴れ回っているが、しかし
好都合だ。
魔術『
革鎧の地と巨鯱の皮膚で挟まれた刃が両者を等しく
無論、この巨体相手に皮膚表層をどれだけ削り
だが、咬合力は弱まっていない。驚いて逃げようとしているのならばシルティを放せばいい。つまり、この動きは痛みからの逃避ではない。何らかの攻撃的な狙いのある急降下だ。
(うおおっ。筋肉が
巨躯が
いやはや、本当に速い。シルティという異物を咥え込んだ状況、普段よりも格段に強い抗力を受けているだろうに、それをものともしない遊泳力。頬を通して感じるのは恐ろしいほどの筋肉の躍動だ。胸鰭や尾鰭の面積に頼っているのではなく、全身の筋肉が連動しているのがよくわかる――
「がぼッ、ぐぅッ」
唐突に肺腑を貫いた衝撃。気が付けば巨鯱は海底に到達していた。緻密な砂で形成された海底が背面を強打、そのまま無残にも潰される。水圧も凄まじいが単純な衝突圧も凄まじい。肋骨が
なるほど。急降下の狙いがわからなかったが、やられてみれば単純明快だ。
幸いにも直下の海底は岩礁ではなかった。柔らかい砂地が吸収してくれたおかげで頭は無事だし、このまま
「ぐ、ぐッ、おッ」
巨鯱は完全に逆さまになって尾鰭を動かし、海底に頭を押し付けるように圧をかけていた。脈動的な推進力が馬鹿げた重さとして加わり、呼吸すらままならない。先ほど成長したレヴィンの重さに和んでいたが、これは本当に桁が違う。どう頑張っても持ち上げられない。
(
まさか〈兎の襟巻〉を装着しているのにも拘らず窒息の危機に陥るとは思わなかった。だが、異常なほどの速度が
背面、右の肩甲骨を守る飛鱗〈
柔らかい。
シルティはこの時、鯱の背鰭には骨がないことを知った。
相対位置の関係で両断には至らなかったが、あれだけ立派な鰭を傷付けたのだ。遊泳能力をいくらか削ぐことはできただろう……と判断した直後、シルティの霊覚器が鮮烈なまでの閃光を捉え、そして身体が全く動かなくなった。
甲高い、それでいて腹の底に響くような、表現の難しい轟音。強烈な眩暈と共に訪れる身体の麻痺。即座に感じる血の風味。鼻腔で毛細血管が裂けたようだ。鼓膜も死んでいるらしく、耳鳴りが酷い。
直前に見えた生命力の迸りからして、十中八九、これがこの巨鯱の魔法だろう。詳細はわからないが、遠距離攻撃であることは間違いない。これが最大出力かは不明だが、少なくともレヴィンの珀晶を砕き、シルティの五感を潰す程度の威力はある。
連発はしてこない。なにか
巨鯱が顎を開いた。咥え込んでいた左足を舌で押し出し、呆気なく獲物を放す。そしてなぜか、悠々とした動きでシルティの姿を観察し始めた。その視線には紛れもない興味の色が宿っている。
なんにせよ、自分の魔法が獲物に及ぼす効果はよく知っているということだろう。シルティが動けないことを理解している動きだ。すでに勝利したと判断しているらしい。
事実、シルティは辛うじて残った意地と本能で〈永雪〉と〈銀露〉を保持しているものの、振るうことは到底不可能な状況だ。仮に
しかし、それはあくまで仮の話。十二つ子の家族に恵まれたシルティに捕縛や麻痺の類は効果が薄いのだ。いつものように魔術『操鱗聞香』を行使――しようとして、シルティは驚愕した。
(うェッ!?)
飛鱗が反応しない。ぴくりともしない。魔道具の故障か。いや、革職人ジョエル・ハインドマン渾身の作品が海水に浸ったぐらいで壊れるはずもない。
異常があるのはシルティ自身だ。
物理的な破壊力、だけではない。
この遠距離攻撃の本質は。
(魔法を殺す魔法!?)
大興奮するシルティの目前で、巨鯱が再び顎を開いた。
下顎と上顎できっちり色分けされた美しい頭。下顎に収まった柔らかそうな舌は灰みを帯びた桃色で、その外側を囲むように長い白牙が並んでいる。やはり、鋸というよりは
どうやら今度は足ではなく、上半身を齧るつもりらしい。
しかしどうにも、身体が動かない。
(だあくそッ、動けんッ)
シルティの視界が暗闇に包まれた。
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