第218話 ちゃんと覚えている



 なんらかの手段により珀晶の足場を破壊された。

 重たい水音と共に視界が切り替わる。

 青みを帯びる静かな世界。すぐ左隣には歪み切ったレヴィンの姿。手を伸ばせば届く距離だ。


(んぐ)


 本来、突如足場が消滅したくらいで海に落ちるフェリス姉妹ではない。レヴィンの反射神経は蛮族として誇れる域に達している。足場の破砕音を聞いた瞬間には視線を下に落としていたはずだ。足場が消滅すると同時に生成し直せる……落下の直前の、強烈な眩暈がなければ。


(また動けないやつこういうのかッ)


 愛刀の柄を握り直した瞬間、甲高い、それでいて腹の底に響くような、奇妙な轟音を感じた。直後に強烈な眩暈に襲われ、手足が痺れたように動けなくなった。現在も頭の奥に疼痛があり、四肢の動きが鈍い。見たところレヴィンも同様のようだ。

 同行していたローゼレステがどうなったかはわからないが、まぁ、心配する必要はないだろう。精霊種を害することのできる存在は極めて稀だ。むしろ、ローゼレステの方がシルティたちのことを心配しているかもしれない。

 さて、棘海亀とげウミガメに続く不可視の攻撃。空気中で餌食となったことから雷の類ではなさそうだ。そしてシャチが水棲動物である以上、水中で使えないということはないはず。


 現状、最も致命的な状況に置かれているのはレヴィンである。姉妹は両者とも保護眼鏡ゴーグルを着用していないため、物質的な視界が完全に死んでいた。当然、嗅覚や聴覚も同様だ。

 シルティは霊覚器で多少誤魔化せるが、レヴィンはそうもいかない。その身に宿す魔法も水中では完全に無力である。

 せめて視界だけでも確保させてやりたい。まずはレヴィンに保護眼鏡ゴーグルを被せなければ。

 魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』を発動。〈瑞麒〉と〈瑞麒〉を使って自身とレヴィンの〈冬眠胃袋〉の脱着機構をそれぞれ操作、背中のを切り離して身軽さを確保。即座に二枚を回収し、十二枚の飛鱗を総動員する。動かぬ身体を強引に運搬し、妹の直下に滑り込んだ。

 レヴィンは即座にシルティの意図を読み取った。未だ麻痺の影響から抜け出せない四肢を、それでも可能な限り迅速に動かし、姉の肩と膝に四肢の鉤爪を食い込ませる。


(よしッ)


 ありったけの生命力を外付けの皮膚革鎧へ。

 魔術の出力を振り絞り、妹の身体を全力で持ち上げた。


(ん、ぐッ。ふふっ! ほんっ、とにっ、おもくっ、なった、なッ!!)


 シルティのひたいにくっきりとした青筋が浮かび、強く食い縛った歯の隙間から細かな気泡が立ち昇る。

 既にレヴィンの体重はシルティの五倍以上。最高速度も動きのキレも素晴らしいものを誇る飛鱗たちだが、実のところ単純な馬力としてはかなり貧弱なのだ。重量物を支えようとすれば生命力の消費は加速度的に増大する。顔が赤く染まって然るべき万力の食い縛りを披露しているのにも拘らず、シルティの顔色は目に見えて青褪めていった。

 だが、命の源を垂れ流しにして臨死へ踏み込んだ甲斐はあったようだ。レヴィンの身体が海面を突き破り、その山吹色の眼球が性能を取り戻す。


 レヴィンは首を伸ばし、即座に『珀晶生成』を行使した。

 姉の手を模した珀晶を作り、曲げられた指に保護眼鏡ゴーグルのブリッジを引っ掛け、首をすくめてから珀晶を消去する。淀みない動きで両目が保護眼鏡ゴーグルに覆われた。こういった場合に備え、地上で何度も練習した動きだ。

 視界の確保は完了。

 戦況を少しでも有利に傾けるためにレヴィンは視線を巡らせ、敵の姿を探す。だが、レヴィンが索敵を終えるより先に、頼りにしていた支えシルティが消失した。

 膨大な質量に四肢を払われ、転倒。さらに硬質な背鰭が脇腹を強打し、海上で横転する。

 身体の側面から再び青い世界に舞い戻ったレヴィンが見たものは、自分よりも遥かに巨大な水棲肉食獣が悠々と泳ぐ姿と、その吻部から尾を引くように細く伸びる赤いもやだった。

 強襲した鯱がシルティの左の下腿かたいを咥え込み、そのまま連れ去ろうとしているのだ。


 速い。

 泳ぎでは追い付けない。

 レヴィンは即断した。

 鉛直の潜水、転身、全力の上昇。水中で得た速度のままに海面を突き破り、空中に身を躍らせる。跳ね上がる飛沫しぶきの隙間に視線を走らせ、自らの足場を生成、着地。

 間髪入れず連続の跳躍。海面を真っ直ぐに斬り裂く湾刀背鰭を目掛け、疾走を開始する。

 地上のそれと大差ない速度で鯱に追い縋るレヴィン。


 その尽力も空しく、レヴィンが追い付くより前に、黒い背鰭は海中へと消えた。





 左足を顎で掴まれ、無様に海中を引き摺り回されながら、シルティは満面の笑みを浮かべていた。

 すね脹脛ふくらはぎに食い込む無数の牙の感触。陸棲の獣たちと違って犬歯や臼歯などの区別がなく、サメワニのように全てが同じような形をしている。長さは、平均すると今は亡き〈玄耀げんよう〉ほどか。

 巨大な頭部からも明らかだが、咬合力がとにかく馬鹿げていた。シルティの脛骨けいこつ腓骨ひこつを脆いクッキーのように粉砕しているが、それでもなお有り余る余力を感じる。シルティの左足を千切らないよう手加減しているのだ。咥え直すのが面倒だからだろう。

 鯱は賢い。えらを持たぬ相手ならば少し沈めておけば窒息することを理解している。少々の負傷であればすぐに再生してしまう魔物を相手にするならば、肉を食い千切るより窒息させる方が楽な殺し方ということもある。

 シルティを『直接殺し合うには面倒な相手』と認識したのだろうか。それはとても嬉しい。


 だが、〈兎の襟巻〉を装備した嚼人グラトンの潜水時間は海獣たちにも迫るうえ、シルティの刃は竜の鱗すら斬り裂く。このままならば鯱の作戦は成功しないだろう。

 シルティは海中を引き摺られながらも首元に手をやり、海水を目一杯に飲み込んで生命力を補給したあと、先丸ピンを強く押し込んだ。魔術『鰓銛さいせん』が発動し、口元が速やかに気泡で覆われる。保護眼鏡ゴーグルを手早く外し、口元の気泡をように装着。

 これで視界は確保できた。若干の海水は残っているが。

 今後は海に入っていない時でも保護眼鏡ゴーグルを着用しておこう。そう決意しつつ、腹筋を酷使。高速移動に伴う水圧に逆らって上体を捻り、〈永雪〉を構える。

 狙いはくびれのない頸部。鯱は巨体だがシルティの愛刀も立派だ。〈永雪〉の刀身ならば充分な痛手を与えられるはず……直後、鯱が動いた。

 獲物シルティの動きを鋭敏に察知したのか、水中でありながら直角に近い方向転換を披露。径の小さな螺旋運動ののち、急降下、さらに急上昇。身体をくねらせ、頭部を、ひいては咥えたシルティを振り回す。

 遠心力が加算された水圧に腹筋が敗北し、屈曲させていたシルティの身体が強引に引き延ばされた。


「がヴぁッ」


 体内に響くにぶい音と腰の激痛。のこぎりというよりはくしに近いつらなる牙がシルティの足を引き裂き、細切りにされた下腿筋かたいきんをべろりと剥がれる。


(ああもう、ここで死んでもいいな!!)


 海中という不利な環境を考慮しても凄まじい暴力だ。筋力の桁が一つ二つ違う。単純な力比べで勝てるはずもない。六肢竜に殺されるのが一番の望みだが、ここでこの巨鯱おおシャチに殺されたとしても満足して逝ける。

 だがそれはそれとして、殺すことを諦めることはない。ただ殺されるよりは相打ちがいいのだ。死後は強者と死骸を重ね合って眠りたい。

 と、青い視界が赤く染まり始めた。

 六歳の頃の記憶が蘇る。気持ちよく晴れた春の日。父ヤレック・フェリスに徒手空拳の手ほどきを受けていた。シルティは父の太い右足でボゴンと蹴り上げられ、軽々と宙に浮かされた挙句、そのまま両足首を掴まれて豪快に振り回された。その時も、こんな感じの視界だった。

 視界が赤いだろう。それはに血が集まっているのだ。これが続くといずれ頭蓋のうちで血の管が破裂して死ぬぞ。覚えておけ。がはは。そう言われた。ちゃんと覚えている。


 シルティは左手を右腰へと伸ばし、〈銀露〉を逆手で引き抜いた。

 愛刀〈永雪〉はこの上なく素晴らしい最高の太刀だが、現状ではその威風堂々な刀身が災いして水圧と遠心力をもろに受けてしまう。万全に振るえば四肢竜の鱗すら斬るシルティだが、鯱に咥えられてぐるんぐるんと振り回されながらではさすがに刃筋を立てられそうにない。目まぐるしい視界の中では形相切断も不可能。こんな状況で『操鱗そうりん聞香もんこう』を発動しようものならあっという間に飛鱗を置き去りにしてしまうだろう。

 活路はこの不銹ふしゅうのナイフのみ。

 汲めども尽きぬ無限の愛を注ぎ込み、銀の鋼刃を虹色に煌めかせる。

 左足を口角部で咥えられ、引き摺られている状況だ。ちょうど側頭部に手が届く。

 なんとなく可愛らしくも見える目元の白模様アイパッチ、その終わり際に、容赦なく突き立てた。



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今回の話はあまり推敲の時間が取れなかったので、後日、大まかな内容は変えずに少しだけ修正するかもしれません。申し訳ありませんが、ご了承くださいませ。


(実は火曜日に突然PCがクラッシュし、復旧させたと思ったらワードくんとエクセルくんが忽然と姿を消しておりまして……PC復旧からOffice再インストールまでで二日もかかってしまいました……)

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