第215話 水撃式移動法



 雷撃による硬直と生命力の補給で距離を空けられてしまった。

 時間が勿体ない。棘海亀に食い千切られた左足の再生を促進。身体の節々に残る雷撃の後遺症も治す。思いのほか調子がよく、すぐに完治した。

 万全となった両足を揃えて尾鰭おびれとし、身体を海豚イルカのようにくねらせて水を蹴る。合わせて魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』の出力も全開に。

 驚愕的速度を獲得した蛮族の娘が水中を奔る。

 口元を覆う空気が細かく千切れ、後方へ流れていく。交互に逆回転する渦の列が微細な気泡を巻き込み、くっきりと可視化されて幾何学的で幻想的な光景を生み出す。

 シルティはあっという間に追いついた。

 しかし、急いだ甲斐はあまりなかった。これはシルティが速かったというより、棘海亀とげウミガメが遅かったと言うべきだろう。

 大きく息を吸い、集中。時間の分解能を意図的に高め、停止したようにも思える視界の中で獲物の様子を窺う。


(んん……こっち向いてくれないな)


 これといった反応を見せず、ただ愚直に鰭肢ひれあしを羽ばたかせている。速度は人類種がゆっくり歩く程度で、こちらに視線を向けることすらない。とてもではないが『逃走』とは呼べないのんびり具合である。

 どうやら戦うつもりも逃げるつもりもないご様子。

 嚼人サルが突っ込んできたから迎撃した。簡単に食える位置にいたから啄んでみた。暴れ始めたから逃がしてやった。彼にとってはそれだけのイベントだったのだろう。


(めちゃくちゃかっこいい……)


 余裕に満ちた立ち振る舞いは紛れもなく強者のそれだ。


(さて)


 先ほどと同じように強襲可能な間合いを保ち、魔道具が生成した粘っこい空気の中でちろりと唇を舐める。

 目視さえできれば斬るなり躱すなりしてみせる自信があるのだが、不可視の雷、実に厄介だ。愚直に突っ込めばまた魔法の餌食。さて、どうしたものか。

 まず思い浮かぶのは我慢である。受ければ激痛が走るしまともには動けなくなるが、即死するほどの衝撃ではなかった。突っ込んで感電して生命力を補給してまた突っ込む、をひたすらに繰り返していれば、いずれは棘海亀の生命力が尽きるだろう。食事を取れるという条件下ならば、継戦能力で嚼人グラトンに勝る魔物はいない。

 次に思い浮かんだのは遠隔強化。雷が飛鱗の動きに影響を与えないことは先ほど確認済み。シルティの愛が充分に乗った飛鱗ならば亀の甲羅だって削れるだろう。当然、相手も躱すだろう。棘海亀の反応の良さはさきほど見た通り。だが、それでも勝機はある。なにぶんこちらの手は多い。十二の刃は一つの脳に従う殺意の群れだ。これまであまりそういう使い方はしてこなかったが、獲物を追い詰めるのは大得意のはず。


 しかしながら今日は、どうにも、そういった気分ではない。

 なにがなんでも真正面から突っ込んで甲羅の上から殺したい。

 『完全摂食種族的長所』を生かす持久戦も嫌いではないし、飛鱗で斬り殺すのも好きだ。だがシルティが最も愛するのはやはり、圧倒的な速度に任せた強引な肉薄からの息もつかせぬ殺害なのである。

 両手で握る愛刀〈永雪〉も私で殺せと訴えている。ような気がする。


(あの雷をくぐり抜けるには……)


 無学なシルティに、雷の学術的知識などない。

 だが、故郷の先達戦士バイロン・ヘイズが語った武勇伝によると、火精霊サラマンダー風精霊シルフが協調して生み出す原質支配精霊の雷は物質的な盾を悉くおかして伝わる極上の暴力らしい。

 今回の場合、おそらく周囲を覆うこの海水が雷を伝えているのだろう。空気中を貫く雷は大気を白熱させながら進むが、海水は雷に貫かれても白熱しないようだ。シルティはそう理解した。

 ならば。


(よし。やるか)


 棘海亀はシルティから離れる方向に泳いでいるが、特に逃げようとしているわけではない。速度は遅く、シルティならば遊泳のみで余裕を持って追いすがれる。

 つまり、魔術『操鱗聞香』は加速以外の用途に使えるということだ。

 シルティは水を蹴って加速すると、棘海亀の完全な直上ちょくじょうを位置取った。


 全身を満たす生命力をさらに熱くたぎらせ、体表に存在する十二の飛鱗を、で分離する。

 シルティより遥かに達者な遠隔強化を誇るカトレア・オルカダイレス。彼女は天峰銅オリハルコンの疑似竜を形成するとき、『自分の肉から竜を産み出す感じ』でやっているらしい。シルティもいずれは魔術に頼らずとも遠隔強化を成し遂げたいと思っているので、最近は先達の教えにならうことにしているのだ。


 ただし、シルティに妊娠経験などあるわけもないので、出産の感覚は完全に想像でしかない。

 何度か腹に〈銀露〉を刺して腹圧でひり出してみたが、普通の負傷の痛みと特筆するような違いはなかった。

 当たり前である。


(〈瑞麒みずき〉、〈嘉麟かりん〉、〈鳳駕ほうが〉、〈凰輦おうれん〉、〈撓覇とうは〉、〈堅亀けんき〉、〈岐尾きび〉、〈鸞利らんり〉、〈怜烏れいう〉、〈瓏鵄ろうし〉、〈獅獬しかい〉、〈貅狛きゅうはく〉……)


 全ての飛鱗を視界内に収め、静かに、深く、集中。

 大海よりも深い濃密な愛を込め、それぞれの大切な名を脳内で唱える。

 子供たちを多少の隙間を空けて直線状に並べ、一本の疑似長剣を形成し、直線を維持したままくるくると旋回させる。

 飛鱗そのものもそれぞれ自転させ、疑似長剣の総身に鮮烈な切断力を宿らせる。

 実質的は刃渡りはシルティの身長の三倍弱。ぐるりと円を描かせれば棘海亀がすっぽり収まる大きさだ。。

 薄く滑らかな刃物で斬るならば水から受ける抵抗も僅か。シルティ自身を押し運ぶ場合と違って、空気中より多少重い、程度の負荷で済んでいる。

 背後に回した〈永雪〉をくるりと回し、


(みんな、行くよ)


 旋回させたまま、全速射出。

 連なる飛鱗が水を穿孔するように直進、海水を螺旋状に切開して獲物まで到達した。だが、その殺意が血肉を得ることはなかった。シルティよりも遥かに大きな体を嘘のようにひるがえし、己を襲う旋刃を最小の動きで躱したのだ。

 当然である。螺旋を描く以上、飛鱗の速度は直線より数段落ちてしまう。抱き合うような至近距離からの初見殺しさえ見事に躱した棘海亀の反応をこの程度で置き去りにできるはずもない。

 だがその光景を見て、シルティの唇は笑みを浮かべていた。

 元々、これは命中させることを目的としない一手。予定通りだ。


 愛と確信を帯びた刃はシルティの主観のままに物性を是正する。

 円柱状に切開された空間は八重に是正された強固な海水を外殻としてしかと維持され、正真正銘のたたえる閉じた円筒と化した。

 支えとする海水を突然に失った棘海亀、その身体は既に重力の虜囚だ。さすがの棘海亀も形相切断は予想できていなかったのか、眠たげにも見える両目がぎょろりと動き、嘴が僅かに開かれた。体勢が崩れ、シルティに甲羅の側面を見せる。

 直後、時差を設けた最初の形相切断の効果が終わり、シルティの背後の海水が物性を取り戻す。膨大な海水が、まさしく爆発的な勢いで筒内部へと雪崩れ込んだ。

 開口部に浮かんでいたシルティは当然、その破城槌はじょうついのような奔流ほんりゅうに飲み込まれる。


「がはゅッ!」


 背中を貫く馬鹿げた衝撃。

 背骨がきしみ、同時にねばつく空気が喉の内壁をなぞる。歯を食い縛って覚悟していたのに、肺が潰れて空気が漏れ出てしまった。

 物凄く痛い。

 物凄く苦しい。

 だがその代わり、シルティは四肢や飛鱗ではどうあがいても到達できない超越的な直進速度を獲得した。


(ひひッ! 完璧っ!)


 これは五十日ほど前、〈兎の襟巻〉に身体を慣らしていた時に偶然発見した現象だ。

 完全に水没した状態で、つまり周囲に空気が全くない状態で、水を大きく切開したらどうなるのだろう?

 唐突に脳に浮かんだ疑問を、シルティはなんの躊躇もなく無邪気に実行したのである。

 結果、ウォーターハンマー現象により眼前で炸裂した不意の衝撃に呑み込まれ、シルティは危うく気絶するところだった。


 無学な蛮族に圧力に関する学術的知識などあるわけもなく、今でも何故こんなことが起きるのか全く理解できていないが、細かいことはどうでもいい。理論を軽視するわけではないが、シルティがより重要視するのは結果。周りに空気がないところで水を大きく斬れば吸い込まれる。それだけがわかっていれば応用は可能だ。

 その後試行錯誤を繰り返すこと百回弱。自らの前方を円筒状に高速切開することで爆発的な直線速度を得られるということを発見したシルティは、さらに訓練を積み上げ、独自の水中移動法を編み出すことに成功した。

 上手くやれば、飛鱗で牽制すると同時に経路をき、時間差のある追撃を単独で実現できるだろう。

 ただ、ふたと円筒の順次形成という事前準備が必要な上に、激流に突き飛ばして貰うという極めて乱暴な加速法のため、戦闘中に使うのはもっと習熟してからと思っていたのだが……奇しくも今回、おあつらえ向きと言えるほどの状況が整っている。ならば、使うことに躊躇はない。


 経路は鉛直。水撃が生む爆発的な初速度に重力加速度を乗せる。大型の魚類や海獣にすら実現の難しい超高速で海中を落下、ぐちゃぐちゃに乱回転する世界の中で黒褐色地に黄斑の甲羅を注視し、両手で握り締める〈永雪〉の切先を第二椎甲板ついこうばんに定めた。

 まばたきすら間に合わぬほどの刹那の強襲だ。しもの棘海亀と言えどこのキレであれば余裕をいくらか奪えるだろう。

 さらに今この瞬間、シルティと棘海亀の間に水は存在しない。たとえ電撃の魔法を発動したとしてもシルティには伝わらないはず。

 万が一、なにか想定外が起きて伝わったとしても、空間を貫く時の雷は光るはずだ。

 光るならば斬ってみせる。


 余裕を奪い、魔法を奪い、保険まで掛けた。

 これで殺せないはずがない。

 確殺の確信が脳をとろけさせる。


 満面の嬌笑を浮かべるシルティ眼前で、棘海亀がぐるんと回転した。

 甲羅に生える鋭い四本の棘で物体を切断するかのように、背腹軸はいふくじくを中心として一回転。逃れようと四肢を羽ばたいた反動だろう。棘海亀に許されるのはもはや無意味に足掻あがくことのみ――。

 突如霊覚器を染め上げた虹輝の弧閃。

 物質眼球には映っていない。

 足掻きではない何かが来る。


 咄嗟に起こした刀身の鍔元に硬質な衝撃。圧は弱い。腰の入っていない横薙ぎの斬撃を受けたような感触だ。巨大な奔流を一心に背負うシルティを弾くことはできない、が、左耳から鼻梁を通って右耳まで、一直線に斬り裂かれた。

 どうやらは直角に受けただけでは止められないらしい。〈永雪〉で受けた点で分断され、二つの斬撃となってそのまま直進したかのような傷跡。いわば斬撃だ。

 傷を受けたのは目のすぐ下だ。傷はなかなかの深さ。鼻梁びりょう中程なかほどがざっくりと。頬骨きょうこつは完全に割断されており、上顎洞じょうがくどうにまで達していた。距離による減衰が大きいのか、最も離れていた耳介の傷は浅い。

 噴出する鮮血。真空と血圧の圧力差がより甚大な出血をもたらした。だが、もはやそんなことはどうでもいい。

 間合いに獲物が入っている。殺さなければ。脊髄反射に近い殺意が思考を省略させた。

 爛々と輝く両目を見開き、右肩を。最小限の動きで最大限に生み出した関節の力を腕と〈永雪うで〉に流し込み、真空すら斬り裂けそうな必殺の左袈裟を放った。


 正体不明の斬撃を繰り出した直後の棘海亀に、これを避ける余裕はなかった。

 銀煌の刃は棘海亀の左脇腹に命中。頑丈極まりないはずの甲羅にするりと滑り込み、呆気なく逆側から抜ける。

 胴体部の両断。完全な致命傷だ。こうなれば四肢竜だとしても死ぬ。

 直後、シルティは自らが作り出した筒の底と海水の奔流に挟み潰された。


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