第214話 三度目



 海底を蹴って加速。

 身体を滑らかに動かし、シルティは獲物へと接近した。

 水中をゆっくりと泳ぐ海亀ウミガメの斜め上を陣取り、まずは遠巻きに観察する。


 それは非常に特徴的な姿を持つ亀だった。

 なんというか、物凄く、している。

 亀の背甲(甲羅)の外延部には、頸部を守る項甲板こうこうばん、尾を守る臀甲板でんこうばん、そして左右十一枚ずつの縁甲板えんこうばんと呼ばれる鱗が並んでいるのが基本だ。

 この海亀も鱗の配置自体はこれに則っているが、そのうちの二対四枚、ちょうど四肢の根本に位置する縁甲板が反りかえり、かつ放射状に鋭く伸長していた。その他の縁甲板は滑らかなので、上から見ると大きな円板から十字に棘が生えているようにも見える。


(かっこいい形。やっぱり、知らない海亀だ)


 霊覚器が捉える生命力の密度からして間違いなく魔物。

 だが、ここまでわかりやすい特徴があるのにも拘らず、シルティはあの海亀を知らなかった。

 現在地から港湾都市アルベニセまではフェリス姉妹の徒歩換算で一か月ほど。一般人、例えばエミリアなどの徒歩で換算すれば三か月弱はかかる。海棲生物の分布が切り替わるには充分な距離だ。アルベニセ付近には現れない魔物なのだろう。


 四方の棘を除けば、完全海棲の亀の例に漏れず扁平で流線形な甲羅。黒褐色の地に黄色の霞がかかったような色合いで、隆条キールはない。甲長こうちょう(甲羅の正中直線距離)はシルティよりも大きく、父ヤレックや革職人ジョエル・ハインドマンほどもあった。シルティが見た中では最大の亀だ。

 甲羅以外の部位は黄色で縁取ふちどられた黒褐色の鱗で覆われている。頭部は大型でくちばしは尖り、先端は猛禽の類のように鉤状に曲がっていた。かなり鋭そうに見えるし、咬合力も強そうだ。肉食だろうか。


 ヒレ状に変形した四肢は大きく幅広で、前肢の鉤爪がやや目立っている。四肢の真上に棘状鱗があって動き難そうに見えるのだが、全く問題なく優雅に羽ばたいていた。絶妙な仰角ぎょうかくが付けられているおかげか意外と邪魔にはならないらしい。


(んふ。陸の亀はいっぱい斬ったけど、海の亀を斬るのは初めてだなぁ……)


 仮称、棘海亀とげウミガメ

 亀の最大の特徴と言えるのはやはり甲羅だろう。大抵の種は脊椎と肋骨が一体化した強固な骨甲板こつこうばんの上を硬質な角質(鱗)が覆うという二重構造であり、自然界では最高峰の防御力を備えている。

 人類種で言うと肩甲骨や骨盤が肋骨に包まれているようなものなので肢帯したいの可動域が狭く、どうしても動作は鈍くなりがちだ。しかし、彼らにとっても甲羅は自慢の装備らしく、多くの亀類は生命力の作用が甲羅のに偏っている。

 不変化とはつまり、あらゆる外的干渉の拒絶。

 物理的強度はもちろんのこと、強大な亀になれば魔法の影響さえも弾くことができる。

 種によっては四肢竜にも比肩しかねない堅固さを誇るのだから、動きの鈍さなど問題にはならない。


 ゆえに、シルティは亀が大好きだ。

 相手の自慢防御力をこちらの自慢攻撃力で突破する。これほど気持ちのいいことはない。

 まあ、海亀の類の甲羅は陸棲のものと比べると比較的柔らかいことが多いらしいが、こちらも水中という満足には動けない環境である。

 容易く斬れるとは思えない。

 容易く斬れるとは思えないからこそ戦意は燃え滾る。

 と、自らに注がれる熱い視線を感じ取ったのか、棘海亀は進路を変えて遊泳速度を上げた。


(んぬっ)


 慌ててシルティも速度を上げる。

 のんびり優雅に泳いでいる印象の強い海亀たちだが、あれは彼らなりに効率を重視して泳いでいるだけで、その気になれば速く泳ぐことも可能だ。生命力に溢れる魔物の海亀となれば尋常な陸上動物では追い付けない。現に今も、追い縋ろうとするシルティからぐんぐんと離れていっている。

 もっと速度が必要だ。

 体重を操作。水に負けない程度に軽く。四肢を折り曲げて溜めを作りつつ、魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』を発動。水を蹴ると同時に全身を覆う十二枚の飛鱗を掌握し、分離させないまま操作した。

 肉体で足りない分を超常の要素でおぎなえるのが人類種の強みである。


 ストローを吸う。嚥下する。呼吸。海水を腕で掻き、脚で蹴る。飛鱗を操作して加速。

 体重操作に生来の魔法と外付けの魔術、合計四種の超常を駆使して速度を獲得。

 シルティは鎧下や革鎧をはじめとする諸々の装備を纏っており、その身体はとてもではないが流線形とは言えない。乱れた海水が渦を巻き、貫く物体の速度を著しく奪う。生命力の消費が馬鹿にならない。

 だが、無理をした甲斐はあったようだ。速度差は逆転。彼我の距離は見る見るうちに縮まった。


(よし、届くッ!)


 右腕を折り畳んで〈永雪〉を身体に引き寄せる。頬に峰が触れるような刺突の構え。刺傷は魔物に対し効果的とは言えないが、水中で速い攻撃を繰り出そうとすれば斬るのではなく突くことになるのは必然だ。

 たとえ突き刺してから手元をひねり、傷口を最大限にえぐったとしても、強大な魔物にとっては軽傷。そう時間を駆けずに治癒されてしまう。

 刺殺のために大切なのは脳や心臓など致命的な部位を正確に狙うこと。


 海亀の類は頭部を甲羅に仕舞うことができない。ならば当然、狙うべきは頭部だ。しかしもちろん、シルティが選ぶのは心臓である。

 どうしても硬い甲羅ごと貫いて殺したいのだ。ここは合理より情熱を重視する。

 シルティは海亀を食べたことはあっても解体した経験はない。が、内臓の配置は陸棲の亀と大差ないはず。心臓があるのは第二椎甲板ついこうばんの辺りだろう。


 魔術『操鱗聞香』の出力を振り絞る。

 木製ストローで補給する生命力と二つの魔道具が消費する生命力、後者が前者を圧倒的に上回り、シルティの身体を寒気にも似た虚無感が襲った。

 久々の感覚に、シルティの唇が緩む。

 死に近付く感覚こそが快感であると刷り込まれた蛮族の身体は、それを呼び水として莫大な熱量を生産するようにできているのだ。

 左腕を大きく伸ばし、両足はピタリと揃えて、自身に可能な最大効率で水を掴む。

 上空から獲物を強襲するハヤブサのごとく、シルティは急降下に移った。

 陸上生物の泳ぎとは思えない爆発的な加速を以てして肉薄。間合いに取り込むまで、あと四半拍。


(いけるッ!)


 必殺を確信。愛する〈永雪うで〉が燃え上がるような生命力で満ちる。

 そして視界が翡翠色に染まった。


「ガぼがッ」


 口から吐き出した空気が〈兎の襟巻〉の体積上限を超え、大きな泡となって視界を白く汚す。

 全身を激痛。皮膚表層だけではない。筋肉に浸透する激痛だ。

 気が付けばシルティの背中は大きく反り、肘と膝が勝手に畳まれ、手は拳を作っていた。シルティの意思ではない。噛み締められた歯が木製ストローを砕いていた。あらゆる筋肉がシルティの意志を離れて収縮している。呼吸すらも儘ならない。状況的に考えて棘海亀による迎撃だろう。


(こ、れっ、はっ)


 とても身に覚えのある感覚。

 九歳の時と十七歳の時、シルティはこれと同質の暴力を浴びて死にかけた。


(雷だっ!!)


 シルティが自身を襲う現象の正体を看破するのとほぼ同時に、前方で逃走していた棘海亀がくるりと反転、今度は向こうから接近してきた。襲撃者が動けなくなったということを完全に理解した動きである。やはりこの雷らしきものは棘海亀の仕業らしい。

 棘海亀は何かを確かめるように鼻先でシルティの身体をつつき、肌が大きく露出していた左足に噛み付いた。ぶつり。鋭い痛み。刃物のような嘴はシルティが全力で強化する皮膚を容易く突き破る。肉が中足骨ちゅうそくこつに沿ってこそぎ落とされ、青い海中に赤い靄が広がった。

 幸いと言うべきか、骨を砕くほどの咬合力は持ち合わせていないようだ。そしてやはり、予想通り肉食らしい。


「ぎッい、ィ」


 水中で歯軋はぎしりにも似た声を漏らす。

 これまでの生涯で二度あった落雷の記憶。

 九歳の頃、雨宿りに使っていた木に落ちた。

 十七歳のあの日、意気揚々と斬りに行ったら眩しくて失敗した。

 どちらの逢瀬でも衝撃は一瞬だったが、今回の愛撫は少々ようだ。

 動けない。痛みが引かない。肋間筋ろっかんきんや横隔膜が持続的に収縮し、肺腑が押し潰される。


「ぃッ、きヒッ、ひひッ!」


 食い縛った歯の隙間からガボガボと気泡を漏らしながら、シルティは笑った。

 深く集中したシルティの眼球は天雷てんらいの軌跡すら目視する。そして、本質的に魔雷まらいは天雷よりも遅い現象だ。たとえそれが雷竜ブロントの『投雷とうらい』だとしても斬れる自信があった。

 しかし今、シルティは為す術もなく、長々と感電している。


(光らない雷かッ! めっちゃいいな!)


 空気中を貫く雷は大気を白熱させながら進む。天雷であっても魔雷であってもそれは変わらない。だが、棘海亀の放っている雷は全く見えなかった。全開に研ぎ澄ませている霊覚器ですらだ。

 完全に無色透明な雷とは、なんと素晴らしい暴力なのだろうか。

 しかしながら、威力の面ではやはり天雷には遠く及ばない。


(息は、できる!)


 物凄く痛いし、筋肉もギリギリと収縮させられているが、深層に存在する横隔膜は辛うじて動く。ならば、呼吸は可能だ。

 問題は、感電の衝撃で木製ストローを噛み砕いてしまったこと。このままでは生命力を補給できない。即座に生命力が枯渇することはないが、長くは持たないだろう。肉を食われて失血で死ぬより先に制限時間が来る。その前になんとかしなければ。

 横隔膜を酷使、全力の腹式呼吸。

 敵は視界の外にいるが、現在進行形で肉を啄まれているのだ。位置は把握している。魔術『操鱗聞香』を発動。三枚の飛鱗を射出して棘海亀を狙う。

 会心の不意打ち。

 だが、空振からぶった。


(んっ!?)


 棘海亀はシルティが飛鱗を射出するより一瞬早く捕食を中断していた。巨大で扁平な身体を亀とは思えぬ速度で翻し、そしてシルティに目もくれず、悠々と離れていく。肉食ではあるが、積極的にこちらを襲う気はないらしい。

 と同時に、シルティの身体を襲っていた激痛が治まった。無色透明の電撃魔法にも射程というものは存在するようだ。


(まさか、今のを躱されるとは……)


 口内に残る木製ストローの破片を咀嚼し嚥下しつつ、シルティは遠ざかっていく棘海亀に視線を向けた。

 シルティの飛鱗は根本的に初見殺しの要素を孕んでいる。野生の動物がシルティを見て『鱗を飛ばしてくるかもしれない』と思うことはないだろう。あの琥珀豹ですら腹部を斬ることはできたのだ。単純な反射神経による回避ではない気がする。熟練の戦士にこちらの動きを読まれたような気配があった。


(くふっ。絶対、斬りたい)


 首元に手をやり、〈兎の襟巻〉を解除。途端、口元を覆っていた空気がほどけ、千切れながら海面へ登っていく。ストローはもうない。がぶがぶがぶと海水を直接飲み込み、全力で生命力を補給する。

 再度〈兎の襟巻〉を起動。水中での呼吸を復活させた。


 この生命力が尽きる前に、斬ってみせる。

 シルティは爛々と輝く瞳で棘海亀を凝視し、再び加速した。


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