第213話 魚突き
かつてのレヴィンが持続性を全力で重視した珀晶の寿命は、太陽の巡りでおおよそ拳四個分程度(※二時間半と少し)だった。そのため、夜間に何度か起きて足場を作り直す必要があったのだが、八か月弱ほど経った今では拳七個程度まで向上している。夜間の起床は一回で済むだろう。
低気温に悩まされることもないし、食料についても多少は現地調達が可能。今のレヴィンならば嵐だって簡単にやり過ごせるはず。万が一大きな波が発生したとしても呑まれない高さを保っていれば、警戒すべきは魔物たちの襲撃だけである。
適当な地点でローゼレステが魔法による探査を行ない、見つからなかったらレヴィンが生成する足場を使って移動、再び探査。これの繰り返しだ。
ローゼレステの探査範囲がおおよそ直径二百歩ほどなので、探査抜けが出ないよう、探査の間隔は全て百四十歩ほどに固定する。
入り江を
そこで、直線を基本とすることにした。弧を描くのに比べれば直線を描くのはとても簡単だ。毎回の足場に背の高い目印を作っておき、時折振り返ってそれらを重ねながら進めば、そう大きくずれることはないだろう。
入り江を抜け出た地点を基準とし、まずは東へひたすらに直進。気が済んだら少し北へずれ、西へ折り返す。これを繰り返すことで徐々に沖合方面へ探査済み領域を広げていく。
一日が経ち、二日が経つ。
成果はない。
気の遠くなる作業が始まった。
◆
捜索を開始して十一日目、早朝。
箱型に生成された珀晶の中、フェリス姉妹が寄り添って眠っていた。シルティの頭は妹の左側胸部に軽く乗せられており、レヴィンの左前肢は姉の肩口から背中にかけてを掴んでいる。お互い背中には〈冬眠胃袋〉が接続されているため、向かい合った状態だ。
シルティがレヴィンの胸郭を枕にしているのか、レヴィンがシルティの身体を抱き枕にしているのか、見る者によって解釈が分かれそうな光景である。
ちなみに、ローゼレステは居ない。
と、シルティが静かに目を覚ました。
もぞもぞと身体を
無雲ではないが晴天と言える天気。風は穏やかで、海は凪いでいる。
視界の端から端までを横切る水平線を眺めつつ、蛮族の娘は感慨深げな溜め息を吐いた。
(海の上で十八歳になるとはなぁ)
今日はシルティの誕生日。
この地に漂着した頃は十六歳だったのに、月日が過ぎるのは早いものである。
ちなみに、蛮族には生まれた日を祝うような文化はない。蛮族が祝う暦日は年始くらいのものだ。しかし、シルティの母ノイア・フェリスは集落外の出身。嫁入り後も外の文化を捨てることなく
十七歳の時は完成した
(うーん、広い)
首を回して背後に視線を向ければ、水平線ギリギリの位置に陸地が見えた。十日ほど探索しているのにまだこの位置。あまりにも果てしない。本当に気の遠くなる作業である。
考えたくはないが、見つかる頃にはさらに一つ二つ年齢を重ねている可能性だって充分にあるのだ。
(でもまあ、ローゼの時よりはマシかなぁ……あの時は曇りの日しか探しに行けなかったし……)
もう一つ溜め息を零したあと、シルティは腰の後ろ側で手を組んだ。
胸を大きく張りながら手を後ろへ突き出す。次は身体の前で手を組み、背中を丸めながら前で突き出す。右腕を頭上に、左手で右肘を保持し、身体を左へ倒す。同様に右手で左肘を保持し、身体を右に倒す。腕を真っ直ぐ前に伸ばし、逆側の腕で伸ばした腕を首元へ引き寄せる。
ストレッチはシルティの日課だ。野外でこそ入念に行ない、身体の凝りをしっかりと解しておく。
と、姉の動きを感じ取って意識が覚醒したのか、レヴィンがぬっと頭を起こした。腹這いの体勢のまま大口を開け、盛大な欠伸を披露する。
「おはよ」
目の上の
尻を高く上げながら両前肢を前に伸ばし、胸を床に付けるような姿勢へ。姉と同様にストレッチを
シルティはそれを視界の端で捉えつつ、荷物から水中呼吸用魔道具〈兎の
これはかつて空への旅の前に購入したものと同じ品物だ。ローゼレステの攻撃には耐えられなかったが、目を粉塵から保護すると同時に水中での視界も確保できる。
背中から〈冬眠胃袋〉を分離して足場に降ろし、両足を包んでいた半長靴と靴下を脱いだ。いざと言うときのために、革鎧は脱がない。
愛刀〈永雪〉をするりと抜き、鞘をレヴィンに預け、空いた左手に細長い木の棒を持つと、眼下の海原へ視線を向ける。
「じゃ、行ってくるね。獲れそうな鳥が居たら獲っといて!」
言うが早いかシルティは軽やかに跳び上がり、伸ばし揃えた足先から海中へ飛び込んだ。
◆
ザッ、バゥン。
重たい水音と共に視界が切り替わる。青みを帯びた静かな世界。シルティと共に水中に取り込まれた空気が無数の気泡となり、ぶるぶると細かく横振動しながら水面へ登っていく。
ここ数日でとても見慣れた光景だ。
海上旅行を始めてから、朝の潜り漁はシルティの新たな日課となった。
あと四か月も経てば二歳になるレヴィンだが、身体の成長はまだ止まっていない。おそらく完全な成獣となるには三年ほどかかるだろう。一回の食事量も増える一方で、今のレヴィンは食おうと思えばシルティぐらいは食べ尽くせる。彼女の腹を満たせるだけの魚を一度に取るのはかなり難しい。相当な大物を仕留めるか、漁網でも使って小型中型の群れを一網打尽にする必要がある。もちろん、漁網など持ってきていない。
つまり、食料が尽きてから慌てて漁に励んでも遅いということだ。日頃から魚を獲って食べ、持ち込んだ食料を節約しなければならない。
まあ、今はまだ陸地は近いので狩りに戻ってもいいのだが……沖合へ進出していけばいずれ間に合わなくなる。今後のために、今から練習しておくべきだろう。
首元に手を添え、〈兎の襟巻〉のスイッチである
(んぐ。相変わらず
体感できるほど急激に消費されていく生命力。残念ながら、〈兎の襟巻〉に強弱の調整機能はない。『周囲に存在する水を空気に変換する』『作り出した空気を心臓部の付近に固める』だけだ。固められる体積には上限があり、超過した分は制御を離れ、細かな気泡となって水面へ登っていく。
本来の『
漁兎は
とはいえ、水中での視界確保に
(さて)
シルティは左手に持っていた木の棒の先端をぱくりと咥えた。木の棒の長さは広げた手の親指から小指ほど。先端を咥えればもう片方の先端は固められた気泡を突き破り、海水に到達する。
これは適当な枝から作り上げた木製のストロー。縦に割って溝を彫り、断面を整えて合わせ、紐できつく縛った。構造的にはかつて作った〈
ぢゅー。ごくん。ぢゅー。ごくん。
海水を吸い込み、断続的に飲み込む。漂流中に散々味わった海水の味が口の中に広がった。しばらくは御免だと思っていたが、背に腹は代えられない。魔法『完全摂食』が勤勉に働き、消費した生命力を
〈兎の襟巻〉が作り出す特有の不味い空気を呼吸しつつ、
深青色の世界。中層を泳ぐような魚は見当たらず、多くの魚が岩場に隠れるように泳いでいた。その身体を保護色で隠蔽する魚たちも、霊覚器を使えば発見は容易である。
場所によっては密度が薄いこともままあるのだが、今日はポイントが良かったらしい。まさしく
深く潜水し、海底に到着。
魚たちが突然現れた
岩の影に身体を滑り込ませ、静止。自分が岩と一体化する心持ちで時が過ぎるのを待つ。
やがて、シルティのことなど忘れて間合いに入ってきた魚を、一閃。
水の抵抗を腕力で強引に突き破り、掬い上げるような
突然動いたシルティに驚いた魚が蜘蛛の子を散らすようにばらばらに逃げる。
(よしっ)
突き出した〈永雪〉をくるりと回し、仕留めた魚を手元へ。
この匂いに釣られて大型の
持ち込んだ紐を鰓から口に通し、腰のベルトと繋ぐ。このサイズをあと三匹は獲っておきたい。視線を巡らせ、次の得物を……。
(お)
陽光の刺し込む青い世界に、
上下に扁平な体つき、大きな
(見たことない
シルティは戦意に満ちた満面の笑みを浮かべた。
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